第6話 愛しき故郷にて・四
湖畔に上がると、琥琅は持ってきた手拭いで身体を拭き、替えの男装をまとった。今まで着ていたものは砂埃を軽く払ってから、泉に浸して簡単に水洗いする。どうせ明日も土砂の撤去作業で、山から離れられないのだ。どこかに干しておけば、明日の内に乾くだろう。
さあ戻ろうと、琥琅が立ち上がったときだった。
「…………?」
琥琅は、静寂の中にひそむざわめきに気づいて目を細めた。
音はなく、辺りは相変わらず静寂に満ちている。だが琥琅がその半生で培った感覚が、違和感を感知していた。
力だ。それもここから離れたところで、力が何かに向かって放たれた。
その力が危険なものかどうか、わからない。だが胸がざわめいていた。それは、かすかな力の振動を感じとったからか。動け、と何かが琥琅に命じる。
琥琅は愛剣を腰に佩くと、代わりに濡れた服を湖畔に捨て置き、力の源へ向かった。
足音を殺して歩くほどに、気配は濃くなっていく。しかもそれは、ただの気配ではなかった。人や鳥や獣――――琥琅が今まで出会ったことのあるどの生き物の気配とも違う。例えば夏の木陰に吹く爽やかな風や、滾々と湧き出ては流れる水の清さを想起させる。清冽という形容は、こういうときに使うのだろうか。
大自然の清らかなものが脳裏に浮かぶ一方で、琥琅は不思議なことに懐かしさを感じた。そしてどういうわけか、昼間に見た、近づきたくなるあの崖も連想する。まったく関係のないのに、何故。
不可解に眉をひそめたその刹那。茂みの向こうで殺気が膨れ上がった。
感知した琥琅の身体が、横手からの一撃を無意識に避けた。幹に硬いものが当たり、続く二撃目は剣を抜いて防ぐ。
跳びずさって襲撃者と距離をとった琥琅は、月光に照らされる姿を見て目を見開いた。
その姿を、人間と言っていいのだろうか。確かに人間に近い姿をしてはいるが、口は耳元まで裂け、目は縦に瞳孔が開き、手足の爪が異様と言っていいほど長い。まるで指に括りつけられた刃だ。人間の姿をしていても、人間とは違う生き物のようにしか思えない。
幽鬼のうつろな目に、殺意が宿った。獣の敏捷さで迫ってくる一撃を琥琅はかわし、喉を狙って仕留める。鮮血が顔や服を濡らす。
が、それで危機は去らなかった。幽鬼が倒れた直後に周囲からいくつもの殺気が立ち上るや、琥琅に襲いかかってきたのだ。全部で三体。それも、幽鬼ばかりだ。
道中に一度遭遇した賊の集団とは比べものにならない殺気と緊張感が、場に満ちた。琥琅の心身は殺気に反応し、我が身を狙う爪牙をよけ、返礼として剣を向ける。
次々と幽鬼を屠り、最後の一体の胸を貫いた琥琅は、剣を振るって幽鬼を大地に放った。周囲に生き物の気配は絶え、血の臭いや争いの余韻、夜の静寂が横たわる。
だが、これでも琥琅の本能はまだ、警戒を怠るなと警告するのだ。戦いを終えたばかりだからではない胸のざわめきが、琥琅に早く、と急かす。
「……!」
剣を鞘に収める間も惜しみ、琥琅は駆けだした。
月が照らす山中をただ走っていると、やがて、一際明るい開けた場所が見えてくる。男たちの馬鹿騒ぎは相変わらずで、誰もが夕餉に舌鼓を打っていた。異様な気配に気づいている様子は見当たらない。
早く、雷禅の無事を確かめなければ。琥琅は茂みから飛び出した。
「
「ああ琥琅、おかえ……って、どうしたんですその血はっ?」
「雷、無事?」
「え、ええ、大丈夫ですけど……何があったんです?」
琥琅の様子に不安を覚えたのか、雷禅の表情が硬いものになる。琥琅は頷き、告げた。
「幽鬼いた。きっとまだいる」
「幽鬼? なんですかそれ」
「敵。あいつら、危険」
黎綜に説明する時間ももったいなく、琥琅は危険の主張を繰り返す。雷禅が無事であったことには安堵するが、危機であるという焦りはまだ消えない。
黎綜たちは困惑していたが、さいわいにも、雷禅と秀瑛の反応は違った。
「……雷禅殿、‘
「敵意には敏感ですよ、‘人虎’ですから」
「だよなあ。――――おい、琥琅殿。その幽鬼とかいうのは、近くに来てるのか?」
木立を睨む雷禅とは反対に、冷静な秀瑛は肉を咀嚼し終えてから問いかけてくる。その目はすでに、先ほどまでの気さくな男のものではない。
「泉から離れたとこ、いた。俺追いかけてきてたら、来る」
「そうか。……んじゃ野郎ども! 食ってるとこ悪いが、迷子の客をもてなす準備をしろ! ぐずぐずしてっと寝首をかかれるぞ!」
秀瑛は立ち上がるや声を張り上げ、部下たちにそう指示を下した。輪に加わらず、話を聞いていなかった男たちはわけがわからないといった顔をしていたが、すぐにきびきびと動きだした。
指示はたちまち全員に通達され、各自が天幕から剣や盾などを用意する。中には明かりを周囲の木に括りつけにいくに者もいた。夜の山中での戦闘において、夜目や明かりが生死を分ける重要な要素になるからに違いない。
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