第11話

 建設現場にたどり着いたとき、僕の顔も涼子の顔も、暑さで醜くゆがんでいた。僕は鞄から携帯用のウェットティッシュを取り出して顔を拭いた。涼子にも貸してやろうとしたが、彼女は薄化粧が落ちるのを嫌がった。

 僕たちは仮囲いの白いボードに覆われた建設現場の周囲を、眼を細めて空を見上げながら歩いた。何度訪れようと、ここにいずれ住むだろう六〇〇家族の生活を想像することはできなかった。

 敷地の四隅は、白いボードが途切れ、代わりに透明なアクリル板が張られ、中の様子が見えるようになっていた。覗き込むと、雑草が好き放題に生え広がり、思いきりボールをかっ飛ばせばランニングホームランが成立するほどの空間が広がっている。このちょうど真ん中にマンションが建つ、僕がそう言おうとすると、涼子が僕に背を向けて歩き出すところだった。

「帰る」

 僕は耳を疑った。

「帰るって、お前まだ2分も経ってないぞ」

「2時間いても一緒だよ、これじゃ」

涼子はすたすたと歩き、仮囲いの途中に置かれていた自動販売機の前で立ち止まった。僕が涼子を追いかけて、肩に手を触れると、何飲む? と涼子が訊いた。

「ちょっと待て」と僕は言った。

「なに?」

「それで、どうするんだよ。何か思いついたのか?」

「馬鹿じゃないの。思いつくわけないじゃん、こんな糞暑いところで」

 涼子はコカコーラ・ゼロを二つ買って、一つを僕に渡した。涼子は蓋を開けて一気にぐびぐび飲み干すと、歪めた唇からふーっと息を吐き、手で顔を扇いだ。仕方なく僕もコーラを一口だけ飲んだ。そして、歩き始めた涼子を追いかけながら、背中に声をかけた。

「お前、何考えてるんだよ」

「あんたが何考えてんの。こんなところで都合よく威勢のいい閃きが現れると思う? ちっとは頭使って、真面目に考えなよ」

「ふざけんな。そもそもここに来たいって言い出したのはお前だろうが」

「まさかここまでど田舎だと思うわけないでしょ。ここに三十八階のマンション建てようなんて考えた奴、頭おかしいよ」

「いかれていようと何だろうと、そういう計画なんだよ。分かっただろ。ここは俺たちが住んでた田舎町よりもずっと、遥かに何も無いんだよ。田んぼと、ショッピングセンターと、マンションしかない。ここは都市計画に失敗した、忘れられた町なんだ」

「そういう時にどうしたらいいのかって、想像するものが何も無いときに何を想像するのかって、あんたはこれまでずっと考えてたんじゃないの?」

 僕は顔をしかめて涼子を見返した。

「何の話だ?」

「言うことがちょっとしかないからって、それそのまんま言って何になんの? そんなもん、そのまんま意味無いに決まってるじゃん。あんた十七歳のときよりも百倍くらい頭悪くなってるんじゃないの?」

「だから一体何の話だ?」

「あんたの話だって。あんたが昔言ってたこと」

「俺がお前に言ったことって、何年前の話してるんだよ」

「私にじゃない。小説に書いてた」

「だからそれ何年前の話だよ」

「あんたまさかもう書いてないの?」

「毎日朝の9時から夜の3時半まで働いててそんなの書く暇あると思うか?」

 僕がそう言うと、涼子は僕から顔を背けて歩き続けた。僕はその後ろを歩きながらコーラをごくごくと飲んだ。

 その時、道の向こう、駅の改札口からスーツ姿の男がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。陽炎の中で幻のような姿かたちだったが、僕にはそれが誰だかすぐに分かった。神栄不動産の広告担当、今川洋一だった。


                   ☆


 僕には信じられないことだが、彼は額に一滴の汗もかいていないように見えた。企業の広告担当課長は皆、熱かろうが寒かろうが熱を表皮に伝導しない術を心得ているのだろう。僕にはそうとしか思えなかった。彼に気が付かない振りをして通り過ぎようかとも考えたが、もちろん実際はそんなことができるはずもない。僕がこんにちは、と言って頭を下げると、彼は立ち止まった。涼子も立ち止まり、僕の隣で会釈した。彼は二、三ミリ頷いて、僕のほうを見て言った。

「何してるんですか?」

「改めて現地を見に来たんです。明日の提案のために」

「ああそう。それで何か思いつきそうですか」

「明日までにはご準備します」

 僕はそう答えた。そういう受け答えだけは反射的にできるようになった。

「だったら早く戻ったほうがいいですよ。余計なお世話かもしれないが」

「確かに、ここは少し暑いですからね」

「そういう意味じゃありません。メールを先ほど送っておいたので見ておいて欲しいのですが、明日の提案にあわせて、予算案をもう一度練り直してください。三広さんのクリエイティブ提案の遅れが原因で、本プロジェクトの完売までのスケジュールを見直す必要が出てきたのです。販売費用を増強する分、広告費は圧縮します。チラシ一枚の単価からして三広さんの価格は高すぎるので、そもそも我々の試算に合っていなかった。ざっくり言って一億円の費用を縮めたいので、全ての面で再検討をお願いいたします。もちろん、全体の広告量を縮めるつもりはありません。山本さんにもそうお伝えください。繰り返しますが提出は明日の9時、クリエイティブ提案と同時です」

 今川は一気にそう話したが、まくし立てるという感じではなかった。文書を受信したFAXからべろべろべろ、と文字が平板に現われてくるような感じだった。

 僕はあいまいに頷いた。そして何か言おうとしたが、さっき飲んだコーラのせいでげっぷが出そうになり、それをこらえるうちにその言葉が頭から消えた。今川が何を言っているのか、僕には全く分からなかった。正確に言えば、言葉の意味は分かったが正気と思えなかった。プロジェクトの予算案というのは広告代理店が印刷会社や制作会社や媒体社に膨大な数の見積もりを提出させてマージンを計算し、それぞれの費用対効果を計算し、何日もかけて作るものだ。僕はちらりと腕時計を見た。普通に考えれば間に合うわけが無い。そして、間に合うとか間に合わないとかいう以前に、何の留保も無く突然一億円という費用を縮められるわけが無い。体重六十キロの人間に明日までに五十キロにやせろ、と言っているのと同じことだ。それを真に受けるなら、足か腕を切り落とすしかない。

 呆然と立ち尽くす僕に今川が言った。

「そしてくれぐれも、久保田玲の起用については実現をお願いします。当然、今日ご提案していただいた時点で、プロダクションへの裏は取ってあるものとは思いますが、念のため」

 僕は、自分が頷いたのか首を振ったのかも分からなかった。一体いつの間に彼女がこのプロジェクトにとってそこまで重要な存在になったのか、僕にはまったく分からなかった。今朝訊けなかったそれを今川に訊いてみたかったが、彼はすでに言い捨てて建設現場の方へ歩き去っていくところだった。今川の背中を見ていると、汗がまたどっと噴き出してきた。駅の方を振り返ると、涼子はすでにそちらに向かって歩き始めていた。


                   ☆


「あいつが客か。だいぶ濃いキャラしてるね」

 涼子がそう言って、僕は首を横に振った。

「俺にとっては濃いって言うより変態だよ。未だに顔を合わせるたびに、異次元空間に引きずり込まれるような気がする」

 僕はそう言いながら、自分が現実を拒否していることに気がついた。今川から言われたことを具体的にどう解決するのか、全く考えようという気になれなかった。今川はさっき、メールを送った、と言っていた。ということは、当然最下っ端の僕だけにそんな重要な話をメールするはずはなく、山本はもちろん、中島部長にも同じメールが行っていることだろう。僕は外出していて、しかも今川に今ここで会ったのはあくまで偶然なのだから、先にメールを受けた上司たちがきっと対応するはずだ。それに、今川のオーダーはいずれも、僕があれこれ考えてどうにかなる話を、もはや超えているとしか思えない。僕はそう思ったが、それはただ単に都合のよいシナリオを自分に言い聞かせているだけだった。僕は三ヵ月の経験で悟っていた、現実には、あらゆる面倒な話は基本的に一番下までまっしぐらに落ちてきて、しかもホーミングミサイルのように僕を追跡する。あるいは、時限爆弾となって爆発する。つまり、上司が僕に面倒を押し付けるか、上司が面倒を放置し、もう取り返しのつかない時間になった後で僕が対処することになるかのどちらかだ。

 僕と涼子はJRの三倍はする、恐ろしく高額な運賃の乗車券を買い、プラットホームに降りた。時刻表を見ると、次の電車が来るのは十三分後だった。ホームの椅子に腰かけると、膝からスラックスに汗がしみこんでいった。

 ミサイルも、時限爆弾も、僕はどちらも嫌だった。もちろん正解は一つしかなく、それは、僕が今川からの指令をすぐに上司に確認し、問題に対して誰がどのように対処するのかを決める、という道だ。そうすればそこで責任は明確になる。今から電車に乗り、1時間半経って会社に戻ったらそうしよう。ここから携帯電話で山本に連絡したところで無駄な時間が費やされ、僕のストレスが1時間半前倒しになるだけだ。しかし僕はどうしても自分の士気を高めることができなかった。かつて僕にとって責任とは一日に何度も発生するものではなかったからだ。僕は、責任というのは人生の重大な局面だけに登場する言葉だと思い込んでいた。責任というのは、それが自分自身の意思と行動に密接に結びついた時にだけ受け入れられるものだ、そう思い込んでいた。それは論理的には正しいだろう。だが現に仕事では責任は無限に発生する。僕には、予算を六億から五億にすることも、いかなる手段をもってしても久保田玲を起用することも、どうしても僕の責任とは思えなかった。会社の責任、というのはどう考えても嘘だ。実際、会社は何もしない。やるのは、中島部長か、山本か、僕か、三人のうちのいずれかだ。そしてそれが僕ということになるのであれば、僕は責任という言葉の意味を改訂するか、もしくは自分と会社を同一化させるしかない。後者は馬鹿げているので、前者でどうにかするしかないわけだが、僕はその説明文がさっぱり思いつかなかった。

 僕のポケットの中で携帯電話が震えた。僕は反射的にそれを取り出し、受話ボタンを押した。電話に出るためというより、地獄の底から伝わってきて足を震わせるその振動音を一刻も早く止めるためだった。

「はい、松山です」

〈おい、お前どこにいるんだよ。今物凄えやばいことになってるぞ〉

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