てんしのつばさ 弐

 砂漠で、駱駝らくだの背に揺られる夢を見ていた。ひづめに蹴られた砂はきらきらと銀色に輝き、また地面に還る。月は綺麗な三日月で、その割に明るく辺りを照らしていた。


「……どこまで行くの?」


 ボンヤリと呟くと、駱駝は答えた。


「起きたかい。もうじきに家だよ」


 私はハッと我に返った。ここは砂漠ではなく、東京の住宅街だ。月は三日月で星が綺麗な夜。そして、私を背負って運んでいるのは駱駝ではなく、どうやら叔父の様だった。今日も叔父からは酒の匂いがする。


「無事で良かった。関がどうも嫌な予感がすると言い出してね」


 そうだ。関さんが何かを投げて、それで助かったのだった。


「多分札か何かじゃないか。あいつ、妙にその辺りの道具を持ち歩いているんだ」


 菱田さんはどうしたろうか。


「菱田君も無事の様だったよ。目が少しやられたので、今僕の家で休んでいる」


 どうして叔父さんは私の考えている事がわかるのだろう、とまで考え、口から思う事が全て漏れている事に気づいた。慌ててつぐむ。


「うんと心配していたからね。元気になったらまた顔を見せてやるといい」

「…………」


 私は目を瞬かせた。


「私、菱田さんとはもう会わない」

「何?」


 叔父が振り返り、前の電信柱にぶつかりかける。危なっかしい人である。


「何か嫌な事があったのかい」

「菱田さんは悪くない。私が駄目なの」


 私は怪人のやり口を思い出す。恋があんなに暴力的で気持ちの悪い物なのであれば、それを人に向ける事は罪でしかない様に思えた。あの手と同じ物を、私は自分で持っている。薄々感じてはいた事だ。


「……翠ちゃんは、彼の事を……」

「言わないで。お願い」


 私は叔父の肩をギュッと掴んだ。叔父は直ぐに無言になる。


「……叔父さん」

「何だい」

「叔父さんは、死にたいと思った事はある」


 物騒な響きに叔父は少し黙って、それから静かに言った。


「しょっちゅうだね」


 それは、妙に真実味のある言葉だった。


「私、それが今なの」

「僕が言うのも何だが、まだ早い様な気がするよ」

「わかってる。ねえ、叔父さんはそんな時どうしているの。どうやって我慢しているの」


 少し、遠回りしようか。叔父はつぶやいた。家はもうぐそこだったので、私はうなずいた。もう少しだけ、叔父と話していたかった。


「友達が助けてくれたんだ」


 叔父はそんな事を言った。友達、と言うのはなんだか大人の人が口にするには不思議な響きだ。


「お前はどうしようも無い奴だが、それでも居なくなっていい筈がない」


 誰かの口調を真似する様に、叔父はゆっくり言葉を紡ぐ。関さんだ、と思った。


「今も時々、鏡を見たりすると、そりゃああちら側に行ってしまいたくもなるさ。だが、まあ、奴がそう言うならもう少し生きてやらないでもない、とね」


 叔父の家の鏡にはいつからか、使わない時はいつでも布が掛けられているのをふと思い出した。曇るのが嫌なのかと思っていたけれど、もしかすると何かあったのかも知れない。


「私、そんな事を言ってくれる友達が居ない。園子さんも居なくなってしまった」


 そうして、自分で自分をゆるす事も出来ずに居るのだ。べたべたした不快感を引きずって。


「私が私を赦したら、あいつの恋情まで認める事になるわ。それも嫌だ」

「僕が赦すよ」


 叔父は静かに言った。


「僕が君を赦すから、君は好きに嫌な物を嫌だと言えば良い。君はここに居てよろしい」


 それは叔父らしからぬ断固たる口調だった。


「もっと手前勝手になって良いんだよ、と言っても中々飲み込めないだろうね。僕もいつも自分じゃ失敗してばかりだ」

「自分の事は棚に上げろと言う事?」

「そうでも良い。棚に上げるのが難しければ、僕が代わりに置いてあげよう。何しろ図体ばかりは大きいからね」


 叔父が笑うと、地面ごと揺れる様な心地がした。私は空を見上げる。まるで濃紺の天鵞絨ビロードに銀粉を撒いたような綺麗な星空だ。叔父の背の上は、いつもよりずっと星に近かった。


「まあ、話半分に聞いてくれたまえ。今も半ば冷や汗で言ってる様な物だから」


 私は叔父に甘えるように、最後の質問をした。


「叔父さんは、恋をした事があって」

「あると言えばある」


 今度は叔父らしい、曖昧な回答だった。


「もしかしたら、今もね」

「それでお見合いを断ったの」

「それもある」


 雨が降っていたから、と言っていた。それは何か、思い出の日の話なのかもしれなかった。


「あんまり短くて、良くわからなかったんだ。でも、きっと恋だったのだろうね。今でも思い出す程だ」


 まだ足りない。どんなに澄んだ水を注いでも、私の中のよどんだ矛盾と苦しさと不快感を拭い去る事は出来ない。だが、私は叔父の背中の上で、ほんの少し呼吸がし易くなった様な、そんな気がしていた。


「叔父さん、有難ありがとう。もう大丈夫。歩ける」


 私は下に降ろしてもらう。久しぶりに二本の脚で地面に立った心持ちがした。


「有難う」


 もう一度だけ言って、私達は並んで直ぐそこにある我が家の灯りを目指した。

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