第20話(エピローグ)


 11月9日 午後7時00分 ~ 同午後10時00分



 

 上野の焼肉屋を選んだのは中島部長だった。ここならお前の家にも近いからいいだろう、と中島部長は言った。JR上野駅の改札前で久しぶりに会った部長の顔つきは、数か月前よりはふっくらしているように見えた。

 焼肉屋に着くと、いきなりカルビを注文した僕に、バカ野郎、と部長は言った。

「ビール、キムチ、サラダ、チヂミ、タン塩、それから塩味の肉、タレの肉、の順番で注文して、順番に片づけて行くんだ。お前、社会人でそんなことも知らないのか」

 僕は笑って、すみませんでした、と言った。そして、運ばれてきたビールで部長と乾杯した。

「あんときはお疲れさまだったな、松山」

 はい、と僕は頷いた。「貴重な体験でした」

 まあな、と中島部長は言った。

 僕は首を横に振った。「中島部長もお疲れ様でした」

「バカ、もう部長じゃねえ」

 僕は笑って頷いた。だが、1か月前に中島部長が三広を辞めて、別の誰かに交代しても、僕にとって部長は部長のままだった。それ以外の呼び方がしっくりこない。

 中島部長はメーカーの宣伝部に再就職しようとしている。

「今どうしてるんだみんな?」

「山本さんが辞めるそうです」

「山本が?」

「はい、辞めてどうするのかは、僕もきちんとは知りません。誰かが言うには、実家の家業を継ぐそうです」

「実家の家業って、何だ」

「農家だそうです。静岡だそうですから、蜜柑とか、お茶とかじゃないでしょうか」

 ふぅん、と中島部長が言った。「じゃあお前だけが残ったわけだ」

 僕は頷いた。

「じゃあ今日は食えよ、奢ってやるから」

 部長はそう言って到底二人では食いつくせない量の肉を注文した。キムチ、チヂミ、サラダ、タン塩、それから塩、タレの肉の順で、その都度大量にやってくる品々を、僕はとにかく腹に詰め込んだ。部長はほとんど肉を食わず、ずっとビールばかり飲んでいた。

 僕が最後のカルビを口の中に放り込んだときには、部長は完全に酩酊状態だった。2軒目に行くぞ、などとはカラ元気でも口に出せない状態だった。僕は部長のクレジットカードで会計を済ませると、部長の肩を抱えて店を出て、タクシーを捕まえた。

 部長をタクシーに押し込むと、新浦安まで、と僕は運転手に伝えた。中島部長は僕の方をトロンとした目つきで見て言った。

「松山、じゃあまたな」

 僕は頷いた。そして去っていくタクシーを見送った。時刻を確かめようと、ポケットの中の携帯電話を取り出すと、ランプが点灯している。メールが一件着信していた。

 涼子からのメールだった。


 〈来週のプレゼンの件で、資料用の素材足りず。至急連絡乞う〉


 とても女とは思えない簡潔なメールだ。メールの着信は午後7時半。液晶に映し出された時刻を見ると、午後9時半だった。僕は涼子のデスクに電話をしたが、彼女は出なかった。涼子がまだいるかどうかは分からなかったが、僕は会社に戻ることにした。

 煙草が吸いたかったが、上野の雑踏の中ではそうすることもできなかった。人ごみを縫って歩き、地下鉄銀座線上野駅のホームまでたどり着いた。上り列車は、酔っ払い以外にはほとんどだれも乗っていなかった。


                  ☆


 あの夏のプレゼンの結果、もちろん三広は津島プロジェクトから切り離された。三広は神栄不動産に実質出入り禁止となり、五億円の売り上げ見込みは露と消えた。ただひたすらに繰り返されたプレゼンの費用による借金だけが残った。僕は上司たちに求められ、こうした結果に至った理由を説明するための、幾つもの状況説明の資料をつくり、場合によっては口頭でも説明した。僕は全てを正直に書いた。正直に書き過ぎている部分だけを中島部長が添削した。その仕事が終わると中島部長は辞表を出した。社内は混乱し、部の再編成がおこなわれ、僕は別の部署に異動した。

 だがそれで終わりではなかった。終わりはもっと別の形でやってきた。結局、三広に代わって入った代理店にとってもこのプロジェクトは不幸な結末を迎えることになった。僕はそれを、今から一ヶ月ほど前に神栄不動産のホームページに掲載された告知で知った。そこにはこう書かれていた。

〈開発を計画しておりました津島町プロジェクトは中止となりました〉

 ただそれだけが書かれていた。飾り気のなさすぎる文だったため、中止というのがどういう意味か僕は一瞬考えることになった。もちろんそれはたった一つの意味しか持たない。津島町プロジェクトそのものが事業見直しとなり、消滅したのだ。あの駅前のマンション用地は、今も売りに出されたままでいるはずだ。最終的に神栄不動産内部で、どうやっても六〇〇戸のマンションを売り切る見通しが立たない、という判断になったからだが、僕はこのニュースを目にした時、同じ部の先輩に訊いた。何故そうした判断が、もっとずっと前にできなかったのだろうか、と。

 先輩は、よくあるとは言わないけど、たまにあることだ、珍しいことじゃない、と言った。「どう考えても売れるわけがないって分かってたのは、お前だけじゃないってことだ」

 僕は曖昧に頷いた。誰ひとりこのニュースを聞いて驚く人間がいなかったので、僕自身も何を感じるべきなのかが分からなかった。この知らせは、僕や涼子だけでなく、今川や大沢も含めたすべての関係者にとって、あの夏の数カ月で起こったことの全てが、事実として完璧にただの無駄だったのだと告げていたわけだが、僕は怒りも悲しみも何も感じなかった。虚しささえ感じなかった。ただぼんやりと、消えたプロジェクトのことを考えた。あの何も無い街にそびえたつはずだった、並はずれた建築物と、いつか現れるはずだった「アフリカ」と、久保田玲のことを。考えれば考えるほど、実現しなかったことが当たり前に思えてきた。今川の言葉はそういう意味でも救世主の預言と同じだった。

 あの夏の事柄に関しては、眼に見えるものは全てが消えて、僕と涼子だけが残った。

 僕はその意味を考えたりはしなかった。意味など無い。現実には意味なんか全く存在しない。僕はそのことだけは学んだ。

 僕は結局、三広を辞めなかった。その理由を誰かに説明するのは難しい。誰か、どころか、自分自身が相手でも難しい。

 現実的な話をすれば、日々の仕事の中で空いた時間を、全て小説を書くことに費やすようになったために、再就職活動をする暇が全くなかったのだ。異動しようが忙しさという点については全く何も変わらず、寝る前の1時間や、外出の合間の30分をつないで、文章を書き続けている。あのプレゼンの後、僕がハンバーガーを食べ終えたときに思ったのは、今ここで一つだけ小説を書き、その後で続けるか辞めるか考えよう、ということだった。その思いは直感的で、僕はそれに従うことにした。小説を書いて何かがどうにかなると思ったわけではない。それ以外にやることが何も思いつかなかっただけだった。

 そして僕はそれをまだ書き終えていない。ほとんど書き進められてもいない。そもそも書く時間が足りないのに加え、冒頭の五ページか十ページ書くと、その文章の全てが、自分がイメージするものと全く違うものだと分かって、そのたびに最初から書き直す、ということを何度も何度も繰り返しているからだ。

 理由ははっきりしている。僕には、今僕にとって何がリアリティなのかが相変わらず分からないままだからだ。それはどう考えても文章を書く上では致命的なビハインドだ。自分が何を書いているのか分からないというのとほとんど同じ意味なのだから、それが分からない限り、僕は永久にこの物語を書き終えることはできないかもしれない。少なくとも今のところ、最後までたどり着く気がしないどころか、物語が始まる気さえしていない。イメージするものと違う、というのは正確ではなく、イメージというものがどこにも無いままなのだ。今の僕の頭の中の光景は、数ヶ月前に立った津島町の駅前の光景にそっくりだ。おそらくそんな状態で物語を書こうと思うこと自体が間違いなのだろう。だがそれでも僕は毎日文章を書き続けている。何故かと言えば僕は今、こうも思うからだ。僕が学んだことはもう一つだけある。たとえどこにいても、これが今の僕のリアルだということだ。そうだとしたら、そのまるで無意味にしか見えないリアルを証言することだけが、リアリティの有無にかかわらず僕の物語になるだろう。

 たとえそれが希望の無い物語でも、文章を書き続けている限りは希望はある。書いている瞬間か、書こうとする瞬間には、次の文章ではそれを掴むことができるかもしれないという感覚があるからだ。それが、本当に僕の中のどこかにリアリティがかすかに潜んでいるからなのか、文章というものが、書く者にそうした幻想を与える特性を持つものだからなのか、僕には分からない。

 僕は今も地下鉄の中で、次に書く文章のことを考えていた。それはすぐに、向かい合ったガラスの向こうの暗闇の中で消えて行った。何度繰り返しても駄目で、繰り返すごとに僕の気分は重くなっていった。

 やがて列車が銀座駅に辿り着いた時、その繰り返しを僕は一度止めた。電車から降り、ホームを歩き、改札を出て、地上に上った。

 銀座の中央通りは、タクシーとネオンの光彩に満ち満ちている。涼子にもう一度連絡するため、ポケットから携帯電話を取り出した。彼女は出るだろうか? 携帯電話を耳に当てながら、きっと出るに違いないと思った。僕は彼女の不機嫌な声を限りなく具体的にイメージすることができた。その声が受話口から聞こえてくる瞬間を、僕はじっと待った。

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PJ:アフリカ 松本周 @chumatsu11

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