第三章 操るものたち
第13話 その血の主は・一
中原と西域辺境を隔てる障壁のような、緑豊かな山から離れて、もう何日になるだろうか。
南北の山岳地帯に挟まれた、細い河川沿いにいくつかの城市や集落が点在するこの狭い一帯は、
回廊に入ってから続く風景は、大地は渇き、花は姿を消し、風に砂が混じるものばかり。左右に見えるのは高山。琥琅の生まれ故郷である
そんな、見ているだけで喉が渇いてきそうな景色が続く河西回廊の最西端に一行は到着した。
「これが玉霄関か……話にゃ聞いていたが、ほんとにでけえな。しかもこれ、建国の頃から建ってるんだろ?」
「ええ。
「どうした、
「天幕の数が多すぎます」
眉をひそめる
そう、常には行きかう人々で賑わう玉霄関の様子は、
近づいてみると、その印象は一層強くなる。活気と呼ぶべき人々の賑わいは変わらずあるものの、どこか苛立った空気が混じっているのだ。空き地で芸人一座が芸を披露しているが、目を向け楽しむ者はあまりいない。むしろ、余計に不安が人々の間にあるのだと確信させる。
秀瑛は周囲を見回して、目を険しくした。
「……部下の報告どおりだな。妖魔と幽鬼がもぐりこまないよう、西域辺境側の城門を閉じてやがる。この状況じゃ、仕方ねえけどな」
「ええ。西域辺境へ向かう交易路は、ここか北方辺境を通る北天行路しかありませんからね。あの山々を登って関所をやりすごすなんて、商品を抱えた商人にはできませんし。普通の人なら、待つか諦めるしかないですよ」
「でもこれ、まずくないですか? 今の時点で、こんなに人が待ってます。そのうちに、関所の敷地内に入りきらなくなっちゃいますよ」
「ええ。ここを発つ人よりもやって来る人のほうが多いでしょうし、幽鬼はこの玉霄関を頻繁に襲っているという話ですしね。……早く事態を収拾しないと、ここすら危険になるかもしれません」
ひとまず一行は、要塞に隣接している兵舎の片隅で野宿の準備をすることにした。下手に白虎を表に出すことで、妖魔と幽鬼出没の噂を確かなものとして広めたくないのだという。自分たちの行き先に注目が集まるのも、秀瑛は避けたいらしい。
雷禅や秀瑛の私兵たちが野宿の準備をしている間、琥琅は暇を持て余して馬車の影に座り込んだ。
一行の天幕で上手く周囲から隠されたそこで、男たちの賑わいを聞くともなしに聞いていると、馬車の中から白虎が下りてきた。
〈主、ここは……?
「ん。玉霄関。関所。商人、旅人、いっぱい来る。綺麗なものも、いっぱい並ぶ」
〈関所ですか。ああ、あの。私があの廟に封じられる前には建設中だったのですが……あれですか…………〉
琥琅が説明してやると、白虎はそう、目と声に感慨深そうな色を混ぜた。
これは、道中でよくあったやりとりだ。天地は変わらなくても、人の営みの詳細は時と共に変化するのが世の常である。白虎が活躍していた頃にはあったもの、なかったものは少なくない。物や歴史、城市、出来事。もちろん、琥琅と雷禅が暮らす彗華や
傍らに寝そべった白虎に琥琅がぽつりぽつりと話をしてやっていると、後頭部で髪を結い上げた、琥琅より少し年上だろう青年が琥琅たちに近づいてきた。秀瑛の従者だという
「琥琅殿、白虎殿、水を飲むか?」
〈ああ、もらおう。主はどうなされます?〉
問われ、琥琅は頷く。すでに二つの器を手にしていた伯珪はにこりと笑みを浮かべると、白虎の前に小さな深皿、琥琅には杯を差し出した。
「暑いな。西部は日中の日差しがきつく、暑いと話には聞いていたが、ここまでとは思わなかった。白虎殿は暑くないのか?」
〈いや、馬車の中は陽光が遮られているし、元々私は暑さも寒さもそれほど感じぬのでな。それより、お前は仕事をしなくていいのか?〉
「ああ、秀瑛様は関令と話をするため、黎綜を連れて関令の公邸へ行ってしまわれたからな。私はこちらの監督補佐だ。まあもっとも、私の出る幕はもうほとんどないようなものだけれどな」
と、伯珪は肩をすくめて苦笑する。本当に仕事がないのだろう。でなければ、わざわざ琥琅たちの様子を見に来たりはしない。
不意に、澄んだ鳥の鳴き声がした。琥琅と雷禅にとっては耳慣れた声。
空を見上げると、大きな翼を広げた鳥が真っ青な空を悠然と飛んでいた。
「
遼寧の世話をしていた雷禅が、口笛を鳴らして名を呼ぶ。それに応じてばさり、と翼が大きくはばたき、掲げられた彼の腕めがけて降下していく。
それを見ながら、伯珪は目を丸くした。
「雷禅殿は、鷲を飼っているのか?」
「飼ってない。でも、前から一緒」
伯珪の問いを琥琅は即座に否定した。主従関係にあるだなんて言おうものなら、かの雌鷲は怒るに違いないのだ。あの鋭い爪牙の餌食になるのは御免である。
そうなのか、と理解したのかしていないのか判じかねる声で伯珪が相槌を打つのを聞き流していれば、雷禅の腕に降り立った天華は片翼でこちらを指した。雷禅はそれに答えている。
それからほどなくして、雷禅がやって来た。天華は白虎を見るなり、ほうと翼を嘴に当てる。
〈これは見事な、紛うことなき神獣じゃの。初めて見るわ〉
〈お前も長く生きた、力ある化生と見受ける。雷禅を主としているのか〉
〈ふん、主と? 雷禅と
と、天華は白虎の疑問を一蹴する。世話を焼かれている覚えはないんですけど、と言いたそうな目で雷禅が見上げているのはまったくの無視だ。
琥琅や雷禅とは違って普通の人間である伯珪は、一頭と一羽を見比べて目を瞬かせた。
「……雷禅殿、もしかしなくても、彼らは会話しているのか? いや、そもそもその鷲、妖魔なのか?」
「妖魔というか、化生の類ですよ。人の言葉は話せなくても内容は理解してますから、気をつけてください。自分からむやみに人を襲うことはありませんが、気に食わなければ容赦なく攻撃しますから」
〈当然じゃ、無礼な者に礼を尽くす道理はないからの〉
〈ふむ、確かにな〉
白虎は頷き、天華に首肯する。どうやらこの一頭と一羽、会ったばかりだというのに気が合うらしい。
しかし、無駄話をしている暇はないのだ。琥琅はいい加減にしろとばかり、口を開いた。
「天華。
〈ああ、大過ない。相も変わらず、商品の意匠の考案に明け暮れておるわ。仔細はほれ、それに書いておる〉
と、天華は雷禅に渡した筒に首を向ける。どうやら、綜家が所有する服飾品の意匠の考案を統括する雷禅の義母は、儚げな容姿と相反した気丈さをこのときとばかり発揮しているらしい。心許せる数少ない女人の無事を知り、琥琅は安堵した。
雷禅もほっと小さく息を吐くと、筒を開けて中の文に目を通した。
目で文を追うごとに、雷禅の表情から穏やかなものが失せ、不安や焦りが混じっていく。それを見ていた琥琅の胸もまた、ざわついた。
焦れたのか、伯珪が口を開く。
「……雷禅殿、どうだ? 彗華の様子は」
「まずいですね。彗華の近辺では幽鬼だけでなく妖魔が何度も出没していて、よほど急ぎの用でもない限り、隊商も旅人も彗華から出て行かなくなっているようです。また、一向に幽鬼と妖魔による襲撃が減らないことを考慮して、西域都護府はここだけではなく、
「!」
「関所封鎖が半月を過ぎたあたりから、西域都護府に押しかける府民もいるらしく、都護府のほうでも事態の収拾を図っているようですが、それもあまり効果はないとか。西域辺境にある綜家の取引先も、妖魔や幽鬼、それに乗じた賊に襲撃されているようですから、他の集落なども似たようなものだろうとも書いてあります」
「事態は悪化の一方、か……」
伯珪はますます表情を険しくする。雷禅も同意し、頷いた。
河西回廊の最西端には玉霄関、西の国境には天鵬関という関所が設けられており、清国と西域の間を行き来する人と物を監視している。これらの関所を通らずに西域辺境やそのさらに西へ行くには、未開の山岳地帯を踏破するか、北天交易路へ迂回するしかない。そうまでしても西域辺境や西域へ行こうとする者は、けして多くないだろう。
それを証明するように、今の彗華は平時の賑わいと華やかさを失くし、幽鬼や妖魔に対する不安と怯えが支配しているのだと、雷禅の義父は記しているのだという。いつ関所の封鎖が解けるかわからない中、この文を書いた前日にもまた妖魔が彗華へ向かっていた隊商を襲撃し、不安に駆られた者たちの間で諍いが起きたりと、不安が不安を呼ぶ悪循環に陥りかけている。近辺の集落が幽鬼や妖魔に襲われたという話は二日に一度の頻度で人々の話題にのぼり、賊もこの騒ぎに乗じて集落を襲っており、西域都護府はそちらの対処にも追われているのだそうだ。
たださいわいにして、食品の不足はまだ深刻ではない。西域都護府は食品の不足による物価の高騰と暴動の発生を防ぐため、食品を取り扱う商人に限って玉霄関の通過を許しているのだ。それだけではなく、倉を開いて食糧を配給したり、貴族や豪商にも自家の倉を開いて食糧を提供するよう命じてもいるという。そのおかげで、今のところは食品の物価の上昇はある程度抑えられているとのことだった。
しかし、物流が極端に制限されていることには変わりない。食糧と水の不足は生き物にとって致命傷だ。この状況が長引けばいずれ、民の不満が爆発して大惨事になるのは間違いない。
「……幽鬼がまだうろついてるのか……ならば、ここから兵を借りるのは難しいだろうな」
「でしょうね。秀瑛殿のことですから、集落を守り、風評被害を抑えるのが先だと言うでしょうし」
「だろうな」
雷禅が一つ頷くと、伯珪も眉を下げた顔で同調する。けれど困っているようには見えない。仕方ないな、とでも言いたそうな空気があった。
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