第壱話 くろいつまどい

くろいつまどい 壱

 夕暮れ、辺りがとっぷりと暗くなる前に叔父の家に着けたのは僥倖ぎょうこうだった。閑静な、背の低い家々の立ち並ぶ通りを足早に歩く。時折後ろを気にしながら。

 家の前に来たところで、偶々たまたま外に出ていたらしい着流し姿の叔父の、頼りなさげに傾いで歩く姿が目に入った。良かった。私は柄にもなく、もう少しで涙が出そうになるのを堪えて叔父の元に駆け寄った。


「叔父さん、一寸ちょっとお家に入れて欲しいのだけれど」

「構わないが、こんな時分に何の用事だい」


 私は今来た道をチラリと見、あの影が居る事を確かめてからささやき声で言った。


「おかしな人がずっとついて来るの。ね、早く。お願い、助けて」



 三日程も前の事だ。私はここのところ、委員の仕事で帰りの時間が遅くなっていた。ひとりで薄暗くなった空の下を帰るのは怖くもあったけれど、どこか冒険めいて、気持ちが沸き立つ様でもあった。

 そこに、あの影は現れたのだ。


 初めは、時折視界に何だか黒い格好の人が映るな、と思う程度だった。見かけたのも女学校の近くで、電車に乗ってからは姿が見えなくなっていたので、気に掛ける程もなかった。だが、それが毎日続いた。黒い影はついに電車を降りて、家に向かおうとする私の後をひたひたと静かについて来るようになったのだ。

 私はまさか自分が不審の人、もしかすると人攫ひとさらいか何かに狙われるとは、と戦慄し、今は仕事で不在の父を思った。家には母と幼い弟がいるばかりだ。誰か味方が欲しかった。交番は影に気がつく前に通り過ぎてしまった。戻るには私の後ろをぴたりとついて来るあの影の方に歩み寄らねばならない。


 どうしよう。気持ちは只管ひたすらに焦り――そうして私は叔父の家にやって来たのだった。いかに普段万年筆と杯より重いものは持たない身とは言え、立派な大人の男の人だ。きっと守ってくれる。きっと、多分、恐らく、まあひとりよりは幾分か良いはずだ、と。



「それでここに来たのか」


 叔父のどこか途方に暮れたような声に、私は頷いた。部屋の脇には万年床が敷いてあり、周りにはよくもまあここまでという量の酒瓶がごろごろと転がっている。


かく怖かったから」

みどりちゃん。大人の男の人だからと言って、即悪いやからを退治出来る物ではないんだよ」

「わかっています。だから、しばらくここに置かせてもらって、それで、家まで送るか交番に一緒に行くかしてくれないかしら」


 叔父は障子を細く開けると、外の様子を伺った。生垣の向こうに、あの影があった。黒い外套がいとうに、目深に被った黒い帽子。いよいよ黄昏に沈みそうな景色に、その姿は如何にも怪しかった。


「心当たりは」

「何も無い」


 私はかぶりを振る。叔父はそっと障子を閉め、心なしか青ざめた顔でこう言った。


「兎も角、暫くはここに居なさい。あれが諦めてくれるなら有難いが……」


 そうして少し、何かを言おうか否か逡巡しゅんじゅんする様子を見せる。引きった様な目元には何か、恐怖の影のような物がちらついていた。


「これは、見間違いかも知れないが」


 叔父は障子越しに外を見やる。私はごくりと唾を呑んだ。


「あの帽子の下――顔が無かった様に思えてならないんだ」

「えっ?」


 私は目を見開く。どういう事だろう。


「顔があるはずの場所に何も無い、ただ透明な空間だけがあった、そんな風に見えた。翠ちゃんはしっかり見たのかい」


 首を横に振った。怖くて、ただ横目でチラリと見るのが精一杯だったのだ。突拍子も無い言い草ではあったけれども、この叔父ならばもありなんというところでもあった。感覚が鋭く、そのせいかいつも鬱々うつうつと怯えているような目をしていて、その癖見てきたように怪奇を記す、この叔父ならば。


 私は改めて震え上がった。


「何か、怪しい物なの」


 私の問いに、叔父は頭を掻き毟った。


「有り得なくは無い。ただ、ああ、それだとまずいな」

「拙いって何が」

「あいつがどんな出自の物かは知らないが、怪異と言うのは大概、一度こうと定めたら、曲げる事を知らない。何時迄いつまでもあそこで待っているかも知れない」


 まるでよく知っているような事を言う。


「困る。その内お母さんが心配してここに来るかも知れないし、そうしたら鉢合わせよ。電話でもあれば良いのだけど」

「無いよ。そんな物があったらここぞとばかりに仕事の催促が来る」


 話していてもらちが開かず、外はこうしている間にもしんしんと暗さを増していく。私は弱り切って、頼みの綱の叔父の顔を見た。


「叔父さん、あれは真実ほんとうなの。叔父さんの本の中の話は、叔父さんがじかに遭った事だって言うのは」


 叔父は困った様な、嫌そうな様な顔をして私を見返した。私は取り繕う。


「噂よ」

「君までそう言う……あれは、その。あったと言うか、何と言うか……」

先刻さっきも何か言っていたし、ああ言う物に詳しいのではなくって」

「詳しくは無いよ。詳しいのは友人だ。僕はただ、その後ろにくっついて悲鳴を上げていただけだよ」

「それじゃあ、陰陽師だとかみたいな力があったりはしないの。法力で退散させたりだとか、そういうの」

「僕は君の叔父だぞ!? 尋常じんじょうの人間に決まっているだろう。でなきゃこんなに怯えたりはしないよ」


 がっかり、と呟いたら、叔父はそれはそれで傷ついた様な顔をした。良い年をして、薄玻璃うすはりの器か何かの様に取り扱いの難しい人だと思う。兎も角、無い物は無いのだから、超常の力でどうにかして貰う方策はついえてしまった。


 その時、どん、と大きく何かが叩かれる鈍い音がした。どん、どん、音は続く。戸を叩く音だ。誰が? 恐らく――あの影が。私達は顔を見合わせた。


「瓶を持っていなさい」


 叔父が低い声を出す。


「何かあったら、それで相手を殴るんだ。いいね」

「叔父さんは」

「逃げる」

「一寸!」


 勝手口の方に行こうとするところを、袖を引っ張る。


「それは幾ら何でも酷くはない!」

「わかっているよ。ちゃんと一緒に逃げるとも。だが自然、僕の方が足が速いかも知れないと言う……」

「そこは全力で走らないでよ。置いて行かないで!」

勿論もちろんだとも。ただ怖いんだよ、わかってくれよ」


 戸はなおも不穏な音を立て続けている。私と叔父は履物をコッソリと取ると、順番はさて置き勝手口へと急いだ。互いに目を見交わし、人差し指を唇の前に立て、そうしてそうっと戸を開き――。


 そこにはあの影が立っていた。


 黒い外套に黒い帽子。うつむき加減のその顔は――成る程、何も無い。後ろが透けて見えていた。無いと言えば脚も無い。ただふわふわと外套が中空に浮き、人のように見せているだけだ。


 化け物だ。私は顔を引きらせて一歩下がる。叔父は同じく冷や汗顔で固まっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る