みあうひととき 弐

 ここからはしばらく、叔父に語って貰おうと思う。



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 僕、大久保純の向かいに座っていた輪島弥恵わじまやえさんは、柔和な雰囲気を持った和風の美女であった。軽くパーマネントを当てた髪を結って、藤色の着物をまとっていた。僕の覚束おぼつかない話にいちいち優しく相槌あいづちを打ってくれた事は良く覚えている。


「あのう、大久保さん。一寸ちょっとお話がありますの」


 僕がどうにか世間話をひねり出していると、彼女は遠慮がちに切り出して来た。何だろう、と思う。


「大変失礼な事を申し上げますわ。私、このお話をどうにかお断り出来ないかと考えております。どうかそちらからも私を拒んで下さりませんか」


 僕はまばたきをした。外の雨の音が耳にしんしんと飛び込んできた。


「大久保さん御本人がどうと言う事ではありませんの。それだけは申しておきます。十中十、こちらの都合です」

「それは……ご両親は」

「伝えましたけれど、反対をしております。でも、こうしてじかにお願いをしているなんて事は思っていないのではないかしら」


 僕は混乱した。余程よほど自分の印象が悪かったのかとも考えたが、彼女はそれは関係ない話だと言う。


「ですから、大久保さんの方でもどうか今回はご縁が無かったという事にしては頂けませんかしら」

一寸ちょっと……一寸待って下さい」


 僕は落ち着くために、ぐいと杯を干した。何と今日はこれが一杯目である。


「突然の事で、頭が回りきりません。差し支え無ければ、理由を聞かせて頂きたい。僕はもう半ば身を固める心算つもりで来ているのですよ」


 弥恵さんはついと目を伏せ、そうして言った。


「口にするにもはばかられるような理由です。ですけれど、大久保さんならわかっていただけるかも知れない」


 それは、どう言う事だろうか。この短時間でそれ程信頼関係を築けた気はしないのであるが――と眉をひそめる間も無く、弥恵さんはこう告げた。


「私には、とうに亡くした許嫁いいなづけが居りますの。その方が忘れられなくて。出来る事ならばずっとみさおを立てて参りたいと思っております。いいえ、そうしなければなりませんの」


 ああ、そう言う事か。僕は得心した。他に気持ちがあるのだから、別の男と一緒になる訳にはいかないと、これは納得の行く回答だ。しかし、それがどうして僕ならば、という事になるのか。


「だって、その方、今でもいらっしゃるのですもの」

「え?」


 声の調子がふと冷ややかに変わった気がして、僕は微かに身震いをした。弥恵さんは袖をつと動かし、彼女のぐ横を指した。


「ここに。ここに今もいらっしゃいます。変わらぬ姿で私を見ていらっしゃるの。だから、他の方のところになんて参れませんわ」


 その瞬間だった。す、と真白い紙にインクを垂らしたように、じわじわとそこに男の姿が浮かび上がった。男、と言うには随分若い。まだ青年だ。白いシャツを着て、あどけなさの残る顔は妙に青白かった。僕は手が震え、空の杯を取り落す。成る程、怪異絡みならば外から見れば僕の分野という事になる。遺憾いかんながら。


「ご覧になりましたか。この方です。貞次郎ていじろうさんです。私と一緒にいつも居て下さるの」


 弥恵さんが嬉しそうにするが、青年はしんと無表情だった。あれは、どう言う物だろうかと思う。尋常じんじょうの幽霊にしては何だか、動きとか、生気(と言うのも妙な話ではあるが)とか、そう言った物が欠けているようにも見えた。そもそも幽霊の尋常とは何かとも思うが。


「それは……本当に貞次郎さんその人ですか」

「え?」

「僕にはその人が生きて……いや、死んでいるのですが、兎も角所謂いわゆる幽霊には見えない」


 今度は弥恵さんがまばたきをする番だった。


「こうして居ても、身動きひとつしない。いえ、ケチをつける訳ではないのです。ただ、気になって」


 汗が吹き出るのを手の甲で拭った。弥恵さんは貞次郎さんをジッと見る。


「他の方と添い遂げたいのはわかります。それが死者だからと言って、僕がどうこう言える立場でも無い。だが、あなた何かおかしな物にかれてはいませんか。姿ばかりを許嫁に借りた、それは何ですか」


 ほとんど勘である。だが、いささか自信のある勘でもあった。僕は幾人かの幽霊を見た事がある。それは、何れも生前の心残りに自分から執着する物で、こうしてただ静かに座って人を縛りつける様な物ではなかった。現に、貞次郎さんは僕がこう話していても眉ひとつ動かさない。


「私――古い本で調べて、術を使いました」


 弥恵さんは厳粛な顔になって語り始めた。


「それは、欲しい方の写し身を形に出来る術で、その術を亡くなった貞次郎さんに使いました。髪の毛さえあれば出来ましたので」


 そんな術に何かしらの反動が無いはずが無い、と僕は思う。だが、彼女は実に幸福そうだった。


「そうしたら、上手くいって。いつでも貞次郎さんと一緒に居られるのだから、それは嬉しくて」


 僕はうなずくばかりだった。


「何も話してはくれなかったけれど、この貞次郎さんはずっと私の貞次郎さんで居てくれました。憑かれてなぞ居りません。いえ、憑かれていても構いませんわ。私の貞次郎さんはこの方です」


 りんと弥恵さんは声を張る。僕はそれに応える言葉を持たなかった。僕に何が言えよう。例え、それがどんなに愚かしく見えたとしてもだ。僕とて、同じ程度には愚かなのではないかと、そう思うからだ。


「……差し出た事を言いました。許して下さい」

「ええ。私にもわかっていますの。おかしな事をしているし、お話が進む前に何人もお断りして、行き遅れだなんて人に言われたりもして。もしかしたら、と思わなくはありませんでしたわ。貞次郎さんの幻を塗り潰せるほどの方だったら、と」

「僕は無理でしたか」

「ええ、残念ながら。私、まだまだひとりで……いいえ、ふたりで居ります」


 弥恵さんは柔らかな笑みに、どこか寂しげで、晴れやかな色を添えた。綺麗な人だった。


「それなら、僕もひとつ秘密をお話しましょう」


 僕は少しばかり残念な様な、しかし肩の荷が下りたような、不可思議な爽快感を味わっていた。窓の向こうを見る。雨に濡れた路地を。土の匂いのする、あの日に似た空気を。


「僕も、実はそうなのですよ。昔心を残した方が居て、まだ忘れられずにいる。すっかり諦めた心算つもりが、どうもそうでもなかったようだ。あなたの話を聞いて、少々ホッとしました」

「まあ」


 僕らは目を見交わし、笑い合った。ようやくだ。僕は漸く過去を、ごく短い期間触れ合ったきりの、雨にまつわる婦人の話の欠片を、端的な言葉で表現する事が出来たのだ。


「それでは、おあいこでしたのね」

「ええ、おあいこだ」


 次の間から物音が聞こえる。家族がやがてこちらに戻って来るのだろう。僕と弥恵さんは目を見交わした。



 僕らは夫婦にはなれそうもないが、どうやらひとつの共犯者にはなる事が出来そうである。

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