第二章 解き放たれた神話

第8話 誰かの夢

 ぽたり、ぽたり。水が滴り落ちている。

 見たところ、廟の中のようだった。扁額や柱、壁などに施されたあらゆる装飾の細工や彩色は、見事の一言に尽きるもの。どれほどの時間と技と金を費やしたのか。


 何故、自分がこんなところで床に腰を下ろし、水を滴らせているのかわからない。わかるわけがない。滴らせている者と自分は間違いなく同一人物であるのに、どういうわけか意識はまったく繋がっていないのだ。他人の視点で現実を見ていると言えばいいのだろうか。まるで物語を映像として見ているかのように。


 現実にそんなことが起こるはずがないのだから、これは夢に違いない。しかしそう自覚しても、この奇妙な夢が覚める気配はまったくない。


「では、頼む」


 滴らせる者――老人はそう、背後で見守っていた者を振り返った。

 白い肌と腰に届く烏羽の髪が互いを際立たせあう、腰に剣を佩き男装をした美しい女だ。おそらくは二十代。まとう空気も黒い瞳も力強く、生き生きとしていて、過ぎる美貌を持つ者にありがちな冷たさ、近寄りがたさを感じさせない。人を惹きつけずにはおかない魅力を放つ女人だった。


 女は彫像の前に腰を下ろす老人の傍らに膝をつくと、老人から借りた小剣で自分の手のひらを傷つけた。傷口からにじんだ鮮血が、老人の血に混じる。

 それを見届けた老人は、手をかざして低い声で呟き始めた。手のひらを水に擦りつけるようにして横にすべらせ、手にしているものに水を馴染ませる。


「……願わくば、この呪が二度と解かれるときが来ないことを」


 呪文を唱え終え、老人は祈りを剣に捧げる。夢見る者の心へと流れ込んでくるのは、心底の懇願だ。どうか平和な世であるようにと、彼は本気で願っていた。それが彼の夢だった。


「……残念ながら、その願いが叶うことはないだろう。生きるため以外でも奪い争うことが、人間の性なのだから。妖魔がこの世から絶えることもないだろうさ」


 老人の背後で壁に背もたれ、両腕を組んで見守っていた女は、どこかたしなめるように口を挟んだ。

 血に濡らしたものを握りしめたまま、老人はわかっているさ、と口元に淡く苦い笑みを浮かべた。


「私たちが力を注いだ、長きにわたる戦乱とてそうだ。この国は、乱れた国で理想を掲げて戦った者たちが建てた国だった。それを、正しく導くべき者たちが私欲に駆られて奪い争いあった結果、国が傾き、私たちが立ち上がったのだ。歴史は忘れた頃に繰り返される。妖魔が死に絶えることもない。私と貴女の呪が解かれる日は、必ず訪れる」

「……」

「……それでも、平穏な世がいつまでも続くことを願わずにはいられないのだ。貴女とてそうだろう」

「…………そうだな。私が力を振るわずに済む世が、一番いい」


 女は苦笑し、目を伏せる。その表情こそが、老人が返した問いの何よりの答えだった。

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