終章

終章

 十日後。白虎の身体が快方に向かっているのを確かめ、琥琅ころうたちは玉霄関ぎょくしょうかんを発つことにした。


「用意はいいですか、琥琅」

「ん」


 雷禅らいぜんに促され、二人と一匹で連れだって関令の公邸の廊を歩く。今日も今日とて公邸の中は静かで、風の音に混じって関所の賑わいがかすかに聞こえてくる程度だ。

 歩きながら琥琅が窓の外を眺めていると、雷禅の肩に止まっている天華てんかが、ばさりと羽を揺すった。


〈やれやれ、とんだ寄り道であったの。中原からこちらへ飛んでおるときは、まさかこんなことになるとは思わなんだわ〉

「予想できるほうがすごいですよ。……こうして終わってみると、商談の結果を書いた文を貴女に届けてもらっておいてよかったですね。関所が封鎖されていても、荷と人手の段取りくらいはできますし」


 と、先頭を歩く雷禅は振り返って苦笑した。


 雷禅の足取りは迷いがなく、案内なしで琥琅たちを玄関へ導く。琥琅と違い、毎日のように外の露店が並ぶ辺りへ通っては顔馴染みの商人に挨拶したりしていた彼は、あてがわれたへやから玄関までの道をすっかり覚えていたのである。もう二度と訪れることのないだろう場所だというのに、よく覚えるものだ。


〈ふん、商売の心配とは、商人らしいことを言う〉

「僕は商人ですよ、天華。今はまだ半人前ですけどね。商人なら、商売の心配をするのは当然でしょう?」

〈ふん、半人前のお前が心配したところで、できることなど限られておるじゃろうが。できぬことより、我が身の心配をせよ。妾や琥琅もおらぬと我が身も守れぬとは、男として情けない〉


 雷禅の肩に止まりながらの説教である。嘴に風切羽根を当てるいつもの仕草の声音はため息交じりで、呆れているのがわかる。


 だが、これも雷禅を心配してのことなのだ。常日頃はことあるごとにからかって遊んではいるが、天華は彼女なりに雷禅を大事にしている。あのとき、琥琅に言われずとも彼女は雷禅を守りに行っただろう。説教は、わざわざ危険に巻き込まれに行ったに等しい無謀さを、改めてたしなめているに過ぎない。


 頭上から降り注ぐ、まだ続きそうな説教を遮って雷禅は控えめに反論している。白虎は何をやっているのだ、と言わんばかりに長息をつく。

 そうこうしているうちに、いつの間にか琥琅たちは正門に近づいていた。ここまで来ると、さすがに往来の賑わいがはっきりと聞こえてくる。


 厩に近い門には、馬車や遼寧りょうねい玉鳳ぎょくほう、そして伯珪はくけいがすでに出立の準備を終えて、琥琅たちの到着を待っていた。


「お待たせしてしまいましたか、伯珪殿」

「いや、ちょうど今準備を終えたところだよ」


 腕にしていた包帯を昨日外したばかりの伯珪はそう笑う。


〈天華さん、白虎様、身体は大丈夫ですかい?〉

〈ふん、昨日も言うたが完治しておるわ。妾より白虎じゃ〉

〈復調とまではいかないが、歩くのには支障ない。お前たちこそ、身体に障りはないのか?〉

〈ええ、ご心配なく。わたくしもこの根性なしも、身体に問題ありませんわ〉


 遼寧の問いに対して白虎が問いを返せば、玉鳳がそう答える。遼寧がひどいよ玉鳳と抗議しているが、玉鳳はまるで聞く耳持たない。どうやら戦場での遼寧の泣き言は彼女の耳に届いていたらしく、情けない雄馬という認識はますます深くなっているようだ。


「……白虎殿、遼寧と玉鳳が何か話しているようだが」

〈雄は雌に勝てぬという話だ。気にするな〉

「…………そうか」


 今の話はそういう内容だっただろうか。琥琅は内心で首を傾げたが、伯珪は何故か神妙な顔をしてそれ以上の追及をやめた。天華は天華でくつくつ笑い、肩を強く掴まれた雷禅は目を白黒させる。


「――――ではしゅうさん、お願いします。遼寧、玉鳳、行きますよ」

〈はいはい坊ちゃん〉

〈わかりました〉


 全員が乗り込み、天華が馬車の中に固定された止まり木に止まったのを確認すると、雷禅は御者に続いて馬たちにも声をかけた。御者と二頭は頷き、馬車がゆっくりと歩きだす。


 馬車は、さいわいにも人々に騒がれることはなかった。幌にはそう家の紋がないし、皆忙しいのだ。自分のことにかまけて、他を見ている余裕はないに違いない。

 馬車が旅人や商人たちで賑わう辺りを横目に、西域辺境側の門へ向かう中。雷禅がふと思いついた顔をして口を開いた。


「そういえば、白虎殿。貴方の名は何なのですか? 今まで深く考えずに、『白虎殿』と呼んでいましたが……」

「ああ、よく考えればそうだな」


 雷禅の問いに、伯珪は小刻みに頷く。琥琅もそれで、そういえば、と気づいた。確かに、『白虎』は彼の名ではないのだ。種族の区分でしかない。

 白虎は、あるにはある、と答えた。


〈だが真の名は、主以外の者には明かせぬ〉

「では、あざなは? 古代からいるのなら、字はあるだろう?」

〈…………いや、ない。いつも『白虎殿』か『白虎』と呼ばれていたからな。それで不便に思うことはなかったから、気にすることはなかった〉


 伯珪が問うと、白虎は緩々と首を振った。

 字は、親しい間柄で使う呼称だ。本名を呼ぶのは家族と目上の者だけとされていた古い時代では、字と役職名が主要な呼び名だったという。


 琥琅が思い返してみても、確かに『白虎』でも不便はなかった。秀瑛しゅうえいは白い虎を連れていなかったし、道中に出くわすこともなかったのだ。他の名を考える必要はまったくなかった。

 しかし、と雷禅は指を顎に当てた。


「これから義父上ちちうえたちに紹介しますし、いつまでも『白虎殿』と種族の名で呼ぶのは気が引けますね。……というわけで琥琅。主らしく、名付けはどうです?」

「? 名前?」


 話を聞いているだけだった琥琅は、突然話を振られて目を瞬かせた。一体どこをどうしたら、そんな話になるのだろうか。

 ふむ、と天華は嘴に風切羽根を当てた。


〈真名が刻まれた魂魄に力ある者が名を与えれば、その魂魄の持ち主を悪しき霊や術から遠ざける守りの呪となる。神獣の主となる魂魄を持つ虎姫こきが名付ければ、良き守りとなることじゃろう〉

「…………名前、付けたらこいつ守れる?」

〈ああ。少なくても、人間どもの方術からは守れるじゃろう〉


 琥琅が首を傾けると、天華は片翼を広げて肯定する。琥琅は目を大きく見開いた。


 名を与える。たったそれだけで、そばにいなくても白虎を守ることができる。最低でも、悪霊や術に蝕まれないようにすることができると。――――――――死なせなくて済むのだ。

 ならば、不要であるはずがない。


「…………わかった。名前、考える」

「そうですか……いい名前にしてあげてくださいね、琥琅。その名前で義父上たちにも紹介するんですし。あんまり変な名前だと、天華が大笑いしそうですしね」

〈当たり前じゃ〉


 雷禅が悪戯っぽく笑えば、天華はばさりと翼を鳴らして胸を張る。このぶんだと、きっと本当にげらげら笑いそうだ。

 良い名にしよう、と琥琅は強く思った。この忠実で勇敢なしもべに相応しい、強さと賢さを表した名に。


 養母は、気まぐれで拾った人間の赤子を養女として育てると決めたとき、『身も心も美しく在るように』という祈りを込めて『琥琅』と名付けたのだという。どちらの文字も、美しい玉を意味するから。


 養母が願ったように、美しく在ることができているかどうかはわからない。だが、養母がそうしたように、今度は琥琅が白虎に名付ける番だというのはわかる。


 そんなことを話しているうちも、馬車は西へ向かっている。向かう先は彗華すいか。琥琅と雷禅にとっては我が家、伯珪と白虎にとっては新たな住まいが待つ場所だ。

 砂埃を孕んだ風が空を渡る、西域辺境の夏だった。

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清国虎姫伝 星 霄華 @seisyouka

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