第六章 復讐
第24話 関守たち
「報告、報告!」
上ずった声が聞こえ、西域辺境側の城楼にて指揮を執っていた
こんな切羽詰まった声を聞いたのは、一体何度目だろうか。
十七歳で上京して兵士となり、長年の労苦の果てに対西域諸国の最後の砦を任されて、早五年。この地は旅人が行き交うだけ、時折賊や妖魔討伐で周辺を巡るだけの平穏な日々が続いていた。先代西域府君の統治の間でさえそうだったのだ。若かりし頃には当たり前だった争いの声を聞くことはもうないと、安堵とも寂寥ともつかない気持ちを時折抱いたものだった。
だというのに、ここ最近は何度もこの関所で聞いている。それも、幽鬼や妖魔といった、この地ではめったに遭遇することのない人外からの襲撃という、長年の兵役でも遭遇したことのない事態でだ。人生何が起こるかわからないと言うが、こんな事態が起きるものだとは、一体誰が想像できるだろうか。
この非常事態のせいで元仲は、着任以来もっとも多忙な日々を送っている。襲撃への備えだけではなく、今まで遭遇したことのない人外に戸惑い怯える兵士たちの士気を保ち、関所内部にいる兵士以外の者たちの不安や不満をも宥めて秩序を保たなければならないのだ。これほどの重責と多忙は、前線に赴いていた若い頃でも経験したことはなかった。
「何事だ」
跪いた若い兵の硬く強張った面を見て、元仲は何かよくない事が起きたのだと考えた。昨日また幽鬼と妖魔の襲撃があり、その後も足止めをくらっている商人を落ち着かせたりして、疲労が溜まり続けているというのに。元仲はこみ上げる苛立ちを努めて抑えなければならなかった。
「南西より、
「……何だと?」
頭の回転が速い元仲にしては珍しく、報告を理解するのがわずかに遅れた。――吐蘇族が妖魔を連れている?
「馬鹿な! 妖魔が人間に従うはずがない!」
「し、しかし本当に」
兵はどもりながらも食い下がる。周囲の兵や官吏たちも嘘か真か判断しかねてか、ざわつく。
ここで議論するより直接見たほうが早い。そう判断し、元仲は西の櫓へ向かった。
櫓への階を駆け昇り、欄干から身を乗り出して西の荒野を見はるかす。華綾山脈まで荒野が続く、もう十数年と見慣れた景色が広がる。
近頃はめったに人の姿を乗せなくなった大地に、異質なものがあった。数里先に陣取った二百ほどの集団と、遠目にも人でないとわかる巨大な影。
「…………!」
喉の奥で悲鳴がこぼれた。――――確かにそれは、妖魔と呼ぶべき異形だ。
何故、と元仲はあえいだ。
先日の襲撃に限らず何度か妖魔を退治している元仲は、妖魔の多くが人間を糧か玩具としか見ない生き物だと知っている。野生の猛獣と同様、知性というものを持ち合わせておらず、人間にけして馴れないのが妖魔だ。術で従わせることはできるが、それはあくまでも一体二体での話。あのような群れで従うなんて、聞いたことがない。
しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。一刻も早く妖魔を排除せねばならない。
元仲は両手をぎゅっと握りしめると、周囲で慌てふためきあるいは恐れおののく兵たちに叱咤し、各自装備を固め配置に就き、玉霄関の外にいる者たちも守るよう急がせた。そして自分も民の動揺を鎮めるため、階下へ踵を返す。
そのとき、元仲は違和感を感じた。空気か臭いか気配か、あるいはそれら全てか。異質な何かを感覚として察知できたのは、おそらく歴戦の武将としての勘だったのだろう。
元仲は振り返り、またもや悲鳴をこぼしそうになった。
目の前に妖魔の姿があった。鳥や蝙蝠に似た翼を持った何十匹もの妖魔の群れが、玉霄関にぐんぐん近づき、周囲を旋回するのだ。無力な人間たちの混乱を嘲笑うかのように、攻撃は一切せず、速く遅く、高く低く、玉霄関の上空を旋回する。
近くから聞こえてくる悲鳴に、元仲の意識は現実へ引き戻された。震えている若い兵から弩を奪うと、大鷲に似て非なる妖魔へ狙いを定め、心の臓を射止める。妖魔は落下して城壁にぶつかり、城壁の外へさらに落ちていく。
「何をぼさっとしている! 早く妖魔を倒さんか!」
元仲の二度目の叱声に、兵たちは我に返ったように武器を構え始めた。
異民族の一団は玉霄関の数里先で停止したまま、動かない。一際巨大な妖魔もまた動かず、関所を静観している。
それとは対照的に、西域辺境側の門前に築かれた甕城――防御のため城門の周囲を城壁で囲んだ空間は、幽鬼や妖魔から逃れるため滞在していた人々で混乱の極みに達していた。これまでの襲撃で、幽鬼や妖魔には多少慣れているだろうと思っていたのだが、襲ってくる数が尋常ではない。外にいた者たちも中へ押し寄せてきていて、その混乱ぶりはどの襲撃のときよりもひどい。
「静まれ、静まれ! 皆落ち着かんか!」
もっとも近い城壁の上を駆け回って元仲一人が叫んでも、人々の混乱はまるで収まらない。そもそも聞こえてすらいないだろう。この怒号の嵐の中では、何を言っても無駄に決まっている。
数日前に現れ去った新たな西域府君たちの顔が思い浮かび、この事態は自分たちが収めてみせると言っておきながらこのざまかと、元仲は腹立ち紛れに心の中で悪態をつく。正直不安でならなかったのだが、それでも神獣がいるのだからとどこか期待していたのだ。救国の神獣がいるならあるいはと。――――だというのに。
弩を放ち、妖魔をまた一匹屠る。同胞を殺されたというのに妖魔どもは怒り狂うこともなく、まだ空中を旋回している。あの首領格らしき巨大な妖魔に命じられでもしているのだろうか。先ほどより距離を置き、滑空を繰り返す。
くそ、と元仲は歯ぎしりした。
異民族の過激派を足止めするだけならまだしも、この関所に残る兵力だけで幽鬼と妖魔をすべて仕留めるのは難しい。兵たちは傷つき装備も不足しつつあるだけでなく、民衆が恐慌をきたして兵たちの動きを妨げている。援軍が欲しい。
だが、それでもやらねばならない。戦わねば死ぬのは自分たちなのだ。
混乱から立ち直った兵たちが弩や投石機を構え、妖魔の群れを仕留めていく。空から異形の影が消えていくのを見てか、群衆がほんの少しだけだが落ち着きを取り戻していくのがわかった。親とはぐれた子供の泣き声や怪我をして叫ぶ人々の声が、そこここから聞こえてくる。
今なら聞こえるかもしれない。元仲はもう一度、関所の内外の人々を導くべく声を張り上げた。
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