第陸話 どようのできごと

どようのできごと 壱

 土曜日の午後は好きだ。授業が早いのもそうだけれど、真昼のからっと明るい帰り道、これから何でも出来そうで心が沸き立って来る様。

 私は最寄りの駅で降りると、さてこれからまだ寝ているかも知れない叔父を冷やかすか、それともサッサと家に帰って読みかけの本の続きを追うかと決めあぐねていた。

 駅を行く人々は何だかいつもより楽しげに見える。意味もなくあちらこちらを散歩するのも良いかも知れない、などと考え始めていたところ。


「やあ、みどりちゃん」


 突然、左手から声を掛けられる。私はびくりとしてばね仕掛けのようにそちらを見た。


菱田ひしださん」


 そこには眼帯姿の若い男の人が居て、明るい顔でこちらに手を振っていた。先日知り合った叔父の担当編集者、菱田明彦さんだ。


「お仕事ですか」

「うん。先生のお家に届け物があってね。翠ちゃんは……」


 菱田さんは不意にクスッと笑って、自分の頭の顳顬こめかみの辺りをトントン、と指で叩いた。私は自分の頭に手をやり……ハッと顔を熱くする。私の髪には、黄色い金雀枝えにしだの花枝が飾られてあったのだ。帰りに巫山戯ふざけて差してきたのだけれど、取るのをすっかり忘れていた。電車で沢山の人に見られたかと思うと恥ずかしい。

 私が素早くそれを外すと、菱田さんは似合っていたけどね、とまた笑った。そして、少し変な顔になって眼帯をずらし、私の手元をまじまじと、あの色の違う目で眺め出した。


「あの、何かありましたか」

「うん、一寸御免ちょっとごめん


 ぱっと枝が奪われ、次の瞬間にはそれは宙に投げられていた。花びらが一枚、外れてはらりと散った。瞬間。


 物凄い急ブレーキの音をさせ、車が一台駅前の広場に突っ込んで来た。周囲が悲鳴を上げる。枝がボンネットの上で跳ねた。轢かれたり跳ねられたりした人は居ない様だけれど、かすっただのいや当たっていないだの、その場に居た人と運転手の人が言い合いを始めた。


 ザワザワと騒がしくなる人々を尻目に、菱田さんは私に優しく言った。


「拾い物はあまりしないが良いよ。悪い物が憑いている事があるからね」


 それじゃあ。手を振って、ゆっくりと歩いて菱田さんは駅舎へと入って行く。私は、只々呆気に取られてその背中を見つめていた。



 菱田君か、と叔父は昼ご飯のつもりか、干し芋をもぐもぐと食べつつ片手間に酒を飲みながら、もそもそと教えてくれた。食べ合わせ等は悪くはないのだろうか。


「以前は真っ当な青年だったんだが、目をやってしばらくしてから、どうもあちら側だよ」


 まるで今が真っ当でない様な事を言う。


「何か見られただろう」

「花。何でも危ない物だったみたい」

「そう言う物が時々見える様になってしまったらしいね。あの左目だよ」

「色が少し違っていた」

「まあ、自業自得なんだが……どうも危なっかしくてね。心配をしているよ」


 優しくて良い人に思えたけれど、と私は首を捻った。優しくて良い人だから問題なんだ、と叔父は欠伸あくびをする。


「まあ、普通に付き合う分にはいい人間だよ。何か妙な事に首を突っ込もうとしたら逃げるんだね」


 ところで僕は朝が早かったから、そろそろ昼寝をしたい、と叔父はもごもごと言い出す。私は呆れながらその場を辞した。まだ日は高い。さて、何をしようかと思いながら。



 菱田さんと偶然にもまた出会ったのは、その後暫くして散歩がてら、母から買い物を頼まれた時の事だった。取り敢えず駅の方へ向かったところ、小さな緑地になっている辺りで所在なげにしているのを見つけたのだ。


「あれ、よく会うね」


 私が声を掛けると、丸い目をもっと丸くして驚いた声を上げる。


「どうなさったんですか」

「あの後ぐ、列車事故があったらしいんだ。まだ運行が止まっている。それで、歩いて戻るのも馬鹿馬鹿しくて、こうしてぶらぶらしてたところ」


 もうここを五周はしたよ、と苦笑する。花は咲いているけれど、椅子があるでもない場所だからそれは所在ない筈だ。


「事故……」

「嫌な話だよ」


 菱田さんは、なんだか物憂げに右目を伏せた。


「僕の所為せいかも知れない」

「え?」

「あの枝に絡みついていた嫌な物、あの自動車事故程度では消えなくて、そのまま乗降場に居た誰かに取り憑いて、そうして事故を起こしたのじゃないかと、そう思われて仕方がないんだ」


『そう言う物が時々見える様になってしまったらしい』


 叔父の言葉が蘇る。


「もしそうなら、申し訳ないどころじゃない」

「偶然かも知れないですよね」

「そうじゃないかも知れない」

「あの、でも、あのまま私があれを持っていたら、私が危なかったのでしょう」


 あの時は何も飲み込めなかったが、自動車は枝を目掛けて走って来た。少し遅ければ、私がねられていたかも知れないのだ。


「私の事助けてくれて、でも、お礼を言っていませんでした。有難うございます」

「良いんだよ、それは。見えたら動かないでは居られないんだ、僕は。……」


 そうして、少し考え込む様な顔をした。


「矢っ張り気に掛かるな。一寸戻って様子を見に行こうかと思うんだ。もしかして、枝にまだ残滓ざんしがあるかも知れないし」

「残滓」

「こびり付いている残りだけでも、人に転んで怪我をさせたりするかも知れないからね。君も来るかい?」


 まるで人を自転車乗りサイクリングにでも誘う様に軽く、菱田さんは私を招いた。


『何か妙な事に首を突っ込もうとしたら逃げるんだね』


 叔父はああ言ったけれど、私は好奇心が湧いて来るのを抑える事が出来なかった。そして何より、思ったのだ。


 もう少し、この少し不思議な人とお話ししていたい。もしかしたら、私の周囲の最近の奇妙な現象についても、何か相談が出来るかも知れない、と。


 私は頷き、菱田さんの横を歩いて緑地を出て行った。金色の午後、とでも言うべき、陽光の麗しい良い天気だった。



 ……だから私は、忘れていたのだ。あの枝に誰かが悪い細工をした可能性について。

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