どようのできごと 弐
駅の辺りは人人人でごった返していた。列車の停止の事で、駅員に向けて怒鳴る人も居る。先の自動車はもう移動していたが、混乱の極みと言った様子だった。駅員が叫ぶ様に告げる。
「只今事故の原因を調査中であります。お待ち下さい、お待ち下さい」
私と菱田さんは、あちらこちらに行こうとする人の波を掻き分け、広場の道側、先ほどの事故の現場の辺りを目指す。私が押されて遅れかけると、菱田さんが腕を引いてくれた。
掴まれるのは二度目だ。案外と力の強い手だった。
「あった」
菱田さんが眼帯をずらし、目を細める。そうして地面に落ちた枝と、駅舎の方を交互にチラチラと見た。枝は奇跡的に誰にも踏まれずにあり、黄色い花は土埃に汚れても未だ可憐に咲いていた。
「……まだ枝に
少し
「どちらにせよ、あれは危ない。誰かが拾わないうちに——」
その時、母親に連れられた小さな子供が、おはな、と地面にしゃがみ込むのが見えた。菱田さんは人を押しのけて飛び出し、枝を奪い去る。
「おはな……」
「
快活に笑った瞬間、菱田さんは通り過ぎた男性の肘打ちを顎に食らい、
「大丈夫ですか」
「ああ、大丈夫。僕はほら、割りに小さいからこう言う事なんてしょっちゅうで……」
かと思えば、今度は後ろから頭をしたたかに打たれる。私も同じ位の背だけれど、人混みでこんなに苦労をした事など無い。
「菱田さん、その枝、捨てた方が」
「駄目だよ、そしたら別の人が被害に遭うだけだ」
ならせめて、ここを出ようと私達は道にどうにかまろび出た。菱田さんがその勢いで地面に転び、シャツを土埃まみれにした。それでも枝は離さない。
「どうする心算なんですか」
「弱ってはいる様だけれど、どうも不運を引き寄せているようだ。力を使い果たさせるか、それともどこかで焼くなり流すなり、処分するか」
「それなら、叔父の家に行きましょう」
どこからか飛んで来た石が、菱田さんの頭を打った。
「痛っ」
「菱田さん!」
「……先生にはいつもお世話になりっ放しだ。仕方がないか。急ごう」
私達は駅の混雑に背を向け、早足に歩き出した。
「疑ってる事があるんだ」
菱田さんは何かと物がぶつかったり、転びかけたりするところを、せめて頭は守ろうと腕で庇いながら呟く。
「これは、最初は君の物だった。君の言う通り、あのままなら君が車に
「心当たり……」
「君を
考える
「あります」
私は
「恋慕からの……逆恨み、なのかな」
果たして、彼は真剣な顔で話を聞いてくれた。
「厄介な相手と対峙していたんだな。大変だったね」
菱田さんの額には青い
私は泣きそうになって、我慢する為に酷い
「……どうにかすると言うか、しないと僕が保たない。行くよ」
叔父の家は、もう直ぐそこだった。
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僕が
「先生! お邪魔します」
「叔父さん、起きて!」
代わりに、庭先から本日二度目に出会うふたりが飛び込んで来る。菱田明彦君に姪の翠だった。菱田君は何があったのか、全身ずぶ濡れで服は汚れに塗れ、膝の辺りなど破けているし、あちこちに怪我をしており、惨事としか形容のしようが無い。姪はそんな彼を心配そうに見つめていた。
「……何……」
寝起きの辛さに目をしょぼつかせると、菱田君は棒の様な物を差し出した。良く見るとそれは
「こいつを燃やしてやりたいのです。場所と火を貸して下さい」
成る程、また何か面倒事を見つけて来たと言う事に相違ない。しかも、逃げろと忠告した姪まで巻き込んだ様だ。僕は重い頭を抱え、引き出しから
「庭にバケツがあるから、その中で燃やすと良い」
僕がやると家を燃やしそうだから、等と不穏な事を言い、菱田君は姪に
ともあれ、枝は古いへこんだブリキのバケツに放り投げられ、姪は中に
ゴウ、と音がして、見えない何か炎か風の様な物が吹き上がったのがわかった。それは直ぐに空気に溶け、力を失った。
「終わったかな……」
「終わったは良いが、菱田君。妙な物を家に持ち込まないでくれよ」
「違う。私が酷い目に遭いそうだったところを、菱田さんが助けてくれたの」
姪が口を引き結んで一歩前に出る。頑固な顔だ。この子がこういう顔をすると、もういけない。決して引く事は無いのだ。
「また何かあったのかい」
「危ないところでした。翠ちゃん、危うく酷い事故に遭うところだったのですよ」
自分の事の様に菱田君は熱弁する。何でも不可思議な力により害されようとしたところを、菱田君が未然に阻止し、代わりに自分が生ける
それは勿論感謝及び警戒をすべきではあるのだが——僕は僕で、この青年の闇雲な正義感に不安を覚えていた。彼は何にでも即勇んで飛び込んで行く。頼もしくもあるが、己の力量をきちんと測っての行動であるのかは毎回疑わしいのだ。
それは単に僕の心配性から来る物であるかも知れぬが……。
「まあ、翠ちゃんを守ってくれた件については有難う。だが、自分を少しは省み給え」
「いえ、これは累積したら酷い事になったまでで、ひとつひとつは致死と言う訳では」
「何でも良い、僕は君の事も心配しているのは忘れないでくれよ」
先生、と感極まった声を出される。この青年の目から見れば、きっと世界は僕の濁った視野の何倍も美しかろう。
折角なのでふたりに戸棚の金平糖を振舞ってやりながら、ふとひとつだけ、さらに気にかかる事を見つける。
姪の視線が何だか泳ぐ様に、菱田君の方を見ては逸らし、また見ては逸らしを続けている様なのだ。
まさか、な。そう思いながら、僕は目覚めの一杯を胃の腑に流し込んだ。
さて、これは後日の話だ。あの日一時止まっていた列車は
そして、ひとつの噂が流れた。何でも、周りは確かに人影が電車に向かって線路に飛び降りるのを見たそうなのだが、駅員が精査したところ、人のどんな死体の一部も見つからなかったと言うのだ。
只、ズタズタに避けた黒い外套だったと思しき布だけが、車輪に絡まって残っていたのだと、そう言われている。真偽は不明である。
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