くろいつまどい 弐

 暗がりが辺りを覆い尽くそうと言う頃合い、街灯の頼りない灯りの下、その人影は、ゆっくりとこちらに近づいて来た。玄関からは未だ、戸を叩く音がする。家の中に戻ってもきっと出口は無い……が、叔父は喉から変な声を出してそのまま中へと駆け込んでしまった。私は唖然あぜんとしたまま、ひとりその場に残される。恐怖が私の足をすくませ、止めた。


「今晩は、羽多野翠はたのみどりさん」


 首を傾げるようにして、人影は私に挨拶をした。


「あなたは誰」


 声が上ずっておかしく聞こえるのは、心臓が早鐘の様に打っているからだ。落ち着きなさい、と私は自分に言い聞かせた。


「あなたの好きな様に呼んで下さって結構」


 男とも女とも判別の付けにくい、どちらかと言えば耳障りの良い声だった。


ただ、聞いて頂きたいだけなのです。私はあなたに」


 ヒュッ、と耳元を何かが通り抜けて行った。次の瞬間、相手の黒い帽子が吹き飛んで地面に落ち、派手な音を立てて何かが割れた。あれは……酒瓶だ。叔父がいつの間にか戻って、わたしの横で険しい顔をして立っていた。彼が投擲とうてきした物らしい。


「叔父さん……」

「効いていない」


 叔父は呟く。帽子が飛んで、その下の透明の顔があらわになっても、相手は意にも介していない様だった。まるで首無しの死体の様な姿で言葉を続ける。その様子はまるで現実の物とは思えない、脳髄が掻きむしられるような気色の悪さがあった。


「……恋い焦がれて居ります。どうか私と来て欲しい。あなたの居場所を彼岸に作りましょう」

「何、それ」


 思わず蹌踉よろめいた。叔父が肩を支えてくれる。私は手の暖かさに、一瞬とは言え叔父の行動に呆れた事を恥じた。


「学校であなたをずっと見て居りました。教室でひとりで居るところ、図書館で本を読んでいるところ。ずっと見ているうちに、いつしか私の中にあなたが居るようになりました。あなたが欲しい。それで、こうして迎えに来たのです」

「この子は……」

「止めて!」


 叔父の声をさえぎり、私は甲高い悲鳴を上げた。自分の声が自分で嫌になって耳を塞ぐ。


「き、気持ちが悪い。何、あなた。何だかは知らないけど、勝手に見ないで。私を見たりしないで。それで、勝手に自分の中に私を作らないで。気持ち悪い! 気持ち悪い!」


 私は、無理矢理に押し付けられた恋慕の情に吐き気がしそうになりながら叫んだ。胃のがチリチリと焦げる様な気持ちがした。


「翠ちゃん」

「何が恋よ、そんな嫌な物を私に押し付けないで。嫌い、嫌い。どこかに行ってしまって」

「翠ちゃん」

「嫌だ。怖気が立つ。破廉恥はれんちで不快だわ。近寄って来ないで」

「翠ちゃん」


 叔父が押さえつける様に私の肩に手をやった。


「もう居ない」

「……え?」


 見ると、地面には黒い外套がいとうがばさりと落ちかかり、風でひらひらと揺れていた。


「余程君の言葉が衝撃だったのかも知れないが、消えて――否、元から消えてはいたのだが――居なくなってしまった様だ。気配も無い。ただ、『見ていなさい』とだけ言っていた」


 玄関の物音も止んでいた。辺りはただ静かに夜になろうとしていた。私は力が抜けてしまい、しゃがみ込む。


「僕は硝子ガラスを片付けているから、少し中で休んでいなさい。元気が出たら送ろうね」


 私はうなずくばかりだった。叔父はそんな私の背中を支えて、家へと連れて行ってくれた。



「君は、なんだ、その、吃驚びっくりしたよ。あんな言い返し方をするとは思わなかった。相手も退散してしまった様だし……」


 叔父が部屋に戻って来ると、遠慮がちにそんな事を言い出した。


「強いね」

「そんな事はない、と思う」


 首を振る。


「尋常小学校の頃よ。私の事を好きだって男の子がいたの」


 私は膝を抱えて壁に寄り掛かり、ぽつぽつと話を始めた。


「初めは、それは嫌じゃなかったけれど、隠れんぼか何かでふたりきりになった時、その子が私の身体をべたべたと触って来たのを覚えているわ。気持ちが悪くて仕方がなかった」


 叔父は黙って私の話に耳を傾けてくれていた。


「私、泣き出したり、怒ったりすれば良かったのに、怖くて何もしなかったの。人が来るまで黙っていたし、その後も誰にも話さなかった。聞いてもらったのはこれが初めて」

「辛かったろうね」

「次があったら私、絶対に怒鳴ってやろうと思ってた。私に恋情なんて物を向ける人が居たら許さないと思ってた。叶ったけれど、あまり気持ちが良くも無かったわ」


 叔父さんは戸棚を探して、甘やかな色の金平糖を出してくれた。一体いつの物だかはわからないけれど、頂くことにした。舌の上でとろける糖の味は、私の中のとげを少し和らげた。


「その男の子や先の透明の輩は不埒ふらちに過ぎるが……君の中では恋は不浄な物なんだね」


 こくりと頷く。


「今日余計にそう思ったわ。私、絶対に恋愛なぞしないし、何なら愛のある結婚なんて物もしないわ。顔も知らない人とお式の日に初めて会って、それから話も殆どしないとか、そう言うのがいい。出来ればお嫁に行きたくもないけど」


 叔父が少しだけこらえきれぬ様に笑って、取り繕う様に金平糖を一粒口に入れ、酒で流し込んだ。


「いつかわかる日が来る、とか思っているのね。来ませんとも。私を好きになる様な男の人は嫌いだし、恋も嫌いよ」

「とんだ天岩戸あまのいわとだね。まあ、しばらくはそうしているがいいよ」

「永久にね」


 それから叔父は、少し真面目な顔でこう言った。


「あの怪異は退散した様だが、きっとまだ生きてはいるだろうね。気をつけていなさい。何かあったらぐに大人に知らせる様に。僕も出来る事があったら助けるから」


 叔父が頼りに思えたのは、今日が初めての事だったように思う。私は少し涙ぐみそうになりながらうなずいた。



 暖かな春の日の事だった。これが、全ての始まり。

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