第五章 希望

第21話 今度こそ

 ここは檻のようだ、と思ったのは間違いではないだろう。


 琥琅ころうは、人間たちが野宿のときに使う天幕というものの中に押し込められていた。いや、正確に言えば、閉じこもっていた。

 だってここは、人間の集団の中だ。今まで琥琅の前に現れては刃へ向けてきた種族の巣窟にいて、安心してあちこちを歩くことができるはずがない。――――たとえ、彼らの中に母の知り合いがいて、空腹と疲労で倒れてしまった琥琅を助けてくれたとしても。


 水や食事を入れていた器を天幕の入り口付近に置いた琥琅は、扉代わりの布の隙間から見える外の世界――――行き交う人間を睨みつけた。


『もし私がお前を残していくようなことが起きたら、西へ行け』


 養母は生前、琥琅にそう言い聞かせていた。彗華すいかという人間の城市まちで暮らすそう瓊洵けいじゅんを訪ねろ、その男がきっと良くしてくれると。養母は森を出ていた時期があったらしく、その頃に城市の人間と知り合ったという話だった。

 森の誰よりも強い養母が死ぬさまを想像できず、そんな日は来ないと琥琅はいつも反論したものだ。そのたびに、死は誰にでも訪れるのだからと養母は言って、必ず行くよう伝えていた。


 呆然としていた中で唐突に思いだした言葉に従って森をただひたすらに歩き、出て、なおも西へ進むほどに、異界へ迷い込んだのかと思うほどに世界は乾いていった。緑はろくに見当たらず、乾いた風に吹かれた砂埃が舞い、刺すような日差しが照りつけるばかり。今やこの天幕の外に広がる景色は、あの豊かな森とは何もかもが違う。


 琥琅が母の言葉に従ったのは、母の言いつけだからというだけではない。生きるためにはそうするしかなかったからだ。琥琅の世界と力は母と共に在ることで成り立っていて、母の死に打ちひしがれる琥琅は無力だった。実際、森の主の死を悼みもせず、獣や妖魔たちは琥琅を狙ってきたのだ。強者が弱者を食らうことを理とする森で琥琅が生きていくことは、もはや不可能だった。


 けれど――――――――

 今日この日に至るまでを思い返し、琥琅は膝を抱える手をぐっと握りしめた。


 今までは、母が何でも教えてくれた。言葉も、剣の使い方も、獲物の捌き方も、星の読み方も。琥琅はそれらを疑いもなく受け入れ、従うだけでよかった。自ら行う狩りは、その延長線でしかなかった。


 母が死に、生まれて初めて立つ、誰も何も教えてくれない世界はおそろしい。緑の木々が琥琅の姿を隠し、川が足音や匂いを消してくれたりしないし、人間がたくさんいる。あの深い山中では人間こそが侵入者か迷惑な近隣住民でしかなかったのに、この世界では琥琅こそが異物だ。同じ姿であっても、自分と人間は相容れない。その事実を、琥琅は肌身で実感していた。


 こうして天幕の中に閉じこもっていても事実は否応なく琥琅の精神を脅かしていて、布越しに感じられる、ひっきなしに遠のいたり近づいたりする人間の気配に琥琅は神経を尖らせていた。今のところは敵ではないのだろうと理解しても、人間を敵としてきた感覚は容易に抜けるものではなかった。


 養母は何故、娘を西へ――――人間のもとへやろうとしたのだろう。確かに瓊洵は養母の死を悲しんでくれていて、忘れ形見となった琥琅を守る意志を見せはしたけれど、琥琅は山の奥深くで育った娘なのだ。城市の人間と相容れるはずもない。なのにくれてやろうとするなんて、琥琅には母の考えがまったくわからない。


 考えてもわかるはずがなく、だんだんと疲れた琥琅は寝台に横たわると、眠気に誘われるまま目を閉じた。過度の疲労と栄養失調で病んだ身体は復調しておらず、身体が重くてよく動かない。明確な敵意や殺意がない現状、まずはこの役立たずな身体をどうにかする必要があった。

 いつでも掴めるよう傍らに剣を置いてうとうとして、どのくらい経ったのか。二つの気配が、琥琅が閉じこもる天幕の外に止まった。


「――――あの、すみません。起きてますか?」


 天幕の外から聞こえてきたのは、ここで初めて目覚めたときに聞いた瓊洵ではない声だった。もっと柔らかくて、弱そうな声だ。まるで兎か何かのような。


 まどろんでいた琥琅の意識は、その一声で一気に浮上した。考えることなく、音もなく剣の柄を握り、片膝をついて、いつでも戦闘を始められるよう体勢を整える。幾度となく死線を越えてきた本能は、弱ってなお当たり前だった行動を無意識になぞっていた。


 人間の気配の傍らには、かすかに妖魔の気配がする。だが争いの気配はまったく感じられず、琥琅は軽く困惑した。妖魔が、どうして人間と行動を共にしているのだろう。術者に飼われているのだろうか。


 琥琅が応えずにいると、沈黙を眠っているのだと解釈したのか、ひそやかな声が聞こえてきた。


雷禅らいぜん……応えなど待たず、入ればよかろ。相手は人虎の姫ぞ。起きていたとしても、どうせ人の世の道理は通じぬ〉

「そうかもしれませんけど……でも一応は僕と同い年の女性の天幕なんですから、声をかけないと」

〈それが誤った対応だと言っておろうに……まあ、不用意に入って飛びかかられてはかなわぬか〉


 かすれた年嵩の女の声は、そう一人納得する。どうやらこちらのほうは、獣に対する正しい反応の仕方を理解しているようだ。ということは、こちらが妖魔の気配の主だろうか。油断しないほうがいいかもしれない。


「――――入れ」


 どうせ後で構われるのなら、起きてしまった今のうちに済ませてしまったほうがいい。そう考えて琥琅が応えをすると、小さく息を飲む音がした。雌の妖魔は、起きているならさっさと応えればいいものを、と咎めてくる。


「……失礼します」


 緊張した声の後、扉代わりの布がめくられた。

 そうして入ってきた、琥琅とそれほど変わらないだろう年頃の少年の、縹色の目と視線を交わした刹那。一瞬、息ができなくなるほど琥琅の鼓動が強く胸を叩いた。その唐突さと激しさに、琥琅は目を限界まで見開く。


 なんだ、これは。


 一方少年も、警戒をあらわにした琥琅を見て顔を強張らせた。それを見て琥琅は急に申し訳ない気持ちに駆られ、思わず剣の柄を握る手を緩めてしまう。そしてそんな自分に気づき、愕然とした。

 琥琅の心中を知らず、雌鷲は片翼を半ば広げて姿勢を低くした。


〈ほ、躊躇っておいて正解じゃの。そのまま入っておれば、首を切られていたかもしれんの〉

天華てんか、痛いですって、落ち着いてください。ほら、彼女は剣を放しているじゃないですか」


 雌鷲に肩を強く掴まれ、少年は悲鳴をあげた。天華と呼ばれた雌鷲はすぐ力を緩め、それはすまぬの、と少年に軽く謝る。

 少年はほうと息をつくと、琥琅に向き直った。どこか無理をしたふうに微笑む。


「えと、僕は綜雷禅。綜瓊洵の、義理の甥です」

「……」

「えー、とりあえず……朝餉は食べたんですね。それはよかった」

「……」


 雷禅と名乗った少年は足元の食器を見下ろして言うが、琥琅は反応できなかった。

 この人間を一目見た瞬間からずっと、胸が高鳴って仕方がない。歓喜か、恐怖か、畏怖か。感じたことのない巨大な感情が心にあふれて、わけがわからなくて言葉が紡げない。何もわからなくて、混乱する。


〈これ、人虎の娘。こちらが名乗ったのじゃ、呆けておらんで、自分も名乗るくらいすればどうじゃ〉

「天華、無理を言っては駄目ですよ。ずっと人間を敵視して育った人なんですから、僕たちを警戒するのは当然でしょう」


 憤る妖魔の雌鷲をそうたしなめ、雷禅は琥琅のほうを向いた。


「今のところは、無理に話さなくても構いませんよ。僕は義叔父上おじうえに言われて、挨拶をしに来ただけですから。あ、これは貴女の着替えです。男物ですけど、構いませんよね?」

「……」


 小脇に抱える籠を指差して問われ、琥琅はなんとかこくんと頷く。雷禅はそうですかと了承して、籠から水筒と杯を取り出し、籠を天幕の出入口近くに置いた。


「水、飲みますか?」

「……」

「これ、渡したいのでそっちへ行っても構いませんか?」

「……」


 水筒から杯へ水を注いだ雷禅がまた問うので、琥琅は頷いた。剣から完全に手を離し、その場に腰を下ろして、警戒を解いたことを示す。

 雷禅はほっとした顔をして琥琅に近づくと、膝をついて杯を琥琅に差し出した。


「濡らした手拭いを籠に入れてありますから、それを使って身を清めてください。夕餉は僕が持ってきます。宿営地の中は自由に歩いて構いませんが、外へは出ないようにしてくださいね」

「……」


 注意に頷き、琥琅は杯に口をつけた。冷たい水が、喉を通りすぎていく。

 やれやれ、と雌鷲の天華は息をついた。


〈ほんにしゃべらぬの。瓊洵には、あれこれとしゃべったというのに〉

「天華、いいじゃないですか。初対面で、こうしてそばまで近づかせてもらえてるんですから。充分ですよ」


 言って、雷禅は琥琅に、さっきよりは自然なふうで笑んでみせた。


「山で育った貴女はまだ人間のことを信じられないとは思いますが、少なくても、ここの人たちは貴女を傷つけたりしませんし、義叔父上も僕も貴女を助けるつもりです。だから、まずはゆっくり養生してください」


 そして雷禅は立ち上がる。琥琅に背中を向ける。――――去っていく。

 嫌だ、という言葉が頭の中に浮かんだ瞬間。気づけば琥琅は、雷禅の服の裾を掴んでいた。


「……あの?」

「……………………琥琅」


 困惑した顔の雷禅に、琥琅はやっと自分の名を告げた。雷禅は目を瞬かせた後、理解したのか頬を緩める。


 それを見て、養母が死んで以来久しく味わうことのなかった感情――――満足した気持ちで琥琅の胸が満たされていった。この西の地のように荒涼としていた世界に導が現れ、大地に根づいて潤していくのを琥琅は感じとる。


 潤った大地は熱をもった。冷たく乾いていた琥琅の心を、決意という光で照らしだす。

 今度こそ。今度こそ、死なせない。この弱い生き物を、自分が守るのだ。

 琥琅は手を伸ばし、雷禅の手に自分の頬をすり寄せた。亡き養母が自分にそうしてくれたように、親愛の情を込めて。

 涙が一筋こぼれた。

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