ほんのなかみは 弐

「その本に触れてはいけないよ」


 男の人は、周りをはばかる小声でそう言って私の手を放した。私はおっかなびっくり腕を引っ込める。


「本に化けて、人を誘って生気を吸おうとする、そういう物なんだ。君が開いたら直ぐに昏倒してしまうところだった。危なかったね」


 男の人はそう言うと、サッとその本を取り出し、鞄に仕舞った。私はまだ半信半疑で、体の良い本泥棒ではないかとどこかで疑っていた。


「それ、本当の話ですか」

「疑うなあ。証拠を見せるには誰かが被害に遭わないとならない、証明は難しいな……」


 困った顔になる。


「先日ここで僕がこの本を実際に開いて、お陰で閲覧席で三時間眠り通しになったんだ。漸く今日捕まえられたのだけど……それじゃ証拠にならないかな。職員の人にも見られているよ」


 嘘をついている風でも無かった。私は渋々引き下がる。相手は笑って言う。


「どうも。酷い奴なんだよ。人の仕事を邪魔しやがって」

「お仕事、ですか」


 本の山を思い出す。研究か何かだろうか。


「編集だよ。本をね、作る側。さて、こいつはどこかでお焚き上げでもするとするよ。本の形だからどうも気が引けるけれどね。協力有難う。天使の研究、頑張ってね」


 私は思わず恥ずかしさでうつむいてしまう。人に自分の読む本を把握されていると言うのは、なかなかに辛いものだ。


 彼は、こつこつと足音を響かせ、去って行った。



----



 編集の菱田ひしだ君が、休日だと言うのに僕の家を訪ねて来たのには驚いた。僕は万年休みの様な仕事の様な物だからいいとして、超過労働ではなかろうか。


「この間、図書館で失敗をしたのの自主的埋め合わせですよ。大久保先生にお見せしたい資料も色々とありましたし」

「君、あまり働き過ぎると血管が切れるよ。程々にしておき給えよ」

「肝に銘じます」


 いつも通り片目に眼帯を付けた彼は、今度書く短編の参考にと次々と資料や図版を取り出して行く。ここまでは頼んでいないのだが、と呆れながら眺めていた。


「そう言えば、関さんは近頃お顔を見ませんが、お元気ですか」

「ああ、あいつは今出張でね。しばらく帰って来ないんだそうだ」


 騒がしい友人を思う。丁度頼みがある時に限って留守とは、頼りにならぬ奴だ。


「出張とはどちらに」

「上海だと」

「それはまた遠方に……」


 菱田君が最後に、一冊の黒い本を置いた。何だか気になってそれから見てみることにする。表紙も背表紙も、漆塗りの様な黒で、それ自体が美しい。中身は何だろうか。


「あっ、先生、先生。それは間違いで……!」


 僕は、はらりとページを開いた。



----



 結局本は借りずにおいて、昼過ぎに図書館を後にした。まだ時間があるなと少し考え、また叔父を訪ねることにする。調べた事や、なんだかよくわからない本の怪異について、少し話してみたかったのだ。


 駅から暫く土埃つちぼこりの酷い道を歩いて、入り口の前に差し掛かる。すると、中からどた、と何かが倒れる音と、大きな声がした。


「先生! 申し訳ありません! 申し訳ありません!」


 何だか聞き覚えのある声の様だった。私は戸を叩こうとして止め、木の間を通って庭の方に回り、様子を見る事にした。普段はあまり使わない、非常時の出入り口だ。


「ああ、もう、起きて下さい、先生! 困ったなあ……!」


 私はそっと、半分開いた障子から中を伺う。


「あ」

「あ」


 中に居た人と、目が合った。白い眼帯をつけた、幼顔おさながおの……。そして、その横では叔父がぐんにゃりと畳の上に倒れ、寝息を立てていた。


「違うんだよ、これは、ほら、さっきの本だ。あれを先生がうっかり気にして開いてしまって……。大丈夫、大丈夫! 夕方には目が覚めるはずだから!」


 先刻、図書館で会ったばかりのあの男の人は、大慌てで私にまくし立てる。私は驚いて良いのか、叔父を心配すれば良いのか、それとも呆れれば良いのか、もう何もわからずにただ立ち尽くす。

 叔父は、腹が立つほど気持ちが良さそうな顔で只管に眠り続けていた。



 叔父が目を覚ますまでに、この男の人が菱田明彦ひしだあきひこさんという人で、叔父の担当の編集だと言う事、そして私が叔父、大久保純の姪であると言う事を話し、お互い自己紹介をし合った。


 何だか劇的なようで実際のところ締まらない、これが私と菱田さんとの出会いだった。

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