第5話 愛しき故郷にて・三

 夜。山の中腹の開けたそこは、いくつもの天幕が並び、火が灯っていた。


 火を囲んで食事をしているのは、二十人ほどの男たちだ。全員の服が一様に泥や土埃で汚れているが、表情は明るく、一仕事終えて腹を満たす喜びに満ちている。集落の住民が持ってきてくれた酒も手伝って、声が大きくなっている者も少なくない。


 夕方まで撤去作業をしていた琥琅ころうたちは、集落には戻らず、山中の開けた場所で野宿をすることにした。疲れていたし、何より遼寧りょうねい玉鳳ぎょくほうが疲れきっていたのだ。傭兵隊の者たちに誘われたというのもある。

 傭兵隊の宿営地の一角では、看板を立てに行っていた少年――えん黎綜れいそうや他の男たちが、せっせと猪を解体している。夕暮れ前に琥琅が一人で狩りへ出かけ、仕留めた獲物だ。その近くでは、これも集落の住民からの差し入れだという野菜を切り分け、炒めている者もいる。


「よお、御苦労さん」


 琥琅が雷禅を探していると、賑やかな男たちの一人が器と酒を手に、琥琅に近づいてきた。

 琥琅よりずっと年上なのだろう、適度に日に焼けた肌をした男だ。灰白色の髪に深縹色の目、清人ではない顔立ちをしているから、雷禅らいぜん同様、甦虞そぐ人の血を引いているのだろう。だが筋肉がよく発達した体躯や隙のない身のこなしは、到底商人のそれではない。琥琅の感覚は、彼は相当なてだれであると告げていた。


 それもそのはずで、この男は袁秀瑛しゅうえい。黎綜の叔父であり、北部の傭兵隊の長である。北方での異国との小競り合いが終わり、仕事が激減したので、西方に仕事を求めて移動中らしい。


 切り分けられ串に刺された猪の肉が火に炙られているのを見つめながら、秀瑛は言う。


「いい匂いだな。あの量なら、全員がたらふく食えそうだ。あんなけでけえ猪を、弓もなしで一人で狩っちまうとは、さすが噂に名高い‘人虎じんこ’だな」


 と、秀瑛はからりと笑う。酒の匂いが鼻について、琥琅は目元に皺を刻んだ。


らい、どこ?」

「御曹司なら、他の奴らも一緒にこの近くの泉へ水浴びしに行ったぞ。汗と土埃まみれだからな。あいつらが帰ってきたら、飯を食う前にあんたも行ったらどうだ? あんたも随分あちこち汚れてるぞ。ほれ、頬に返り血がついてる」


 と、秀瑛は琥琅の顔を指差す。言われるままに頬をこすって手の甲を見てみれば、確かに血がついていた。返り血は浴びないようにしていたのだが、しくじったようだ。


「それにしても、琥琅殿は美っ人だなあ。綜家にゃ‘人虎’がいて、武芸に傾倒しすぎて二目と見れない顔だから邸の奥から出ないって噂を聞いたことがあるが……むしろ逆じゃねえか。北方辺境にも美女は割といたけど、比べものになんねえな」

「まあ、外見だけですよ。中身は昼に見たまま、子供です」


 不意に、そんな苦笑気味の声が会話に割り込んできた。声がしたほうを振り向けば、声音そのままの表情をした雷禅が茂みから姿を現している。

 琥琅は雷禅に駆け寄った。


らい

「おかえりなさい、琥琅。狩りは無事に成功したようですね」

「ん。猪」


 こくんと頷き、琥琅は答える。雷禅は、そうですか、と一瞬だけ悲しそうな色を目に浮かべ、すぐいつもの表情に戻った。


「琥琅、食べる前に泉に入っておいてください。傭兵の皆さんは水浴びを終えましたから、一人で入れますよ」

「おお、さっき、俺も勧めてたところだ。野郎どもにゃ行かねえよう言っといてやるから、綺麗になっとけ。行き方は……」

「僕が連れて行きますよ。秀瑛殿たちは、先に食べておいてください。ああ、琥琅はこう見えてもよく食べますから、肉を少し多めに入れてあげてください。僕は結構ですから」

「要らねえのか? お前、ひょろいなりして結構働いてたが……まあ、そう言うなら入れないよう、料理担当の奴らに言っておいてやるよ」


 不思議そうに片眉を上げた秀瑛だったが、それ以上問わずに肩をすくめる。雷禅は、助かります、と礼を言った。



 宿営地の明かりと賑わいから離れると、辺りは昼間以上の静けさに包まれた。風が吹いていなければ、鳥獣や虫の鳴き声もない。濁流の音も遠い。二人の足音ばかりが耳に届く。

 雷禅と二人きりになって、ようやく琥琅の精神は緩んだ。人間嫌いの彼女にとって、見知らぬ男たちに囲まれてあんな重労働をするなんて苦行以外のなにものでもないのだ。しかも男たちは、つい最近まで戦に参加していた傭兵というだけあって、皆筋骨たくましい体格をしている。それだけで、琥琅からすれば警戒するべき対象だった。


 そして雷禅も、肉を焼くあの匂いに辟易して宿営地から逃げようとしたに違いない。鳥獣の言葉を解する異能を持ち、人間と同じように友として接する雷禅は、鳥獣の肉を食べることだけでなく調理を見るのも好まないのである。

 琥琅が小さなため息をつくと、自分の心身の疲れは見せず、雷禅はくすりと笑った。


「疲れましたか。まあ、あんなにたくさんの人に囲まれて作業するのは、久しぶりですからね。狩りもしたばかりですし……御苦労様でした」

「明日、まだある」

「ええ。でも大きな倒木や岩は取り除きましたし、土砂も大分運び出せましたからね。明日頑張れば、明後日には通行可能になると思いますよ。ああそれと、天幕を一つ貸してもらえることになりましたから。今夜はちゃんと天幕で休めますよ。……まあ貴女なら、人の気配から離れていれば、外でもいいのでしょうけれど」


 と、雷禅は笑みを深めた。

 いいも何も、元々、琥琅はそのつもりだったのだ。見知らぬ男たちと夕餉を共にするのは我慢できても、雑魚寝は許容できない。警戒して安眠できないのはわかりきっている。雷禅が添い寝してくれるならまだましかもしれないが、彼は許してくれないに決まっているのだから、宿営地から離れた適当な木の枝に上りでもして一人きりの寝床を確保するつもりだった。


「雷、一緒?」

「…………いえ、僕は秀瑛殿たちの天幕で寝させてもらいますよ」

「やだ。雷、一緒」


 奇妙な沈黙を経て答える雷禅に、琥琅はふくれた。

 どんな天幕なのかはわからないが、一人しか寝られないはずがないのだ。ならば二人で眠ればいい。一人で眠るのもいいけれど、雷禅と一緒のほうがいい。

 雷禅は、頭が痛そうに額を押さえた。


「琥琅、駄目ですよ。前から何度も言ってるでしょう。最低でも、他の人の目がある場所ではよほどのことがない限り、僕たちは同じ天幕で眠ったりしないようにしなければならないと。この気温なら、外で一晩眠っても死にはしませんよ」

「でも宿、同じへや

「それとこれは別です」


 琥琅は食い下がるが、雷禅は即座に却下する。目を合わせようともしないあたり、本気で嫌らしい。

 理解できない理由であることにも、雷禅が徹底して拒否の姿勢であることにも琥琅は苛立った。同時に、そこまで嫌がられているのが悲しくて、頭が下がっていく。


 そんな琥琅を見かねてなのか、しばらく重い空気が流れた後、琥琅の手に一回り大きな手が重なった。目を丸くして琥琅が顔を上げると、雷禅は一瞬だけ琥琅を見下ろし、すぐ前を向く。


「…………泉に着くまでですよ」


 やはり前を向いたまま、ぼそりと雷禅は呟く。そっけない顔と物言いだけれど、頬がほんのりと赤い。

 それが不思議だったけど、雷禅から触れてきたことが嬉しくて、琥琅は雷禅の腕に抱きついた。雷禅は慌てていたが、琥琅が気にせず抱きついていると、やがて大きなため息をついて諦める。ただし、身体は緊張していた。琥琅は雷禅を食べたりしないのに。


 緊張を紛らせるためか、雷禅はそうえいえば、と話題を変えた。


「昼間は聞けませんでしたけど、故郷に帰ってきてどうでしたか?」

「ん、どこも変わってない。そのまま。でも、なんか変」

「変?」


 眉をひそめる雷禅に、琥琅は頷いてみせた。


「崩れた崖の近く、変な気配する」

「変な気配……ですか。方術の気配ではなく?」

「違う」


 雷禅の問いに首を振り、琥琅は断言する。術者には数度だけだが出くわしたことがあるので、方術なら気配でわかるはずだ。


「そうですか……まあ、この山で妖魔や術者の賊が最近出没しているとは麓の集落で聞きませんでしたから、そんなに気にしなくていいんじゃないですか? 天地の精気が集まっているのかもしれませんし。森を探せば、人の言葉を話す妖魔もいるかもしれませんね」


 と、雷禅は気楽に言う。あの奇妙な感覚を忘れられない琥琅は賛同しかねたが、かと言って気配の正体はわからないので反論はできない。


 そうこうしているうちに、泉が見えてきた。

 月に照らされた泉の湖面は、鏡のように静かだった。近づいてみても、大雨による水の濁りは見当たらない。川の水はあんなに色を変え、勢いよく流れているというのに。その代わり、先に身を清めたという男たちのものだろう砂埃やら何やらが、泉の周囲を汚していた。


「僕は先に戻りますから、一人で戻ってきてくださいね。道はわかるでしょう?」

「ん。雷、待たない?」

「……先に戻りますね」


 琥琅が首を傾けると、おかしな笑顔を張りつけて、雷禅は踵を返した。琥琅が止める間もなく、雷禅の背中はあっという間に夜闇に消えていく。

 何故逃げるのかと頬を膨らませていた琥琅だったが、やがてため息をひとつつき、服を脱いだ。


 泉に身を沈めると、適温より少し冷たい水温が琥琅の身体を包んだ。泉の底は深く、足がついてどうにか肩が湖面から出る程度。沈めたり腕を動かしたり、歩いたりして水中に生まれた水の流れが、琥琅の身体についた土埃を取り払っていく。

 水の流れが身体に当たる感覚を楽しみながら見上げた空は、すでに夜の帳が下り、月と星が姿を見せていた。真っ白な月は星々を圧倒して存在を誇示し、琥琅の全身を余すところなく照らしている。先ほども、雷禅の赤く染まった耳がはっきりと見えた。


 雷禅はいつもああだ。琥琅が抱きついたり一緒にいてほしいとねだったり、目の前で服を脱ごうとしたりすると、赤くなって怒るか逃げるかする。他の綜家の者たちもだ。彼の義叔父に引き取られて約二年、彼らに注意されたことは数えるのが馬鹿らしくなるくらいである。


 二年もこうしたことを繰り返しているのだから、自分が人間として不出来であるから彼らは呆れ、手を焼いているのだということくらい、琥琅もいい加減理解している。‘人虎’の異名は、琥琅の武芸や虎好きの面だけを見ての呼称ではない。

 だが、そうとわかっていても無理なのだ。人間らしい考え方や振る舞いを理解し、倣うことが琥琅にはできない。雷禅の義母のように裾の長い服を着て化粧を顔に施し、たおやかに振る舞うなんて、天華が腕立て伏せをするくらい、できない。


 振る舞いのことで怒られるのは今でも納得できないが、仕方ない。琥琅が今身を寄せているのは綜家――人間の領域で、この山脈ではないのだ。見世物の猛獣たちがそうであるように、理解も納得もできなくても、人の世の論理で生きていかなければならない。


 だからこそ、琥琅は雷禅に触れてほしいと思うし、触れさせてほしいのだ。彼の存在を感じることは、琥琅にとって何よりも心を落ち着かせ、癒すのだから。人目がつくところでは駄目だというなら、せめて二人のときだけでいいから触れさせてほしい。琥琅はいつでもそう願ってやまない。

 雷禅が去った木立を見つめ、琥琅は長い息をついた。

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