第2話 ‘人虎’と呼ばれる娘・二

 宿の床で硝子玉を転がしてみようと思いながら、少しだけ上機嫌になって、琥琅ころうが残りの数軒を見回ろうとしたときだった。不意に、人の声と足音が絶えない通りで一際大きな怒号が二人の耳を打った。


「っにしやがんだよこの野郎っ」

「それはこっちの科白だ! 私の従者を突き飛ばしたのはそっちだろう」


 むくつけき大男と、いかにもひ弱そうな青年を庇う男性が対峙している。背をこちらに向けているので顔はわからないが、声や背格好からすると、おそらく四、五十代ほどだろう。上等な布地の衣服は確かに金持ちや貴族のものに相応しい。発音も、そこらの地方商人のように方言が混じったりしていない。


 通りゆく人々の多くは、迷惑そうな顔をするものの止めようとはしない。こういうことは日常茶飯事だし、止めたい人が止めればいい。

 今も数人が宥めようとしているが、逆効果だったようで大男はさらに怒り猛っている。わめき声は耳に不快だ。


らい、行こう」


 騒ぎの場のすぐ近くにいる琥琅は、雷禅らいぜんにそう促す。が、雷禅は従者を庇う人の顔を凝視したまま、いえ、と琥琅の提案を却下した。


 大男と男性の口論はさらに続いている。埒の明かない口論にうんざりしたのか大男が、とうとう男の襟を掴み上げた。棍棒のような腕を振り上げる。少年が主人の名を叫び、さすがに通行人たちも止めに入るが、大男はそれを腕の一振りで一掃する。


 大男が男性を殴ろうとしたその瞬間、雷禅が琥琅に荷物を押しつけるや、二人の間に割って入った。大男の拳を片手で受け流す。

 いかにも良家の御曹司ですという出で立ちの青年からの思わぬ横槍に、大男はぎょっと目を見開いた。その隙に雷禅は大男の腹に肘を食らわせ、呻いて男性の襟を離した腕を引っ掴む。さらに足払いをかけ――投げた。


 ずうん、と地響きを上げて大男が倒れた。腰につけていた財布から貨幣が散乱し、一瞬の早業と転がる貨幣に歓声が上がる。拍手し囃す人やら、あちこちに散らばる貨幣を拾うのに勤しむ人やらで辺りは一層賑やかだ。


 琥琅よりはるかに弱い雷禅だが、まったくひ弱というわけではなく、護身術程度の武芸は修めている。そう家の護衛のまとめ役である、雷禅の義理の叔父――琥琅の養父である綜瓊洵けいじゅんが師となって教えたのだ。あのでたらめに強い男に師事した時間は琥琅より長いくせに弱いのは、当人の才能とやる気の問題であるのは間違いない。

 ぽかんとした顔で尻もちをついている男に、雷禅は手を差し伸べた。


「大丈夫ですか」

「あ、ああ。おかげで助かっ――おや? 君は綜家の」

「雷禅です。あのときは良い商談をさせてもらいました」


 恩人の顔を見て驚いた男性に、雷禅はにっこりと笑ってみせた。どうやら、数日前に別の城市まちでした商談の相手であるらしい。

 二人が話していると、背後からぬう、と影が差した。大男が立ち上がり、仕返しをしようとまた殴りかかったのだ。


「! あぶっ……!」


 助け起こされた男が声を上げた瞬間、琥琅は動いた。雷禅に荷物を押しつけ返し、大男の懐に飛び込むや、鳩尾に手刀を叩き込む。防御などまったく考えていない、鍛えられてもいない身体は容易く傾き、再び地響きが起きた。

 雷禅が息をついて振り返り、平然とした顔を琥琅に見せた。


「気絶してますよね、琥琅」

「手加減した」


 と、琥琅は返す。琥琅はその気になれば素手でも人を殺せるのだが、さすがに往来で人殺しはよくないだろうと判断した結果だった。

 琥琅の動きが見えていなかったのか事態をよく呑み込めていない男が、雷禅に尋ねる。


「ええと、あの男は、そちらの方が倒したのですかね?」

「ええ。彼女は僕の護衛なんです」

「なんと、女人なのですか? ということは、もしや噂の」

「ええ、綜家名物の一人、‘人虎じんこ’ですよ」


 にっこりと笑んで雷禅は答えた。


 人虎というのは、虎の霊に憑かれた者、あるいは人間に化ける虎の化生だ。森の奥深くで虎として生息するが、時に人間に化けて人里へ姿を見せる。人の言葉を解するものの、人間の姿であっても目が虎のそれであるので、見ればわかるのだという。


 武芸に秀で、また虎好きであるために、琥琅はそんな化生の名を異名として呼ばれるようになっている。綜家に雇われている護衛たちも、自分たちの長の養女を名や敬称で呼ばない。‘人虎’と呼んで遠巻きにしている。そして屋敷の外にその名を広めているのだ。

 綜家の邸の離れに棲まう、人の姿をとる虎の化生。それが、綜琥琅という娘の形だ。

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