清国虎姫伝

星 霄華

序章

 その日、彼女は仕留めた鹿を肩に担ぎ、上機嫌で我が家へ帰ろうとしていた。


 何しろ、久しぶりの大物だ。最近は川魚や狐といった小物しか狩ることができず、賊も出ないから食糧を奪うこともできず、身体が大きな養母と分けあうには少々物足りない日々が続いていたのである。そうした小腹が空く日々には慣れているけれど、そろそろ満腹になるまで肉を食べたいと思っていたところだった。


 これだけあれば、二人が満腹になるだけでなく、保存食を作ることもできる。持って帰れば、きっと養母も喜ぶだろう。

 そんなふうに、養母との食事に思いを馳せて浮かれていたのだ。


 だがそのささやかな幸福は、我が家の近くまで来て空気の変化を感じた途端、霧散した。なんだこれはと息を飲み、彼女は全身に緊張を走らせる。

 異常な空気が辺りに漂っている。あらゆるものを抱き留める静寂で満ちているべきなのに、満ち満ちたこの不穏な色はなんだ。山の妖魔や化生が争っているだけなら、こんなに禍々しく広範囲に気配が広がりはしない。山の鳥や獣たちが鳴き声一つあげず、ねぐらへ逃げて息をひそめているのは当然だ。


 唐突に、一際強く気配が届いてきた。しかしそれは少しの間だけで、やがて残滓だけになってしまう。――――それが、一体何を意味するのか。


「――――!」


 いても立ってもいられず、彼女は重くて邪魔な鹿を捨てるや、気配の源に向かって駆けだした。養母が今日、この方向にある小川へ水を汲みに行ったはずだ。そのことが、彼女を駆りたてていた。倒れた木を跳び越え、川を渡り、坂を駆け下りて、彼女は己の感覚が指し示す方向へ向かって突き進む。


 気配の源に辿り着いて、彼女は絶句した。

 そこは、激しい戦いが行われたと一目でわかるありさまだった。周囲の木々は傷つきあるいは倒れ、大地は血に染まり、真っ黒な異形が転がっている。山に棲むどんな妖魔や化生とも異なるその姿を、彼女は見たことがない。

 そして、ぴくりとも動かない彼らと共に、大地に倒れ伏しているのは――――――――――


「――――っ」


 駆け寄り見下ろした身体は、周囲の木々同様に傷つきはてていた。血に濡れ、赤く染まってしまっている。身体からも力をまったく感じられない。

 何故、どうしてこんなことになっているのだ。今朝、養母と別れたとき、山に異変は欠片も見当たらなかった。養母も、いつもどおりにしていて。何か異常なことが起きる兆しなんて、なかった。


「母さん、母さん…………!」


 彼女の必死な呼びかけによってか、母はうっすらと目を開けた。彼女を見上げ、薄く笑う。


「……行け。西へ……」

「嫌だ! ずっと、一緒……!」


 首を振り、彼女は幼子のように懇願した。

 わかっている。死はたくさん見てきたのだ。これは止めることのできない死なのだと、冷静で冷徹な部分が彼女に告げる。

 それでも、生を願う気持ちは止められない。もうすぐこの偉大な命が失われてしまうなんて、認められない。


「私はいつも、そば、に……………」


 その言葉と同時に、青い目が閉じられた。腕に感じる重みの質が、別のものに変わる。

 耳からすべての音が消えた。彼女を支えているはずの地面の感触が失せ、がらがらと崩れ落ちていく気さえした。

 抱えた身体は、もうかすかな呼吸さえしない。


「母さん、やだ、逝くな……! 置いていくな……!」

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