第10話 足跡を辿って・二

 そうは言っても、約束したからには仕事をしなければならない。琥琅ころうは長いため息をひとつついて、作業現場と宿営地の周辺を巡回した。


 秀瑛しゅうえいが言っていたように、作業現場と宿営地の周辺に妖魔や幽鬼の姿は見当たらなかった。範囲を広げても同様だ。戦闘の痕跡を見なければ、山は昨夜の騒ぎなどなかったかのように平穏である。襲撃があったその現場にさえ、あの妖気の残滓が失せているのだから、当然と言えば当然ではあった。


 住んでいた頃もよく来ていた見晴らしの良い場所から山を一望したが、やはり妖魔や幽鬼が騒いでいる様子は見つけられない。山は静かだ。

 これだけ見回っても見つからないのだから大丈夫だろう、と結論を下した琥琅は、山に残った本来の目的を果たすことにした。


 昨夜幽鬼を仕留めた辺りへ足を運んだ琥琅は、まだ幽鬼の死体は転がったままの周辺を注意深く観察した。すると、他のものとは明らかに違う――人間の足跡を木の影で見つけた。いくつもあるその形からすると、一度ここで立ち止まったあと、また立ち去ったようだ。

 幽鬼たちが琥琅に倒されていくのを見て、敵わないと悟ったのだろうか。昨夜、逃げる足音を聞いたような気がしていたのは聞き間違いではなかったのだ。


 足跡が向かった先を辿ってみたが、茂みを経て石が転がる川辺へ出ていたのでそれ以上は無理だった。琥琅は仕方なく来た道を戻り、今度は反対に、足跡が木の影に隠れる前の足取りを追うことにする。


 足跡に注目して追っていたのは、それほど長い間ではなかった。木立を抜けて広がった、見覚えのある景色に琥琅は眉をひそめる。

 昨日、琥琅が散歩しているときに通った場所だ。あの、近づきたくなる崖のそば近く。

 足跡は景色の一方、視界が開けているほう――――崖へ向かっている。


「……」


 琥琅は念のため剣の柄に手を置いて、崖のほうへ足を向けた。

 着いてみると、崖の前には五体の幽鬼と、変わった身なりをした人間の男の死体が放置されていた。ただし、人間の死体に飢えた獣――おそらくは狼に貪られた痕跡があるのに対し、幽鬼の死体はわずかも食べられていない。猛毒であることを、狼たちが本能で悟ったからだろう。


 人間に似て非なる不気味な幽鬼の死体が、眼前に転がっているからか。得体の知れないものと戦って果てた養母の亡骸を思いだし、琥琅は顔をゆがめた。同時に、雷禅らいぜんがいなくてよかったと安堵する。彼がこれを見れば、きっと気分を悪くするに違いない。


 脳裏にちらつく記憶を首を振って払い、琥琅は死体を検分した。

 どの死体も崖の前に集合していて、誰かが丁寧に一匹ずつ喉首をかき切ったとは思えない。襲いかかったり逃げたりする間もなく、一斉にやられてしまったと考えるのが自然だ。

 となると、昨夜、泉のそばで着替えている最中に琥琅が感知した力が、幽鬼と人間たちを仕留めたのだろう。琥琅が遭遇したのは、運良く生き延びたものたちに違いない。


「……」


 琥琅は崖の一点を睨みつけると、幽鬼の死体と血の跡を避けて崖の前に近づき、地面を調べてみることにした。

 だが、幽鬼と人間が誰に殺されたのか示す手がかりは、まったく見当たらない。死体の周囲にあるのは、狼の足跡だけだ。


 この数を一瞬で殺してしまえるような輩がまだこの近くをうろついているかもしれないというのは、琥琅としてはぞっとしない。術者と戦ったことはあまりないのだ。使われると厄介である。

 せめて、敵か味方かだけでも確かめておきたいのだが、これでは難しいだろう。琥琅は小さくため息をつき、何の気もなく、いかにもごつごつしていそうな岩肌に触れた。


「っ!」


 冷たい岩肌に触れるはずだった琥琅の指先は、どういうわけか水面のような波紋を立てて、岩肌の中に入ってしまった。ぎょっとして琥琅が思わず腕を引き抜くと、また波紋が岩肌にさざ波を生む。


 珍しく、仰天で琥琅の心の臓が早鐘を打った。琥琅は無意識のうちに剣の柄を握り、自分の腕と岩肌を交互に凝視する。が、岩肌はまださざ波が残っているし、腕には生温い水の中に差し込んだ感覚が残っていた。しかも、服の袖は一切濡れていない。


 岩肌を見つめ、琥琅はどうしようかと沈思した。

 おそらくこの岩壁には侵入者を排除する術が施されていて、だから幽鬼と人間は死んだのだろう。が、ついさっき琥琅が触れてもその術は発動しなかったのだから、無差別というわけではないはず。近づいてきた者の殺意のあるなしに反応するのかもしれない。そういう術のことは、養母に聞いたことがある。


 大きく深呼吸をすると、琥琅は意を決してもう一度、そろそろと指を岩肌へ伸ばした。

 推測は当たり、岩壁は琥琅に殺意を返すことなく、指を受け入れた。節くれだった指は壁を求めてゆっくりと中へ入れていくが、なかなか本物の壁に当たらない。琥琅の肩まで偽りの岩壁に入っても、まだ奥がある。


「……」


 迷った挙句、琥琅は大きく息を吸い込むと、岩肌へ踏み出した。

 ぬるま湯に全身が浸かったと思った瞬間、一切の音が消え失せた。ぷくぷくと泡が上へ昇っていく。


 何故か目を開けていられるぬるま湯の向こうは、煌々と明るく照らされていた。琥琅は光に誘われるように水中を歩き、分厚い水の膜を通り抜ける。まったく濡れていない琥琅の身体を、代わりに別の気配が包む。

 懐かしいものによく似た気配に、琥琅は目を見開いた。


「…………母さん?」


 いや、よく神経を向けてみれば、まったく違う。涼しく凛とした、辺りを払う威厳は同じだが、この違和感を覚えるほどの清浄さは母になかった。昨日、崖の周囲で感じたものよりもっと綺麗だ。神聖、と言えばいいのか。あまりにも空気が澄みすぎて、琥琅にとっては居心地が悪い。


 別物だと理解しても、一瞬の錯覚は尾を引き、琥琅の心の臓を高鳴らせた。動揺のあまり、琥琅は顔を上げてもその場に立ち尽くしたまま、呆然と眼前を見つめる。


 岩肌の中は、さながら廟のようだった。赤く太い柱、五色の欄干、垂れ下がる金糸の刺繍。高い天井に吊り下げられた灯籠の明かりは、惜しげもなくいたるところに施された金細工を輝かせている。その天井も、五色や金箔で絢爛に彩られて派手だ。そう家の屋敷にあるものや彗華すいか、旅の途中に立ち寄った城市まちで見たものとは、比べものにならない贅の尽くしようである。


 そこには、金の透かし細工を枠組みに描かれた天空の壁画を背景に、一体の虎の像があった。

 身の丈は普通のものより一回りは大きく、岩に前の両足を置いて今まさに吼えようとしている姿だ。純白の素材に墨か何かで縞を描いてあり、髭や毛並みも見事に彫刻されている。惚れ惚れするような、立派な体躯である。

 瞳に嵌め込まれているのは、異国で産出される宝石だろうか。彗華のよく晴れた空のような、内包物のない均一な濃く深い青が美しい。


 ――――――――そう、亡き養母の目のような。


 懐かしさが一層増して、琥琅は思わず両の拳を握りしめた。何故、といくつもの疑問が浮かぶ。


 しん国には、神獣信仰というものがある。元々は弱小民族にすぎなかった清民族の信仰で、清民族が住まう大地に大きな災いがふりかかるとき、様々な神獣が天から遣わされ、悪しき妖魔や邪な者を退け、勇者や賢者を守護し、民族に安寧をもたらす――――というものだったのだという。清民族が自分の国を建てるようになって以降は、国全体の信仰となった。今では、国内で人間が住む地であれば、どこでも一つは神獣を祀る廟や祠が建てられている。


 白虎廟に祀られる白虎は、商売繁盛や子孫繁栄にご利益があるとされる神獣だ。商人からとりわけ篤く信仰されていて、雷禅も出立する前、綜家の敷地の隅にある古めかしい祠へ参拝し、人生初となる一人での商談の成功を祈願していたのを琥琅は見ている。


 そんな人間の空想の産物が、どうしてこんな山中の岩壁の中にあるのだろう。しかも、琥琅の養母に似た空気を漂わせて。まるで、何かを隠しているかのように。


「……」


 考えても何も分からず首を振ると、やっと動揺が収まり平常心が戻ってくる。残る疑問の残滓をため息に乗せて吐き出し、琥琅は白虎像に近づいた。瞳に用いられている宝石をもっと近くで見たくなったのだ。離れたところから見ても美しい宝石なのである。近くで見れば、もっと美しいに違いない。


 そうして、最奥の壇上に上がり、青い瞳を覗き込もうと琥琅が硬く冷たい彫像に触れた直後。

 突如、琥琅が触れたその箇所が熱を持った。熱はたちまち高まり、琥琅が驚き思わず跳びのいたあとも手に残滓を残す。


 そして、硝子なんてどこにもないのに硝子が破砕する音がした。彫像がびくりと震え、一拍置いて、明確な変化を遂げていく。

 まず、緩やかに身の上下を始めた。素材に刻まれているだけだった毛並みは質を変え、本物のそれになる。太い首と尾が動き、もはや彫像ではなく一つの生命であることを琥琅に宣伝する。

 何よりも、その目。理性を宿し、ただの宝石であったときよりも一層美しく力強い光を湛えて琥琅を見つめる。


〈……ああ主。やっと会えました〉


 歓喜に震えるその力強い声音は、雷禅よりも歳を重ねた青年のもの。確かに、琥琅の眼前、白虎の口からこぼれた。

 虎が人の言葉を話すこと自体は、琥琅にとってさして驚くことではない。琥琅には獣の言葉を解する才能があるし、この森には人語を解する虎が棲んでいたのだから。

 だが、彫像が生命を得て、ましてや話すなんて話、現実で聞いたことがない。


「しゃべ……った…………」

〈この廟で、彫像として封印されていたのです。いつか仕えるべき主が現れる日まで、妖魔や愚者に見つからぬように。…………永く、貴女をお待ちしていたのです〉


 呆然として棒立ちになる琥琅をよそに、白虎はしなやかな動きで台から下りると、琥琅の剣の柄に置いたままの手に頬をすり寄せた。甘え、存在を確かめるように、べろりと舐める。――――温かくて、ざらざらしている。懐かしい、虎の舌の感触。

 養母の気配が一層強まったような気がした。

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