第15話 雷禅の決意
白虎や駆けつけた
沐浴と夕餉を済ませ、人心地がついた琥琅が暇を持て余して飛び出したのは、天幕ではない。
白虎と共に室を出た琥琅は、隣の室を見た。
雷禅の様子を見たくて琥琅が雷禅の室へ足を向けると、ちょうど
「
「ええ……心配かけてすみません。なんとか大丈夫ですよ」
そう、雷禅は力なく笑う。言葉のとおり、顔色は優れていないし、まとう空気も元に戻ったとは言い難い。昼間の出来事について、まだ心の整理ができずにいるのは明らかだ。
「天華は?」
「室の中にいますよ。今日は疲れたようで、もう眠ってしまいました」
「お、‘
雷禅の様子を見に行こうと琥琅が室に足を向けたところで、背後から能天気な声がした。振り返ると、
〈秀瑛か。その食事は、雷禅にか〉
「はい、食堂に来てませんでしたから。何も食べないのは、身体に悪いです。もちろん、肉は抜いてありますよ」
秀瑛に代わって、にっこりと笑顔で黎綜が答える。白虎に会えたからか、こころなしか嬉しそうだ。
ありがとうございます、と雷禅は差し出された盆を受け取った。
「でも、天華が中で眠ってるんですよね。あんまり騒がしくすると、後でつつかれるか蹴られるかしそうですから、できれば食堂へ案内してもらえると」
「雷、俺の室」
雷禅が秀瑛に道案内を頼もうとしていたのを遮り、琥琅は雷禅の服の袖を引っ張った。すると雷禅は、正気ですかとでも言いたそうな顔で琥琅を見る。両手が空いていたら、額に手を当てていそうだ。
「いいじゃねえか雷禅殿、部屋の主がこう言ってるんだし。一々食堂へ行くのは面倒だろ?」
「ですよねえ。近くで済ませられるなら、それに越したことはないですよ」
「…………そうですね」
秀瑛はくつくつと口元に手を当て、黎綜はにっこりと笑って言う。それが効いたのか何なのか、雷禅は諦めたふうではあ、と息をついた。
そうして、役目を終えた黎綜が名残惜しそうに白虎に手を振って室へ帰った後。琥琅の室の卓子で雷禅が遅い夕餉を食べている傍らで、それにしても、と琥琅が腰を下ろした寝台のそばに寝そべる白虎は呟いた。
〈何故、雷禅の知人があのようなことに協力していたのか……昼に見た者らは
「ああ、そのはずだったんだがなあ」
〈どういうことだ?〉
と、椅子に腰かけ苦く笑う秀瑛の補足に、白虎は首を傾げた。
そういえば秀瑛は、西域辺境について勉強したと言っていたのだ。ならば気づいてもおかしくない。
吐蘇族というのは、
「彗華で富裕層を名乗るなら、吐蘇族の毛織物は不可欠だって言われていたくらいですからね。綜家の工房にも、三人ほど吐蘇族の職人がいましたし。……彼らがこんなことをした理由なら、一つしかないでしょうね」
白虎に問われるまま、雷禅は語る。ぎゅっと唇を噛みしめ、両の拳を握って。――――湧き上がる感情をこらえるように。
それは、一人の男の愚行を人々が裁いた物語だった。
秀瑛が西域辺境へやって来ることになったのは、西域府君に任命させたからであるが、その原因は前任者が任期を終えたからではない。とりたてて優れているわけではない代わりに特別非道でもなかった前任者が、突如人が変わったかのように悪政を行うようになり、それを裁かれたからだ。
重税に税の横領、気に食わない官吏の粛清、気に入った女人の強奪。悪政と呼べるものが一通り行われた。誰が諌めようとしても無駄で、諫言をした官吏や武将が処罰される始末。地方官吏の不正を糺す暗行御使が来ても買収されては、誰も手のつけようがなかった。
先代府君が成した数々の悪行の中でも特に名高いのは、西域辺境に住まう異民族に対して行った弾圧政策だ。区別を通り越した差別が制度として施行され、私兵による虐殺と略奪が頻発した。吐蘚族のように交易で暮らす民族ほど弾圧は厳しく、噂によれば、府君は捕らえた異民族を広大な砂地にわざと逃がし、殺すことを遊びとして喜んだのだという。
そんな現状が一変したのは、今から半年余り前のこと。心ある官吏と雷禅の義父を初めとする商人が結託し、中原へ赴いて皇城にかの府君の処罰を訴えたのだ。悪政の証拠を突きつけられれば、皇城も動かざるをえない。ただちに西域府君は更迭され、彗華中に歓声が轟き、いたるところで宴が何日も催された。
だが、大罪人を法で裁いたところで、失われたものが帰ってくるわけでも、憎しみや悲しみが消えるわけでもないのだ。彗華に在住する少数民族の数も、彗華の清民族の商人たちと彼らとの商取引の数も、以前と比べて減った。先代西域府君の悪行の傷痕は深く、癒すには長い歳月がかかるだろうと巷ではささやかれている。
〈…………では、清民族に対する復讐のためだと?〉
「おそらくは。…………昼に死んだ僕の知り合いは、子供を目の前で官吏に殺されたそうですから」
白虎の確認に、雷禅は感情を押し殺した声と表情で肯定した。
琥琅は雷禅の説明で、男たちの浮かんでいた激情の理由に納得がいった。白虎は清国を守護する神獣である上、琥琅はその支配者側である清民族の女なのだ。しかも、男たちの邪魔をした。男たちからすれば、憎悪の対象でしかないだろう。――――琥琅は、そんな迫害とはまったく無関係だったというのに。
後頭部を掻きながら、秀瑛ははああ、と長息をついた。
「……噂で聞いちゃいたが、その場にいた人間から実際に聞いてみるときついな……」
「これでもまだましと言われてますよ。僕らには知らされていないだけで、もっとむごい目に遭った人もいると言う人もいます。何故あそこまで異民族を憎んだのか……今となっては謎のままです」
別に知りたくもないですけど、と雷禅は吐き捨てた。温厚な彼にしては珍しい、強い調子と剥き出しの感情である。白虎も秀瑛も、意外そうに目を瞬かせた。
が、深く追求することはせず、秀瑛は話を進めた。
「……何にせよ、こうなると吐蘇族の自治区に行くしかねえな。確か、長老連中が部族をまとめてるんだったか」
「ええ。自治区の中にいくつか集落があって、各集落をまとめる長老の筆頭が、吐蘇族全体を統率しています。ですが、弾圧のときに吐蘇族の有力者が何人か処刑されてますからね。先代西域府君が更迭されたとはいえ、西域辺境府の官吏や武官が集落へ入れてもらえるかどうか……」
「でも行くしかねえだろ。吐蘇族全体で、反乱を起こそうとしてる可能性があるわけだからな。あの三人だけが幽鬼を使って西域辺境の混乱をくわだてたとしても、話を聞いて釘を刺すくらいはしておかねえと」
「それはそうですけど……」
秀瑛の言い分に、雷禅はそれでも渋い顔だ。
当然である。吐蘇族が清民族、ひいては清国の役人に対して、強い不信感どころか怒りや憎悪を抱いていることは、琥琅でさえ知っているのだ。仕事柄、吐蘇族と交流することがある雷禅は、より深く知っているはずである。
目を半ば伏せて思案していた雷禅は、やがて顔を上げた。その表情には何故か、固い決意がある。
琥琅は嫌な予感を覚えた。
「……わかりました。では、僕も同行します。吐蘇族の重鎮の一人とは面識がありますから、僕がいれば彼らも耳を傾けてくれるかもしれません」
「! 駄目! 雷、関所。俺と白虎、行く」
琥琅は寝台から立ち上がり、眉を吊り上げた。
聞けば聞くほど、吐蘇族の自治区とやらは危険な場所に思えてならない。ただ住民が清民族に対して憤っているというだけではない。方術を心得ている連中がいるようなところなのだ。弱い雷禅はそんな危険な場所になんて行かず、玉霄関で大人しく待っているべきだ。
だというのに、雷禅は首を振った。
「いいえ、僕も行きます」
「雷!」
「琥琅、さっき言ったでしょう。秀瑛殿だけでは、おそらく吐蘇族の長老は話を聞いてくれません。兵を連れていれば、尚更、不信感を募らせることでしょう。それでは話し合いにならず、過激な者たちをより刺激してしまうだけです。彼らが穏便に話し合いをしてくれるかもしれないなら、僕も同行する意味はあります」
「でも」
琥琅が食い下がろうとすると、雷禅は琥琅、と名を呼んで制止した。
「僕も、彼らが本当に反乱をくわだてているのかどうか、知りたいんです。彼らだけなのか、他の知り合いもかかわっているのか。……自分の目で確かめたいんです」
だからお願いします、と願望を繰り返す顔と声には、強い意志があった。決意は固く、到底自分の力では翻させられそうにないと、琥琅は感覚で理解する。
「すみません、琥琅。今回は僕の我が儘を聞いてください」
「……」
とどめとばかりの一言である。琥琅は、雷禅の説得を諦めざるをえなかった。
雷禅は弱い。けれど、そんな雷禅に琥琅は弱いのだ。彼が本気でそうしたいのだと願い、引かない意思を示されると、逆らう意思が失せてしまう。よく躾けられた獣がそうであるように。そんな自分の弱さを琥琅は恨んだ。
それもこれも、秀瑛が妙な話を琥琅たちに話して、雷禅をその気にさせたせいだ。琥琅は秀瑛を睨みつけ、八つ当たりした。
「琥琅、そんなに睨んでは駄目ですよ」
「いや、仕方ねえよ。俺は雷禅殿にそう頼むつもりだったし、琥琅殿はあんたのことが大事なんだから…………けど、多分危険だぞ? それに、もし戦うことになったら……」
「承知の上です」
今日のようなことになるかもしれないという秀瑛の言外の忠告にさえ、雷禅は頷いてみせる。表情は硬く、本心はまったくそうではないと明らかだというのに。覚悟なんて何一つできていないくせに、それでも行くのだと言い張って聞かない。
雷禅は琥琅のことを子供だとよく言うが、雷禅だって大概だ。琥琅は憤慨した。
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