第16話 飼われた虎

 それからいくらかのやりとりをして秀瑛しゅうえいへやを出た後、室内には奇妙な沈黙が下りた。


 寝台にもそもそ上がった琥琅ころうは、雷禅らいぜんに背を向け、寝台の横の卓子に置いていた巾着から硝子玉を取り出した。手のひらでもてあそび、寝台の上に転がしながら、らいの馬鹿、と心の中で罵る。弱いのにどうして危険なところへ行きたがるのか、まったく理解できなかった。


 食事を終えたばかりの雷禅は、そんな琥琅の恨み混じりの視線を敏感に察知し、困ったように眉を下げた。寝台の端に近づいて、琥琅を見下ろす。


「琥琅、そんなに怒らないでください」

「……怒ってない」


 そう、怒ってはいないのだ。ただ、強烈に反対で、不愉快で、不満があるというだけ。雷禅の意志を止めることは諦めている。

 それを怒っているというんですよ、と雷禅は額に指を当てた。


「貴女が反対するのは当然でしょう。僕は弱いですからね。だからこそ、義父上は貴女を僕の護衛につけたわけですし」

「だったら行くな」

「それはできません」


 一縷の望みをかけて琥琅が止めようとしたのに、雷禅はまた困ったような笑みで、けれどはっきりと拒否する。睨みつけても、意志を貫く姿勢は変わらない。兎のように逃げ足が速いわけでもないくせに、無駄に頑固なのだ。

 琥琅はさらに腹立たしくなった。


 死はとても勝手で残酷だ。生きるために最善を尽くしていても、戦っていなくても襲いかかってくる。養母がそうだった。あの日、養母に死の影など一片もなかったのだ。養母だって予期していなかっただろう。


 死は突然訪れるものだということを、雷禅はわかっているのだろうか。先代府君という人災のせいで、彗華のみならず彼もまた苦難に遭ったというのに。こんなにも琥琅が行くなと言っているのに。なのに危険な場所へ行こうとするなんて、雷禅は馬鹿だ。

 見かねてか、白虎がため息をついて口を挟んだ。


〈雷禅。何故、それほど吐蘇とそ族の自治区へ行くことにこだわる。知人の凶行の真相を知りたいと言っていたが、お前は商家の跡取りなのだろう。しかも、武芸に特別秀でているわけでもあるまい。わざわざ危険な目に遭いに行く必要はないはずだ〉

「……ええ、そうですね」


 雷禅はそう、笑みを淡く悲しそうなものに変えた。


「でも、吐蘇族にはまだ知り合いがいるんです。その人がもし今回の件に関与しているなら、いえしていなくても、吐蘇族が反乱を起こそうとしているなら、それを止める手伝いがしたいんです。……見知った人が死ぬのを見ているだけなのは、もう嫌ですから」

「……」

「もちろん、死ぬ気はありませんよ。貴女たちの出番になりそうなら、大人しく引き下がります。だから、お願いします」


 どこか申し訳なさそうに雷禅は言う。それで琥琅は、もう何も言えなくなってしまった。


〈……ふん、情けないのが本性だというのに、何を格好つけておるのじゃ〉

 翼がはばたく音と共に、そんな小馬鹿にした声が窓から聞こえてきた。見てみると、天華てんかが窓から入ってきて雷禅の肩に止まる。


〈まったく、騒がしくしおって。窓から聞こえてきておったぞ。おかげですっかり目が覚めてしもうたわ〉

「すみません、窓が開けっぱなしでしたね。でも天華、僕は別に格好をつけたわけじゃないんですけど」

〈どこからどう聞いても、格好つけじゃろう。獣を焼く匂いにも顔をしかめるお前が、物騒な輩のもとへ行くなど、身の程知らずの格好つけ以外のなにものでもないわ。頭に血が上った連中に殺されなければいいがの〉


 眉を下げる雷禅を見下ろし、彼の目付け役を自称する雌鷲の化生は反論を一蹴する。はるか昔に幾多の戦いをくぐり抜けた白虎も、これに賛同した。


〈同感だ。吐蘇族の勇猛な気性は、昼の者らを見るに今も変わっておらぬ。雷禅、彼らはお前の技量でどうにかなるような相手ではないぞ〉

〈そう、お前は荒事に向かぬ。お前の一番の役目は、虎姫こきが暴走せぬようしっかり躾けることじゃ。虎姫に言うことを聞かせられるのは、誰よりもまずお前なのじゃからのう〉

「……人を調教師か飼い主みたいに言わないでくださいよ」

〈似たようなものじゃろう。いつになったら認める〉


 苦虫を噛み潰したような雷禅の顔に、天華は嘴に羽を当てくつくつと笑う仕草でからかった。


 琥琅がそう家に拾われてから、幾度となく繰り返された雷禅に対する天華のからかいだ。彼女は琥琅のことを、雷禅に飼われた雌虎だと言って憚らない。

 けれど、似たようなものだとは琥琅も思っている。旅の一座が連れている、飼い主に従順な猛獣と同じように、琥琅も雷禅に忠実なのだから。先ほどの件は、その表れ、証拠のようなものだ。

 ふと衝動に駆られ、琥琅は雷禅に抱きつき、彼の首筋に顔をうずめた。


「ちょっ琥琅! いきなり何するんですか!」

「あったかい」

「意味がわかりません! 離れなさい!」

「やだ」


 雷禅の命令を、琥琅はふくれ面で拒否した。雷禅が琥琅の願いを退けるのだ。なら、琥琅だって彼の言うことを一々聞く必要はないはずである。

 天華はくつくつと片翼の先を嘴に当てた。


〈よいではないか、雷禅。お前とて悪い気はしないであろう?〉

「いいも悪いもないですよ! 琥琅、離れなさい」

「やだ」


 二度目の命令も琥琅は無視し、より強く抱きついた。さらに雷禅は慌てるが、知ったことか。走った後のように速い、雷禅の脈の音と動きに感覚を集中させる。


 ――――――――大丈夫、雷禅は温かい。


 琥琅が思わず頬を緩めていると、たまらず、といったふうで天華はばさばさと両翼をばたつかせて、げらげら笑った。


〈愛されておるのう、雷禅。もういっそ、そのまま添い寝してやればよかろ。そこに寝台があるのじゃから〉

「しませんよ!」


 雷禅は真っ赤になって叫ぶ。よっぽど嫌らしい。琥琅としては、是非ともしてほしいのに。


〈……雷禅。添い寝が嫌だというのなら、せめて主が御眠りになるまで手を握って差し上げてくれ。お前が主の精神を安定させているのは、疑いようのない事実なのだから〉


 今回は徹底抗戦しようと琥琅が雷禅を見つめていると、足元からそんな援護がうろたえる雷禅めがけて飛んでいった。琥琅の忠実なるしもべ、白虎である。

 孤立無援になり、雷禅は天華と白虎に恨みがましい目を向けた。やがてはあと息をつき、自由なほうの手でぎこちなく琥琅の頭を撫でる。


「……わかりましたよ。琥琅、手を握るので我慢してください」

「……手、繋いでくれる?」

「繋ぎますから。だから、今は離れてください」

「……ん」


 雷禅に促され、確約を得た琥琅は今度は素直に従った。ふん、と天華は笑い混じりの息をつく。


〈そうやって最後は甘やかすのなら、最初から甘やかしてやればいいものを〉

「天華、琥琅をけしかけないでください。……琥琅、もう寝ましょう」


 からかう声音の天華をまた睨み、雷禅は琥琅を促す。琥琅は目を瞬かせ、ん、と頷いた。

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