第3話 愛しき故郷にて・一

 しん国の元々の領土の地域である中原ちゅうげん地域と国の西部の境目に鎮座する神連しんれん山脈は、初夏を迎え、植物が盛りゆく生を謳歌していた。


 彗華すいかから通ったときはまだ花が木々に春を告げていたのに、半月余りで様相は違うものになっている。木々に生い茂る緑は鮮やかで瑞々しく、花に負けない存在感があった。彗華のように、緑のそばに砂漠が広がっていたりもしていない。同じ清国でも風土がまるで違う西域では感じにくい、四季の移り変わりに呼応する大自然の生が、ここでは当たり前のものだった。


 行きもそうだったが、こうして山の中にいると琥琅ころうの心は自然とざわめく。琥琅はこの山で育った娘なのだ。この深い緑と濃い匂いのただ中にいると、記憶や感情が揺さぶられる。


「……そんなに懐かしいなら、少し歩きますか?」


 濁流が流れる川辺での休憩中、水を飲むのもそこそこに琥琅が辺りを見回していると、雷禅らいぜんは苦笑してそう琥琅に提案してきた。どうやら、そわそわしているのを見抜いていたらしい。

 琥琅は首を傾けた。


「いい?」

「構いませんよ。行きのときは時間優先でしたし、天華てんかに文を託してありますから。ただし、あまり遅くならないようにしてくださいね」

「……! ありがとらい、行ってくる!」


 雷禅の許可が下りて、琥琅は顔を輝かせると身を翻した。森の中へ飛び込]むようにして、道なき道を思うままに散策する。

 枝葉が揺れる音や小鳥の鳴き声を聞くともなしに聞き、色や匂いを感じながら森を奥へと進んでいると、ここで過ごした日々が不意に思い出された。厳しくも優しい唯一の家族――養母と共に過ごした、懐かしい時間だ。


 時に獣を追って死闘を繰り広げ、時に川を見下ろし魚を捕らえ。血に濡れれば川や泉で落とし、肉にかぶりついて腹を満たした。夏の暑さは木陰でやりすごし、温かな毛皮にくるまって厳しい冬の寒さを乗りきり。見知らぬ男たちがやって来れば、問答無用で追い払った。

 二人きりの生活だったが、さみしいと思ったことは一度もない。外の世界に憧れを抱いたこともなかった。養母と二人きりで、ずっと山で暮らすのだと思っていた。――――そんな幸せの終焉なんて、琥琅はわずかも考えたことはなかった。


「……」


 西域辺境では味わうことのできない、森の静けさと安らぎを全身で堪能していると、養母と過ごした日々の記憶はやがて、その凄惨な終焉にとって変わってしまう。

 血の海と、黒くどろどろとしたものと、それらに穢され傷つけられた木々と。――――――――傷つきはてた養母。


「――――――――っ」


 胸を突き上げた感情に琥琅は息を詰まらせ、服の胸元を掴んだ。

 先日は通り過ぎるだけだった、故郷の空気を楽しむだけのつもりだったのに。これなら、雷禅のそばにいたほうがよかった。琥琅は後悔した。

 だが、忘れることはできない。あの絶望は、この森で過ごした日々の愛しさと同じくらい、忘れられないのだ。

 きつく目を閉じて気持ちを切り替え、さらに適当に歩いていくと、不意に視界が開けた。


 昨夜の大雨を引きずる曇り空であるが日は照っていて、大河の向こうにある二つの山脈の東端がよく見える。その狭間にある、回廊のような高原も、城市まちもだ。さらに山を登れば、もっと遠くまで見えるだろう。


 眼前に広がる光景に誘われるようにして足を進めかけた琥琅だったが、視界から地面が失せていることに気づき、足を止めた。

 足元を見下ろしてみると、ちょうど片足を下ろそうとしていた辺りから地面がない。――――崩れ落ちているのだ。


 どうやら、昨夜の大雨で土砂崩れが起きたようだ。かなりえぐれていて、下を覗いてみれば、山道が土砂ですっかり埋まっているのが確認できた。上から見ても土砂はかなり山道に積もっていて、岩や大木がところどころで顔を覗かせている。道の両側で座り込んだり、近くにいる者と話しあったりしている人々の様子も見られた。

 そう、道。どう見ても、馬が通れそうにない道だ。


「…………」


 琥琅は眼下の光景を見つめながら、あの道はこれから通ろうとしている道ではないのだろうかと考えた。断定はできないが、西の景色を横手に眺めながら通る箇所はまだ、中原からは通過していない。

 これは、雷禅に報告すべきだろう。集落に戻るのもいいが、回り道をするなら早いほうがいい。

 そう判断して踵を返した琥琅は、背後にしていた崖を視界にとらえ、足を止めた。


「…………?」


 何故か、ひどく気になる崖だった。慕わしく感じられ、そこに近づかなければならないという気にさせられる。胸の高鳴りは激しく、どうして先ほどまで無視できていたのか不思議なくらいだ。


 隅々までとはいかずとも山を駆け回り、特に人間が整備した道の周辺は頻繁に足を運んだものだが、こんなものがあっただろうか。こんな奇妙な感覚、忘れようがないのに、琥琅はまったく記憶にない。養母からも聞いていないはずだ。


 故郷の小さな、けれど無視できない変化を見つけ、琥琅は胸がざわめいた。だが今は、雷禅に土砂崩れを報告するのが先だ。琥琅はぎゅっと両の拳を握り、崖へ駆け寄りたい衝動を抑えると、その場を立ち去った。

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