第22話 闇の中

 ゆらゆらとたゆたう琥琅ころうの意識はまず、ざらざらとした感触と生暖かい風を感じた。身じろぐと全身に、悲鳴をあげるようなきしみと気だるさを覚える。瞼を開け、起き上がるのが億劫だ。


〈主、お目覚めになりましたか〉


 安堵した声音と共に、生臭い風がぶわりと琥琅の顔にかかる。ちくちくとした毛並みが頬に寄せられ、その暖かさと馴染んだ感触に、琥琅は目を閉じたまま微笑んだ。目の前にあるはずの太い首筋へ腕を伸ばす。


〈主?〉


 不思議そうな、心配そうな声。――――主?


 疑問が琥琅の睡眠欲を消した。重い瞼をゆっくりと開ける。

 辺りは何故か一片の光もない、目を開けているのか閉じているのかわからなくなるような闇だった。狭いのか広いのかもわからない。だが全身の感覚から、ここが閉じられた空間であり、自分は固く冷たいところ――岩石に上半身を預けた格好で座っていることはわかった。


 ぼんやりとしていた意識が次第にはっきりしてくる。どこか遠いものであった感覚が、徐々に輪郭を取り戻す。

 この声を自分は知っている。自分を主と呼ぶ、真っ白な毛並みの虎のものだ。――――養母ではない。


〈主? いかがなさいました?〉

「…………平気。……俺、大丈夫」


 苦く笑い、安心させるように、いや自分が安心するために、琥琅は間近にあるぬくもり――白虎の首を抱く力を強くした。毛並みに顔をうずめ、獣の身を全身で感じる。

 そうして白虎の絹糸のような毛並みを堪能し、何か夢を見ていたなと思い起こして、琥琅ははっとなった。


「っらいっ? 痛っ……」


 頭を振った瞬間、全身、特に後頭部に激痛が走り、琥琅は体を折り曲げる。

 これほどの激痛は数年ぶりだ。昔ならともかく、最近では修練のときでもこんなに体は痛まない。


〈主、御無理はなさいますな。御身は岩に打たれておられるのです〉

「そうそう、起きたばっかなんだから、大人しくしてろよ。こうも暗いしな」


 心配そうな白虎に続く苦笑含みの声は、ここ最近で聞き慣れてしまった男のものだった。低く良く通る、快活そうな。

 そう、確か――――


「しゅ、えい?」

えん秀瑛しゅうえいだよ。西域府君の。名前、一応は覚えてくれてたんだな」

「ここ、どこ?」

「洞窟の中だ。妖魔の首領とやりあったこと、覚えてるか?」


 と、秀瑛が居場所の手がかりをくれる。それで琥琅の頭はようやく、今の状況の把握を始めた。

 翡翠の腕釧うでわ雷禅らいぜんに渡して、洞窟へ入って。たくさんの死体と、妖魔。妖魔の首領。そして――――――――

 深呼吸を繰り返して痛みをやり過ごし、気を落ち着けてから琥琅は改めて口を開いた。


「俺たち、閉じ込められた?」

〈はい。――すぐに脱出しようとも考えたのですが、主と秀瑛は気絶していましたし、外の状況も把握できなかったので、動かぬほうが得策と思い……〉

「正解だな。外に出てたら、人質にされるか殺されるかしてただろうよ。……その代わり、他の奴らが吐蘇とそ族の過激派に捕まったんだろうがな」


 推測し、秀瑛は強く舌打ちする。苛立ちは琥琅も同じだ。胸が不愉快に脈打って、うるさい。


「雷は……?」

〈……わかりません。少なくても、この近くで声や気配はしませんでした〉

「……」


 躊躇いがちな回答に、琥琅はぐ、と両の拳を強く握った。

 やはり、連れて来るべきではなかったのだ。雷禅は馬たちの次に弱い。幽鬼を従えているに違いない吐蘇族の戦士たちに囲まれて、逃げられるわけがない。ましてや、あの妖魔の首領からなんて。


 腕の中で息絶えた養母を思いだして、琥琅の身体はぶるりと震えた。力ないかすれた小さな声や、ぬくもりを失くしていく身体や、頬を伝う母の血の感触が五感によみがえり、琥琅の感覚を支配していく。

 雷禅も、あんなふうになっているかもしれない――――――――


〈主、落ち着かれませ。彼らが今すぐ雷禅を殺すとは思えませぬ〉


 琥琅の思考が記憶と感情に飲まれ、停止しかけたそのとき。琥琅の腕の中で白虎が強く言った。


〈吐蘇族もあの妖魔も、しん民族を深く恨み、こたびの反乱をくわだてはしましたが、反乱の狼煙を上げたとはまだ思っていないでしょう。清民族に見せつけるために、何人かは生かされているはずです。特に雷禅は異能を持つゆえに、妖魔にとっては極上の糧となります。……最後まで殺さずに残している可能性が高いかと〉


 そう一言一言、宥めるように白虎は琥琅に言い聞かせると、さらには主の首筋をべろりを舐めて慰める。ざらついた、生温かいものが首筋を這い、琥琅ははっと息を飲んだ。


「つーか、今はあいつらが生かされてることを信じるしかねえよ。まずは俺たち自身がこういう状況だしな。……琥琅殿も、雷禅殿がいなくて不安だろうが自分を見失うな」

「……」


 白虎に続き、秀瑛も琥琅を落ち着かせようとする。平然としているわけではないが、冷静さを失っていない声音だ。さすがは歴戦の将軍と言うべきか。

 彼らの声と言葉に促され、噛み締めて琥琅は深呼吸を繰り返した。乱れていた呼吸と思考を整え、そうだ、と自分に言い聞かせる。そう、今はまず、ここから脱出しなければ。


「白虎、剣どこ。見える?」

〈それなら、主のお手許に――そう、もう少し右〉


 言われるまま地面を探ると、確かに冷たい、硬い感触がした。あの剣だ。暗闇の中であっても、触れるだけで愛剣だと確信できる。

 柄を握ると全身の鈍痛がましになったような気がして、琥琅は安堵の息をついた。白虎の身体とは反対に冷たいばかりだけれど、馴染んだ感触は未だ不安で騒ぐ鼓動を落ち着かせてくれる。

 そういや、と何か思いついたのか秀瑛が声をあげた。


「さっき、突然妙っていうか、いいところの神獣廟の中みたいな気配がしたんだが……ありゃなんだ?」

〈あれは、主の剣が持つ力だ。主がお持ちになっている剣は、天が我ら神獣の主のために下されたもの。何も知らぬ者に悪用されぬよう、先の主亡き後、守り人が成していた封印があのとき解かれた。それゆえ、力が解き放たれたのだろう〉


「おいおい何だよその特別仕様。じゃあ琥琅殿があのでかい妖魔をしばけたのも、その剣の力が解放されたからなのか?」

〈だから秀瑛、あの妖魔は主と私に任せろ。我ら以外にあの妖魔を倒せる者はおらぬ〉


 秀瑛の驚きに頷いた白虎はそう、命じるように事実を告げる。

 闇に溶ける沈黙の後、秀瑛は長い息をついた。


「…………わあった。俺の剣じゃ倒せねえのは実証済みだからな。俺は、雑魚退治と野郎どもの救出に精を出しとく。――――西域辺境の命運、あんたらに託す」


 そう、琥琅たちに同行を頼んだときのような、真摯な気持ちを確信させる声で秀瑛は最後に言葉を紡いだ。

 言われるまでもない。あの妖魔は絶対に殺すと、琥琅は決めている。大切な場所を守るために、雷禅を救うために。そして――――――――


「んじゃ、そろそろこんな暗いところはおさらばしようぜ。いい加減うんざりしてるんだ。白虎殿、やれるか?」

〈ああ〉


 秀瑛が尋ねると、白虎は首肯する。琥琅と秀瑛を自分の背後へ下がらせると、小さく唸った。

 辺りは変わらず闇で、自分の腕さえも見えない。だが琥琅の鋭敏な感覚は、変化を確かに捉えていた。

 肌に、心にぴりぴりと響いてくる何かがある。わずかでも声を出し体を動かすことを許さない緊張感が、すでに辺りを支配しようとしている。しかしそれは、人間や獣たちと殺しあうときとは根本から異なっていて、静けさの中の探り合いや、動へ転じる瞬間への期待も何も感じられない。ただざわざわと胸の内が波立つ。


 時間が過ぎるにつれ、場の張りつめた気配がますます強まっていく。その中心は白虎で、目には見えない強い力が彼に集まっているのだと、感覚でわかる。肌で、全身で感じる。

 妖魔の首領が放っていたものとは正反対の、清々しい気配だ。例えば山中の渓流や雄滝、雪消水。真冬の早朝の空気。穢れを許さない、清冽な何かだ。白虎廟に漂っていた、あの美しい気配。


 満ちていく力の気配に対する違和感は今や消え失せ、何故か心が静まっていくような、高揚していくような心地を覚える。

 この白い虎は神獣なのだと、このとき琥琅は初めて実感した。


〈――――〉


 岩壁に向かって白虎が咆哮を上げた。それは吼える姿が見えたわけでも、声が聞こえたわけでもない。けれど暗闇の中、琥琅はほんの一瞬だけ、白虎が岩壁に向って猛る姿が見えたような気がした。


 襲いかかる衝撃波に琥琅はとっさに両腕で体を庇うものの、それでも耐えきれず二、三歩後ずさりし、膝をつく。震動は脳天から指先にまで伝わり、全身が引き裂かれるように痛む上に、頭の中まで掻き回されている心地だ。

 咆哮が止み、岩に亀裂が走る派手な音がしたと思った刹那、盛大な地響きと更なる轟音が起こった。どうやら周囲の岩が崩壊し、降り注いできているらしい。まずいと思ったが、しかし琥琅と秀瑛の身に岩や石はひとつとして落ちてこない。何か目に見えない膜で弾かれているように横へ滑り落ちていくのが、少しずつ壁からこぼれてくる光でわかる。


「……便利な奴だな」

〈これでも神獣だからな〉


 周囲を呆けた顔で見回し、思わず、といったふうで秀瑛が呟けば、白虎はそう平然と返す。妖魔の首領との戦いに続いて力を放った疲れを見せず、悠然と歩く。


 赤みや黄色みを帯びて白くも見える光に向かって、大小様々な岩をよけながらゆっくりと歩いていく。そうしてなんとか外へ出てみると、強烈な光が一気に目に入り込んできて琥琅は思わず目を閉じ腕で庇った。何度も瞬きを繰り返して、徐々に目を光に慣れさせる。


 視界の端からのきつい光を腕で遮り見る景色は、すでに夕暮れに染まっていた。空の果てに見える不気味に赤い夕陽が、今にも大地に沈みそうだ。

 愛剣を鞘に収め、痛む身体を引きずるようにして琥琅は集落のほうへ駆けた。その後を、秀瑛と白虎がついてくる。


 そして戻った集落に広がる、洞窟の前以上の惨劇に二人と一頭は言葉を失くした。

 血の海と、死体。――――人間と幽鬼と妖魔の。


「……っ白虎、崖!」


 焦燥や恐怖に襲われ、琥琅は白虎の背に飛び乗った。白虎は従い、血の海を跳躍して集落を抜ける。

 しかし、秀瑛が指定した待機場所に雷禅はいなかった。辺りを見回してみても、黄金色に輝く渇いた高地の景色が広がるだけ。雷禅どころか、兵たちや遼寧りょうねい玉鳳ぎょくほうもいない。

 死体はない。けれど、生きた姿もない。ならば、どこへ行った。


「雷…………どこ…………?」

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