帝都つくもかさね

佐々木匙

第零話 まいちるはなびら

まいちるはなびら

 満開を少し通り越した桜の花びらが、後から後から降ってきて、私達の服だの髪だのはたちままだらになってしまう。母はあら素敵だこと、だなどと笑っているし、弟は花よりも弁当をむさぼるのに夢中だ。父は半ば酔っておっとりと笑っていて、私、羽多野翠はたのみどりは――傍の木の幹にもたれてボンヤリと、馴染めないまま帝都の片隅にある公園の騒ぎを眺めていた。


 桜は好きだ。散りかけも悪くない。陽光は燦々と行楽の日和で、なかなかの場所を確保できた。家族仲も至って良好、周囲に迷惑な酔漢も居ない。

 何がいけないのだろうか、と花天井を見上げていると、ほら翠、また顔がむくれているよ、などと指摘を受ける。無愛想が私の商標トレードマークのような物だ。両親もその辺りはよくわかっているのだけれど。


 この耳にやたらに響く人々の笑い声がガンガンと私の思考を阻害しているのかも知れない。それとも、花の美しさにそぐわない酒精アルコールの香りがいけないのだろうか。

 ともかく、私は皆何が楽しいのかまるでわからないまま、途方に暮れた様な気持ちで制服を薄桃色の斑ら模様に染めていたのである。外からはえらく不機嫌に見えただろう。


 弟が、人混みの中に尋常科じんじょうかの友達を見つけて騒ぎ出す。母は彼を連れて挨拶に立った。父は、足が痺れたから少し歩いて来るよ、と立ち上がる。


「純君が来たら、そこいらに座って貰っていなさい」

「叔父さんが入ると随分狭くなりそうで嫌だ」

「我慢しなさいよ。折角せっかくの花見だ」


 私は肩をすくめ、そうして独りきりでまたボウッと違和感をたなごころに転がしていた。全体、桜もこんなに人があふれて楽しいものだろうか云々と。――その時だ。


「やあ。翠ちゃんひとりかい」


 首をぐるりと声の方に向けると、ひょろりと背の高い、少し猫背の人影が近づいて来たところだった。なんだかいつも情けなさそうな顔をしている、未だに独り者の私の叔父だ。名は大久保純。物書きをしている。


「皆何だかんだで出てしまってて。座って貰って待ってなさいって言われてる」

「娘さん残して危ないな。邪魔するよ」


 叔父さんは履物を脱ぐと、私の向かいに座した。矢張り大きい人が入ると急に場が窮屈きゅうくつになる気がする。


「叔父さん、お酒臭い。先に呑んで来たでしょう」

「それ程でもないよ……二杯ほど引っ掛けて来ただけで」


 叔父は酒豪であるのは良いのだが、大概いつもほろ酔いで居る。母などは随分肉体面の健康を心配しているのだが、聞く耳を持った試しが無いらしい。


「『精神の健康にはこれ位が良いんだよ』」

「先取りされてしまったな。まあ、そう言う事だよ」


 叔父は花を見上げて目を細める。


「しかし綺麗な物だね」

「うん」


 私は膝を抱え、気の無い返事を返す。


「何だい、翠ちゃんは桜は嫌いだったかい」

「桜は好き」

「花見が嫌いかね」

「…………」


 眉根を寄せ、この気分を何と答えたら良いのか考える。


「良くわからない」

「わからないのは結構な事だね。うんと考えなさい」


 置いてある酒を勝手に拝借して飲みながら、叔父が笑う。気弱で頼りない人だが、妙なところで堂々としている、変な人間だと思う。


 家族は帰って来る気配を見せない。辺りはざわざわと盛り上がり続け、私の所在なさは少しも埋まらず――ただ、妙な事に気付いた。


 何だか周りの人達が変だ。こんなに着物姿の人達ばかりだったろうか。しかも、男性陣はまげを結って、まるで昔の本の図版の中の人達の様だ。婦人方も酷く古風な髪型をしている。そんな人達が何十人もガヤガヤとそこらに溢れて、花見だ酒だと騒ぎに騒いでいるのだ。


「叔父さん、何だか……」

「うん」


 叔父が神経質に目を瞬かせた。同じ物が見えているのだろうか。


「あまり気に掛けないがいいよ」

「でも、おかしい。何がどうなっているの」

「幽霊の類では無さそうだ。それなら、僕らを誘い込もうとしているあやかしか、或いは――」


 ブツブツと叔父は怪奇物の筆者らしくそんな非科学を言う。人々は嬉しそうに浮かれ騒ぎ、踊っている者も居る程だ。


「この場の記憶」

「記憶?」

「幻みた様な物だよ。僕も話に聞いた事があるきりだ。何もしない。ただ、惑わせるだけだと」


 私はぐるりと見渡す。つまり、百年かそこら前の様子が、幻燈のように辺りに映し出されていると言う事だろうか。


「いつの時も、皆変わらない」


 なんだか急ぐように楽しんでいて、私はその中でひとり取り残されている様で――。


「でも、桜は喜んでいるのかしら」


 昔から変わらぬ人々の様子を何時迄も覚えているほどに、これは幸福な記憶なのだろうか。だとしたら、私も少しは救われる。


「さて、どうだろうね。聞いてみる訳にもいかず」


 ぐい、と叔父は何杯目だかを飲み干す。その辺りから周囲の風景は徐々に薄れて、今の人々が帰ってきていた。矢張り変わらない煩さで。


「喜んで見えたならそうだと信じるしかない。そう言う物だよ」

「そう言う物なのね」


 私は鸚鵡おうむ返しをすると、お下げにした髪を払った。ひらひらと花びらが敷物に落ちて行く。私はこの叔父が、案外と嫌いではなかった。


 やがて、父がふらりと戻ってきて、叔父と挨拶を始める。母と弟もじきだろう。私はまだ所在ないまま、それでも少しだけ満たされた気持ちで、薄紅色の空に微かな笑みを向けた。



 私が叔父と一緒に怪異じみた物を眺めたのは、これが最初の事だ。これから、そんな出来事の幾つかを語っていきたいと思う。

 出来れば楽しんで貰えたら良いのだけれど。

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