第一章 西を見つめる者たち
第1話 ‘人虎’と呼ばれる娘・一
辺りを見回すと、窓から陽光が琥琅のいるほうへ差し込んできていた。どうやら、いつの間にか浅い眠りについてしまっていたようだ。
〈おや、起きたかえ
低く、かすれた年嵩の女の声がかかる。琥琅は緩慢な動作で、
そこに留まっているのは、黄色の嘴に褐色の瞳、濃灰色の大きな雌鷲だ。所々に白い斑点が散らばっていて、冬の曇り空から舞い降りる雪を思わせる。
その姿をそのまま表して、彼女は名を
琥琅は首を傾けた。
「
〈いや、まだじゃ。まあ、長引いて当然と言えば当然じゃが〉
所詮はまだ半人前じゃからのう、と天華は嘴に片翼を当て、くすくすと笑った。
室外は眠る前と変わらず、宿の中は静かで外は賑やかだ。階下も不穏な気配が感じられず、天華が言うように、自分の出番はないと琥琅に告げる。
琥琅は大きく伸びをすると、頭を振って寝台から下りた。備えつけられている鏡台に、起きたばかりの娘の無表情が映る。
背の半ばに届く烏羽の黒髪に飾られた、白くきめ細かな肌をした人間の女だ。しかしまとう身なりは女物の着物ではなく、男物の質素で動きやすいもの。それでも身体の特徴は隠せるものではなく、陰影と身体の線で性別は明らかである。
手元を見下ろすと、枕元に置いていた愛剣が手に触れた。手に馴染む感触に安心感を覚え、琥琅はほうと息をつく。ついでに、手首につけた細い翡翠の
琥琅がこうして城市の商人宿で昼間からまどろんでいたのは、旅の道連れである義理の従兄を待って、時間を持て余しているからだ。
綜家は、渇いた大地に繁栄を誇る西の都・
後はどうやって時間を潰そうかと琥琅が考えていると、扉がこんこんと叩かれた。
「琥琅、天華。いますか?」
「いる」
耳に優しい、柔らかな人間の男の声。欲してやまない声に、琥琅は愛剣を抱いたとき以上の安堵を覚えた。すぐ応えをし、室内に彼を招く。
「雷、仕事、終わった?」
首を傾け、琥琅は室内に入ってきた青年に問いかけた。
結って巾に詰めた髪は灰白色、瞳は夜明け前の空の縹色。いかにも優男といった顔立ちもまとう色彩も、商売に秀でているという西国の異民族、
琥琅の義理の従兄である青年――綜
「無事に終わりましたよ。琥琅は、少しは眠れましたか?」
「ん、少しだけ。それより、雷、約束」
琥琅はこくりと頷くと、雷禅の袍の袖を引いた。今朝、宿の女将に硝子細工の市があると聞いて、琥琅は見に行きたいと雷禅にねだっていたのだ。
わかってますよ、と雷禅は頷いた。
「市はここからそう遠くないですし、夕方までゆっくり見回りましょう」
〈おや、文は後回しかえ〉
「契約書は交わしてますから、夜に書きますよ。それに今から書いても、貴女は一晩中飛ぶつもりはないでしょう? 文の配達は、明日からお願いします」
〈ならば二人とも、ゆっくり見回ってくるがよい。餌は好きに調達するゆえ。何なら、明日帰ってきても構わぬぞ〉
小さく笑った雷禅に天華がそう楽しそうに言うと、何を言っているんですか、と雷禅は嫌そうに顔をしかめた。
「夜には帰ってきますよ。
〈真面目じゃのう。深窓の令嬢でもあるまいし、たまにはお前もはめを外せばいいものを。お前に従順なのじゃから、どうとでもできよう?〉
「……ともかく、頼みますね、天華」
一体何がそんなに面白いのか、どこまでも楽しそうな天華である。何故か雷禅は疲れたと言わんばかりに額を押さえ、はあとため息をついた。
そうして二人が宿を出ると、行商人が隊商の者たちと共に中へ入っていくのとすれ違った。通りには街道沿いの城市らしく、城市の住民らしき人々の流れに旅装の者が多く見受けられ、中には雷禅のように、異民族の外見をした者もいた。
街道を行き交う異民族が一人や一つの民族だけではなく、その文化の産物が商人の荷車や店先に数多見え、しかも半ば当たり前の光景として住民に受け止められている。これはすなわち、それだけこの国――清が異民族に寛容であることの証拠であった。
清は、大陸の東端に位置する大国だ。東西南北で大きく異なる地形と気候によって成り立つ国土の上に、支配者である黒髪黒眼の清民族と、異なる文化を持った何十もの異民族を抱えている。交易路や異民族の居住区周辺の城市、都へ行けば、この城市のように異民族の姿を見ることは当たり前だ。雷禅のような混血の子を生すことも。琥琅に学問を教えてくれている老師によると、清国の融和政策は、今の皇帝の祖が異民族と争った後に彼らとの共存を唱え、歴代の皇帝がその思想を継承していったからなのだという。
市に着くと、賑わいは一層大きなものになった。赤に青に黄。様々な色の宝石や硝子で作られた、装身具や置物、日用品といった幅広い種類の商品が、数多軒を連ねる露店の店先に所狭しと並べられ、人々が足を止めて見入っている。呼び込みの声はないものの、値段交渉は盛んだ。まけろいやこれが限界と、雷禅やその義父が日頃しているようなやりとりが聞こえてくる。
「賑わってますねえ。この辺りの地域は硝子細工で有名ですから、当然のことですが……琥琅、この中を歩くのは平気ですか?」
「平気。雷、早く行く」
「ってこら琥琅。待ってください」
雷禅の服の袖を引っ張って琥琅が歩きだそうとすると、雷禅は慌てた。
人の流れに沿って歩きながら、琥琅と雷禅は露店を見て回った。琥琅が気の向くままに店から店へと歩いては商品に目を輝かせる横で、雷禅も商品の出来具合を見ては店主に誰の作品かと聞いたりしている。半人前の商人なのだから、当然だろう。
歩いていて、あまり人気のない露店の前で琥琅はふと足を止めた。
その露店の片隅に置かれた小箱に、内部に微細な傷がある、指先ほどの大きさの硝子玉が入れられていた。陽光を受けて内部の傷が一際強く輝き、まるで光の刃のようだ。色がついたものはきらきらと輝く色つきの影を落としていて、それもまた美しい。
「失敗品のようですね。琥琅、気に入りましたか?」
「ん」
尋ねられて琥琅はこくんと頷くと、期待を込めて雷禅を見た。雷禅も心得たもので、はいはいと苦笑する。
「わかりましたよ。琥琅、それ以外に、欲しいものはありませんか?」
「ん。こっちも」
さらに三つほど硝子玉を手にとり、琥琅は雷禅に差し出した。先ほどの硝子玉とは色違いで、こちらも失敗品である。その中の一つには透明な硝子玉の中に小さな泡があって、水をそのまま固めたようだ。
四つの硝子玉を雷禅に買ってもらうと、脇道へ入った琥琅はさっそく硝子玉を手のひらでもてあそんだ。
転がすたびに、硝子玉の光の刃が形や線の細さ、色みを変える。他の硝子玉と影が重なり、色が混じったりもする。ころころと転がすのは楽しい。こんな狭い手のひらではなく、もっと広い平面で思いきり転がしたい。
「そんなに気に入りましたか……でもそうやって道で遊んで、また落としたりしないでくださいね。買ったばかりなんですから」
「わかってる」
からかいとも注意ともとれない調子で雷禅は言う。いつぞやのようなことはもうしたりなんてしないのに。琥琅は無表情のまま、唇をへの字に曲げた。
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