もえるまぼろし 弐

「全く苦労したよ。あちらに支所が出来るだの出来ないので、官話かんわが出来る奴が引っ張り出されたんだ」


 上海から帰国し、突然来訪した我が友人、新聞記者の関信二は、数ヶ月振りと言うのにいつも通りに堂々と庭先からやって来て縁側に腰掛けた。重そうな旅行かばんを携えているから、これは本当に家に帰らずここに寄ってくれたものらしい。


「そこで君のこの手紙だ。何を言っているのかとも思ったが、大いに役立ってくれたさ。俺は飽くまで内地に骨を埋めたいからな」

「確かに手紙を送ったが、僕の頼み事が君の進退とどう関わるんだ」


 関は眼鏡の奥の細い目をさらに細くして満足気に笑う。


「何、十年来の親友だが、熱病が頭に来てもう駄目らしい。酷い譫言うわごとを書いて寄越して来た。これは最期に顔を見て死に水を取ってやらねば一生の後悔だ、とまくしたてたのさ。お陰で第一陣として帰国できたよ。いや持つべき物は字の汚い友人だ」


 この男は友情の有難さを踏みにじる事にかけては天才である。死にかけにされた僕は苦笑するしかなかった。


「ところでだ、そこに何だか幽霊みたいに突っ立ってるお下げが居るぞ」


 と、親指で庭の隅を指す。そこには姪のみどりが影に溶け込むようにぽつんと立っていて、指摘された瞬間慌てて駆け寄って来た。


「淫行か。いかんな。俺が帰ってからにしろよ」

「馬鹿言うなよ。姪だ。手紙に書いたろうに」


 ははあ、あの櫛名田くしなだか、と得心した顔になる。姪はよくわかっていないような顔になった。


「叔父さん、この人は」

「前に話した上海帰りの友人だ。関と言う。見た目胡散臭いが、本当に胡散臭いから気をつけなさい」

「それじゃあ……」


 姪は目を大きく見開く。


「叔父さんの本命」

「その言い方は難があり過ぎないか」


 君は俺の不在に何を吹き込んだのだ、と言うような目で関がめ付けて来た。


「まあ、兎に角二人とも中に入れよ。きちんと話そう」


 僕は手招く。苦境の姪の難題をどうにかしてやらねばならないのだ。これだけは、僕の叔父としてのささやかな矜持きょうじだった。



「多少は聞いている。学校で絡まれたって話だろう。字が汚いんで、解読に時間は掛かったがな」

「字の事は良いだろう」


 関は僕の送った手紙を懐から取り出す。この男は……どうしようもない手前勝手だが、義理には堅い。必ず僕に応えてくれると、それだけは確かであると信じていた。果たして、大陸から戻るなり彼は僕を先ず訪ねてくれたのだ。


「面白そうな事になっているじゃあないか」


 悪魔の様に笑う。そして、関は何より好奇心のままに動く男であった。今回の件、実に彼好みの様相を呈している。首を突っ込まない訳が無いのだ。


「その後、また色々と展開があった。どうも怪人はこの子を攻撃して来る事にしたらしい」

「業を煮やして自棄やけになったかね。で、るきへる様とやらに守ってもらったか」

「るきへる様に一度。菱田君に一度。そうだね」


 僕の言葉に、関は目を瞬かせた。


「菱田の坊やも絡んでいるのか? おい、あいつ、きちんと手綱を付けておけよ。制動器ブレーキって物が無いんだからな」

「菱田さん、そんな駄目な人じゃあないです」


 姪が少々むっとした顔になる。どうもこの娘は……考え過ぎだろうか。


「駄目じゃないから困るんだよ。君も覚えておけよ。正義感を発動機エンジンにする人間なんてのは、いずれそのまま太陽に突っ込んで終わりだ。少し駄目な位が見てて丁度いいのさ……と、何の話だったか」

「るきへる様だね」

「ふん」


 関は僕が出した薄い茶を啜った。


「なあ、聞きたいんだが、そのるきへる様、学校じゃどの程度有名なんだ?」

「わかりません。私も今回初めて聞いて。先生は知らなかったみたい……ああ、でも」


 姪は今日出会ったと言う、火事の幻の話をしてくれた。新情報である。


「あの子はるきへる様の名前を呼んでいた」

「火事か」


 乾いた口調で関は流した。僕もその件については何も言わない。


「そうだ、俺は働き者だから、ここの前に本社に寄って、ついでに少し調べて来たんだ。明星で昔何か目立った事がなかったかとな。図書館の火事騒ぎ、丁度見つけたぜ」


 関は手帳を取り出す。


「五年ばかし前の話だな。別館図書棟にて出火の報あり。半ばにて消し止めらるるも、建屋内にて女生徒ひとり火に巻かれ死去せり、と」

「きっとそれがあの幻の人なんだわ」

「少なくともその頃にはるきへる様の話はあった訳だ」


 関は頁をめくった。


「で、その女生徒だ。耶蘇キリスト教の家の子で、自殺か事故かで随分と揉めたらしい。名前を岸園子」


 僕は耳を疑った。姪の顔を見る。姪は……唖然を通り越して見る見るうちに顔色が白く変わっていった。


「どうした?」

「それ、何か間違いでは無いですか」


 姪が食ってかかる。僕は顳顬こめかみを押さえた。


「絶対におかしい。そんな筈がありません」

「何だ、これは実際取材した奴に確かめたから……」

「関。その名前は……その」


 姪が俯く。その心情は理解出来る筈も無いが、酷く衝撃であったのは間違いない。


「翠ちゃんの友人だ。今、仲良くしている。そうだね」

「そう。だから、そんな筈は無いんです。昨日だって一緒に帰ったもの」

「同姓同名かも知れないよ」

「それならそれでも良いが、そいつはどういう奴なんだ?」


 関はいかにも疑う目で姪をじろりと見た。


「今回の件には関わっているのか」

「……一緒に帰って、るきへる様の話を、教えてくれて……」


 声がだんだんか細くなる。


「坂に閉じ込められた時は、二人で、二人で、お願いを」

「ど真ん中じゃないか」


 こういう時の関は酷く人情に乏しい。僕は眉をひそめた。


「無関係だと言う方がおかしい。そいつ、人間ではないよ。るきへる野郎の眷属か何かになっているのかも知れん。気をつけ給え。何か狙っている」


 姪は泣きそうな顔で唇を噛み締めた。


「全体俺は、怪人よりもそのるきへるの方が得体が知れなくて怖ろしいよ」

「関、その辺りにし給え」


 おっと、と関は口を噤む。僕は姪の細い肩を軽く抱いてやった。


「去年の春にお友達になったの」

「うん」

「私、私、それまで特に仲良しが居なかったから、嬉しくて」

「そうかい」

「最初から、何か悪い事を考えて私に近づいたの。それとも、段々悪くなっていったの。どちらでも、嫌だ」

「…………」


 僕はゆっくりとした速度で、肩を叩いてやった。腕の中の姪は、小鳥の様に震えながら、それでも僕にもたれず背筋を伸ばしているのが、何だかいじらしかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る