第30話 愛しき眠りを・一

 琥琅ころうが目を開けると、健やかな呼吸が聞こえるへやの中だった。


 窓から差し込む月明かりが、室内を照らしている。装飾や余計な調度、装飾品のない質素な室だ。そう家の屋敷にあてがわれた、琥琅の室ではない。


 ぼんやりした思考で目を凝らしていると、琥琅はやがて、ここが関令の公邸の一室であることを思い出した。そう確か、夕餉を食べた後、寝台に横になってすぐ眠ってしまったのだ。昼間に一刻ほど惰眠をむさぼっていたこともあって、こんな妙な時間に起きてしまったのだろう。


 身体を起こして床を見てみれば、月光に照らされて青白く見える、白と黒の毛並みが規則正しく上下していた。美しかった毛並みは、死ぬときの養母のような血まみれではないものの、怪我でいくらか乱れている。


 急に不安がこみ上げてきて、琥琅は静かに寝台を下りた。ぺたんと床に座り込んで、眠りに沈む白虎を見下ろす。

 白虎の背を撫でていると、丸い耳がぴくりと動き、青い目がゆっくりと開かれた。


〈……主、お目覚めになられましたか〉

「ん」


 頷き、琥琅は白虎の頭を撫でた。喉を掻いてやると、白虎は気持ちよさそうに目を細める。


〈主。主がお眠りになった後、雷禅らいぜんが室に来ました。主はお眠りだと伝えると、すぐ帰りましたが〉

らい、来た?」

〈はい。主に何か用があったようでしたが……〉


 用。琥琅は首を傾けて考えてみたが、思い当たらず目を瞬かせる。何か頼みごとでもあるのだろうか。明日、どこかへついてきてほしいとか。

 少し考えて、琥琅は立ち上がった。


「聞きに行く。白虎、寝てろ」


 わからないなら、本人に聞くのが一番だ。寝てしまっているかもしれないけれど、それならそれで寝床にもぐりこめばいい。

 琥琅が室を出ると、明かりがぽつぽつと灯る廊下は人気がなく、静寂を裂くように、屋敷の外から唸り声のような風の音が聞こえてきていた。昼間には届いていた公邸の外からの賑わいはなく、あれが夢だったかのようだ。


 琥琅が隣の室の扉をそっと開けると、雷禅は起きていた。結っていた髪を下ろし寝巻に着替え、窓辺に置かれた椅子に座って、窓の外を眺めている。

 振り返った雷禅は、琥琅を見て驚いた顔をした。


「琥琅? 起きたんですか? じゃなくて、どうしてこんな時間にこっちへ」

「雷、来たって聞いた」

「ああ、あれは別に急ぐことじゃ……って琥琅、なんで室へ入ってるんですか。勝手に人の室へ入るのは駄目だって、いつも言ってるでしょう」

「やだ」


 琥琅が室に入って扉を閉めたのを見て、雷禅はぎょっとした顔になった。が、琥琅は無視して窓辺の壁に背を預ける。居座るつもりであることの意思表示だ。

 室内を見回し、琥琅は首を傾けた。


天華てんか、どこ?」

「……彼女なら厩舎ですよ。遼寧りょうねい玉鳳ぎょくほうと話がしたいというので、あちらへ連れて行きました」


 雷禅は顔の半分を手で覆い、ため息をついて答える。琥琅がてこでも動く気がないことを理解して、諦めたのだろう。


「さっき貴女の室へ行ったのは、白虎の加減を見るためと、夜明けに関所の封鎖が解かれることを貴女に伝えるためですよ。関所の封鎖解除による混雑に乗じて警備の隙をかいくぐり、貴女や白虎を一目見ようとする者がいないとも限りません。すでにそういう人がいますからね。すみませんが、明日もここにいるか、人前へ出るなら外套を被るようにしてください」


「……」

「…………何ですか琥琅」


 頷いてからも琥琅が見つめていると、雷禅はたじろいだ。それを見て琥琅はやはり、と確信する。雷禅は本当に、隠すのが下手だ。


「雷、どうした?」


 遠回しにせず、はっきりと琥琅は尋ねた。


 室に入って一目見たときから、琥琅は雷禅がおかしいことに気づいていた。まとう雰囲気がいつもと違うのだ。それにさっきの連絡も、どうにも言い訳がましい。人前に出たがらない琥琅に、急いで伝える必要はない。

 琥琅の勘は正しく、正解は、ほどなくして明らかになった。


「…………貴女の勘には敵いませんね」


 観念したとばかり、雷禅は苦笑した。けれどそれもすぐに失せ、藍色の目は窓の外に向けられる。


「…………吐蘇とそ族の過激派の中に、顔見知りの人たちがいたんです。義父上の手伝いをし始めた頃から知っている人も、あの集落へ行ったときに知り合った人もいました。首謀者の朱利しゅり殿も、あの集落で僕に良くしてくれた人で……取引先の人もいて…………でも、怪我をさせてしまいました」

「あいつら、雷襲った。当然」


「そうかもしれません。でも、話をした人たちなんです。色々と教えてくれて、助けてくれて。吐尊とそん殿とは、やっとあの西域府君がいなくなったって、一緒に笑いました。…………なのに、彼らと戦ったんです。彼らがそれほど西域辺境やしん民族に憎しみを抱いていることを…………僕は知らなかったんです」


 そう、雷禅は広げた両の手のひらに目を落とすと、目を伏せる。琥琅は、それを黙って見つめた。

 要領を得ない答えだ。結局、何故琥琅の室へ行く気になったのかという肝心の答えがない。言いたくないなら、そう言えばいいのに。

 だが、彼が吐蘇族のことで思い悩み、琥琅のもとを訪れたことは理解できた。


 琥琅には、雷禅の考え方が理解できない。何故なら彼女は、顔見知り程度の鳥獣に命を狙われるのは当たり前の大自然で育ったのだ。少し言葉を交わした程度の者に心を許し情を覚えることが半ば死を意味する世界を生きてきた感覚は、今でも琥琅の価値観の根本を成している。たとえば綜家の専属護衛や使用人たちが目の前で殺されても、琥琅の心はわずかも動かないだろう。


 だが、理解できなくても、こうして雷禅が落ち込んでいるのを見れば心が動く。彼の心を傷つけた過激派の者たちを許せないし、彼らがしたことに雷禅が傷つかなくていいとも思う。

 だから琥琅は膝をつくと、雷禅の腕を抱きしめた。


「ちょっ琥琅!」

「雷。俺、雷裏切らない」


 頬を染めた雷禅の抗議を無視し、琥琅は宣誓した。

 躾けられた犬や猫のように誰かに服従するなんて、誇り高い人虎の養女としてあるまじき生き方だと思う。養母もきっと、今の琥琅を見れば呆れ果てるに違いない。


 だが、もう駄目なのだ。この男を裏切ることなんて、天地がひっくり返っても琥琅にはきっとできない。首にではなく、心に鎖を繋がれてしまっているのだから。鎖の錠はとても頑丈で、自分で解くことはできない。

 この人を失くさなくてよかった。ぬくもりを感じて、琥琅は幾度目かの安堵を味わう。

 目を大きく見開いた雷禅は、唇をゆがめ引き結び、瞳を震わせた。


「ええ。……わかってますよ。貴女は僕を裏切らない」


 少し泣きそうな目で、それでも微笑んで雷禅は言うと、包帯を巻いているほうの手で琥琅の頭を撫でた。深い憂いの空気はほどけ、いつもとは少し違う、穏やかな色が彼を包む。琥琅は嬉しくなって、彼の腕を抱きしめる力を強くした。

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