第12話

 今物凄えやばいことになってるぞ。今物凄えやばいことになってるぞ。僕は山本からその台詞をこれまで何十回聞いたか知れない。そしてそれはいつも実際に不吉な予言の枕詞だった。山本の鼻息が耳元に聞こえてきて、話をする前から一刻も早く電話を切ってしまいたかった。仕方なく僕は訊いた。

「どうしたんですか」

〈どうしたんですか、じゃねえよ。お前何やってんだよ〉

「明日のクリエイティブの再提案の準備で、現地に来てました」

〈はあ? いまさら何で現地に行く用があるんだよ。そんな無駄なことしてねえで今すぐ会社に戻って来い〉

「どうしたんですか」

 早く何があったのか言え、僕はそう思いながらもう一度同じセリフを繰り返した。

〈プロモーション担当の神谷さんが津島プロジェクトから降りるって言ってる〉

「え?」

〈ウチの仕事からは手を引くって言ってるんだ〉

僕は、体中にピアスやその他の貴金属をまとわりつかせた神谷さんの姿を思い浮かべた。彼は今朝の客先打ち合わせで、一切の無表情だった。

「どうしてですか?」

〈俺が知るか。とにかく神谷さんは今すぐ話がしたいって言ってる。三広の受付で何時間でも待つってな。今回のプロモーションの件は、俺よりもお前の方が詳しいところがある。事情が分からずに俺と神谷さんだけでやりあうのはまずい。だからお前早く帰って来い〉

「でも僕は今、津島町にいるんです。どれだけ早くてもあと1時間半かかります」

〈それでもいいから早く帰って来い。俺も、それまでには会社に戻れるようにする。今俺は別件でどうしても手が離せないから、まあその方が好都合だ。あんなヤンキー野郎は待たせておけばいい〉

 僕は、戻ります、と言った。どちらにしても会社には戻らなくてはいけないのだ。だがもちろん僕は分かっていた。

 これは罠だ。間違いなく、山本は神谷さんへの応対を僕一人にやらせようとしている。これまでの数か月の山本との仕事でのやり取りによる経験が、僕にそう直感させた。別件だか何だか知らないが、山本は絶対に、僕が神谷さんを追い返すまで会社に戻ってこない。そしてどういう事情があるのかは分からないが、確実に神谷さんは怒り心頭の状態で僕を待ち構えている(そうでなければこのタイミングで直談判などあり得ない)。山本は、ひとしきり僕が神谷さんにぼこぼこに打ちのめされた後、翌日以降に会うつもりだ。なぜなら、このプロジェクトの行方は明日決定するのだから、神谷さんにどんな事情や言い分があるにしても、今日話し合うことは全く不確定で何の意味も持たない。怒りやら何やらのストレスを発散させるためだけの場だ。それなら松山に押し付けておけばいい……

 僕は自分のシナリオに唖然とした。しかし、実際僕は山本が戻ってくる可能性を全く信じることができなかった。僕は念のために確認した。

「じゃあ1時間半後に山本さんと合流してから、神谷さんと打ち合わせですね?」

〈いや、俺は遅れるかもしれない。悪いけどその時は先に始めててくれ〉

「でも僕は神谷さんが何で三広に乗り込んでくるのか、事情がまったく分かりません。状況が分からないと話も進められないです」

〈だからさっきも言ったけど、俺だって向こうが何を怒ってるんだかまだ分かんないんだよ。そんなもん直接その場で神谷さんに聞けば済むことだろ。向こうはそのためにウチに来ようって言ってるんだから。大体、お前の方が神谷さんと仕事してる時間長いんだから、お前が理解してないことを俺が理解してるわけないだろ〉

それはあんたがいつの間にかプロモーションの打ち合わせに全く参加しなくなったからだ。僕はその言葉をこらえて、僕には分かりません、と言った。

これはいったいどういう仕事なのだろうか? 厄介事を押し付けられている、という認識自体が間違いで、僕はここで神谷さんを何としても食い止めなくてはならないのだろうか? それが僕の責任なのだろうか? だとしたらそれはいったい何のためなのだろうか? 僕はこの仕事において、客先とスタッフと上司から糞味噌に罵倒される以外に何の役目も持たないのだろうか?

 そんなことはどうでもいい。重要なのは僕がこの罠から逃げられないということだ。

〈とにかく早く戻れ。また後でな〉

「ちょっと待ってください。僕からも幾つか相談があります」

〈長い話か?〉

「予算と久保田玲の話です」

〈それ長い話だろ。電話じゃなくて後で打ち合わせしよう。とにかく早く戻れ〉

 山本はそう言って電話を切った。僕は携帯電話を握りしめて、地面に叩きつけたい衝動に駆られた。押し留まったのは隣に涼子がいたからだ。僕はやってきた電車に乗り込んでもまだ、彼女の顔を見ることができなかった。

 冷房の効いた電車の中で、僕は何度も深呼吸した。腹の底から怒りがこみ上げてくるのを、少しずつ擦り潰して吐息の中に吐き出していった。僕は自分に言い聞かせた、大したことじゃない、別に僕が怒る理由はない、これはただの仕事だ。仕事は別に、僕の考えていることや、僕の求めていることと何の関係もない。僕が必要以上に真剣になる理由も無い。僕がこの仕事について何の技術も持たない以上、ここにいるのは別に僕以外の人間でも構わないのだから。それに第一、まだ、何かが実際に起こったわけではない。マイケル・マンの「コラテラル」という映画で、タクシー仕事に疲れたジェイミー・フォックスが運転席のサンバイザーに仕込んだモルディブの無人島の写真を眺めるように、僕はコールドプレイの「イエロー」の旋律を思い出した。だがそれはいつの間にか、TOTOの「アフリカ」のコーラスに変わっていった。

「ひでー顔」

 涼子が小さな声でそうつぶやいて、僕は頷いた。

「自分でもそう思う」 

「会社に戻ったら別れよう。私全然なにも思いついてないし、あんたやることあるみたいだし」

 僕はまた頷いた。

「後で電話する」

 そう言いながら、僕はすぐに気がついたし、涼子も気が付いていただろう。それは8年前に僕たちが最後に交わした会話とほとんど同じだった。そして僕は、その後一度も涼子に電話しなかった。


                   ☆


 会社に戻ると、オフィスの中は騒然としていた。もちろんいつものことだ。平日の夕方に静まり返った広告代理店など存在しない。誰かが誰かに向って叫び、誰かが誰かに向って謝り、永久に電話が鳴り続けている。僕のデスクには伝言が残っていた。神谷さんが受付で待っている、というメモだった。オフィスを見渡したが、もちろん山本は戻っていなかった。僕はメモを屑かごに捨てて受付に向かった。

 僕は考えることを既に止めていた。神谷さんが、何か僕に言いたいことがあるなら言えばいいし、不満があるならぶちまければいい。僕はそれを理解できるかもしれないし、理解できないかもしれない。どっちにしても僕が言うことはたった一つ、「明日まで待ってください」、ただそれだけだ。何を言われてもそれだけを言うしかない。

 受付で厚化粧の受付嬢に声をかけると、彼女が口を開く前に、僕の背後で人影が動く気配がした。神谷さんがそこにいて僕の顔を見ていた。朝方会ったときとは全く別の顔だった。十年以上前に渋谷のセンター街を占拠していた連中の顔だった。

 僕は受付横の会議室に彼を通した。彼はどかっと椅子に腰かけ、座れ、と言うように僕を顎で示した。僕は部屋の扉を閉めて、彼の正面に座った。

「お待たせしまして申し訳ありませんでした」

「山本さんは?」

 低い声で神谷さんはそう言った。僕は首を横に振った。

「山本は外出してます。戻る時間は未定です。お話でしたら私がお伺いします」

 我ながらつまらない台詞だった。

 神谷さんは、ポケットから取り出した煙草に火を点けた。もちろんこの部屋には灰皿は無い。

「それどういうことだ?」

「山本は別件で外出していてまだ戻りません。私が神谷さんから話を聞くように山本から連絡がありました。それだけです」

 それだけです、僕がそう言うと、そのまま部屋が沈黙に包まれた。僕は指をからめた両手を机の上において、ゆっくりと呼吸し、神谷さんはゆっくりと煙を吸ったり吐いたりした。煙草の先端から灰が零れ落ちても神谷さんは気にしなかった。

「話して何が分かるんだ?」

「話してみないと何も分からないと思います」

「話さなくても分かることもあるだろう。分からないってことは話さなくても分かる」

 禅問答のようなやり取りだったが、要するに彼が言いたいのはど素人の僕に何を話しても無駄だということだ。だが僕自身にもとっくにそんなことは分かっている。

 僕は左手首の腕時計を見た。すでに17時30分になろうとしている。相手は僕に何を話しても無駄だと思っているかもしれないが、僕の方だって悠長に無駄話に付き合っている余裕は全くない。

「神谷さん、申し訳ないんですけど、ご存じのとおり僕らは明日の9時までにクリエイティブの再提案をしなくちゃいけません。でもその準備は今のところ全く滞ってます。他にもいくつか重大な宿題が出てます。僕じゃ頼りないと思いますけど、時間がありません。神谷さんも重大な用件でいらっしゃったんだと思いますから、とにかく話してみてください。僕で解決できないなら上司に報告するか掛け合うか、何らかの対応をとります」

 僕はじっと神谷さんの目を見た。彼が僕を見返す目はぼんやりしていた。だが異様に座っていた。これまでろくでもない修羅場を幾つもくぐりぬけてきた雰囲気が伝わってきた。僕は山本から、神谷さんについての噂をいくつか聞かされていた。若いころは新宿で人買いをしていたとか、大宮と横浜と池袋でソープランドを経営しているとか、新興宗教団体から資金援助を得ているとか、そういう適当で根拠のない噂だ。だが今向かい合っていると、その全ての噂がひょっとしたら本当かもしれないと僕には思えた。僕は彼が殴りかかってきてもすぐ逃げられるように、出口のドアノブの位置を確認した。

「とにかくうちは降りる。明日再プレゼンだろうとそんなことは知ったことじゃない。結果が出ようと出まいと、そんなことは問題じゃない。そんな話をしに来たんじゃない」

「どうして降りるんですか?」

「君じゃなく――」

 神谷さんが言いかけたとき、僕の会社支給の携帯電話が鳴った。僕はそれをポケットから取り出した。着信表示は、見知らぬ番号だった。僕が神谷さんの顔を見ると、彼は顎で、出ろ、と促した。

「もしもし、松山です」

〈ああ、松山さん。忙しいところ悪いんだけどね。今すぐ六本木に来れる?〉

「――失礼ですがどちら様でいらっしゃいますか?」

 僕は、よく使われる訳のわからない日本語でそう聞いた。

〈神栄不動産の大沢ですが〉

 そう言われて、僕は絶句した。今川と並ぶ、津島プロジェクトにおけるメイン担当だ。僕はそんな重要な相手先の携帯電話番号も、電話帳のメモリーに登録していなかったのだ。そして最悪なことに声を聞いて相手が分からなかった。瞬間的に嫌な汗がシャツの下で滲んだ。ジャイアンと瓜二つの彼の顔を思い出しながら、大変失礼いたしました、松山です、と僕は言った。分かってるから電話してんだろ、と大沢は言った。その声は、いきなりリサイタル直前のリハーサルの様相を呈していた。

〈今会社?〉

「そうです」

〈じゃあ今から来れるな?〉

 今の受け答えがどうしてその結論に結び付くのか分からなかったが、とにかく猛烈に嫌な予感がした。広告代理店にとって客というのは普段、論理も筋もまるで通らない傍若無人の存在そのものだが、ただのストレス解消のはけ口にされるのと同じくらいの確率で、本当に危機の訪れを告げることがある。僕は神谷さんの顔をちらりと見た。神谷さんは傲然といった表情で僕を見下ろしていた。彼の眼は、僕にこの場にとどまるように命じていた。だから僕は、何も言わずに即座に六本木に向かえばいいものを、大沢に聞き返さざるを得なかった。

「どんな御用でしょう?」

 僕がそう訊くと、一瞬の空白があった。直後に受話口から、風が吹きつけるような雑音が聞こえた。

それが大沢が大きく息を吸い込んだ音だと分かった瞬間、僕は反射的に目を強く閉じた。

〈どんな御用も糞もあるか! いいから早く来いっつってんだろうが!〉

 耳元で空気が爆発した。左耳から右の鼓膜まで、音と同時にそれ以外の何かが走り抜けた。瞬間的にあたりから熱が消え、手に持った電話の感触がなくなった。拳でぶん殴られるような衝撃だった。

 その衝撃が去りきらないうちに、僕はゆっくりと目を開いた。耳鳴りがする。この音を聞くのは初めてではない。初めてではない、どころか、僕はこの数カ月でこれと同じ音を何度も聴いた。その効果はいつも同じだ。喉がからからになり、胃が浮くような感覚がする。そして決まっていつも、僕には相手が何を怒っているのか全く分からなかった。怒りというのは相手にとって意味不明であればある程効果的なのだ。そしてその意味を解こうとするために論理をもって当たったとしても何の意味もない。何の役にも立たないどころか、バケツいっぱいの油にしかならない。僕は馬鹿だ。目を閉じる暇があれば携帯電話を耳から離すべきだった。そう思いながらいつものセリフを言った。

「申し訳ありませんでした」

〈申し訳ありませんでした、じゃねえんだよ。お前分かってんのかよ。とんでもねえことになってんだぞ。なんでお前の上司の山本はそんな時に電話に出ねえんだよ? お前ら完全に仕事なめてるだろ?〉

「そんなことはありません」

〈ふざけんな。お前みたいなど素人を営業につけてるのがその何よりの証拠だろうが〉

「申し訳ありません」

〈先週お前らが印刷した新聞折り込みのチラシがあったよな。覚えてるな?〉

「覚えてます」

 忘れるわけがない。

 そのチラシというのは、僕らの広告のクリエイティブの方向性が一向に定まらないのに業を煮やした今川と大沢が、販売計画に支障をきたさないために、なんとかそのタイミングで一度チラシを頒布せねばならず、ビジュアルやコピーといった全ての構成要素を直接僕らに指示して作ったもので、広告代理店としては屈辱的な代物だった。それというのは広告代理店という虚業のビジネスが唯一価値を持つ点、創造性という点を、完全に否定されたのに等しいことだったからだ。だが、クリエイティブの藤崎さんがろくでもない提案を繰り返しているのは誰よりも僕らが分かっていたから、彼も含めて納得せざるを得なかった。そして僕個人の気持ちに限って言えば、誇りや屈辱などは全くどうでもよいことだった。どのみち今回の仕事に創造性など初めからカケラもなかったのだから、どのような形だとしてもとにかく結論が出て、制作物として形になるということに対しての安堵感しかなかった。今回は、これっきりの緊急避難措置です、と今川は言った。「翌週には新しいクリエイティブの方向性を提案してもらいます。そこで失敗すれば本当にもうおしまいです」

 しかし僕にはその時、「翌週」などという遥か先のことなど全く考えられなかった。その「緊急避難」のチラシにしても、翌日には原稿を完成させ、即入稿して印刷に回さなくてはならなかったからだ。僕と山本と藤崎さんはその場で今川と大沢からチラシを構成する要素のレクチャーを受け、そして全速力で走りだした。僕は文字通り走った。東京中を回り、津島町とオフィスを往復した。チラシを構成する写真素材や情報を集めるためだ。プロジェクト周辺の環境写真や、現地周辺のイラストマップ、建築構造の参考写真や、周辺の電車路線図、売り出す部屋の間取り図、そんな何もかもを僕は一日でかき集めなくてはならなかった。誰かが作り、集めなくては何一つ存在しないものばかりなのだ。プロダクションに頭を下げてイラストを一日で作らせ、ゼネコンから参考資料を入手し、鉄道会社のホームページで時刻表を検索し、それでも足りないものは夜明けに現地に行って自分のデジカメで撮影した。翌朝の午前8時、僕はオフィスに戻って藤崎さんにメールで写真を送信すると、そのままキーボードの上に覆いかぶさるように眠った。1時間ほど眠り、いくつかの打ち合わせに参加した後、トイレの鏡に自分の顔を映すと、目が血走って肌が真っ白になっていて、今しがた井戸から上がってきた幽霊にしか見えなかった。午後8時に藤崎さんから原稿が上がってきた。今川と大沢にメールでそれを送信すると、大沢からメールで「内容は今川に確認するように」という返信があった。30分後、今川からFAXが送られてきた。そこには猛烈な量の修正指示がペンで記されていた。午前2時、藤崎さんの修正が終了し、今川に送信すると、彼は言った。「デザインはOKです。あとは情報に間違いがないようにしてください」。僕と藤崎さんは原稿の整合性や正確性を何度も何度も確認した。山本はどうしても外せない用件があるとかで、すでに会社を後にしていた。山本はその前日も同じように別の打ち合わせがあると言って出かけて戻らなかったが、いたところで何の助けにもならない上司の行動など最早どうでも良かった。すべての確認が終わり、印刷会社にデータを渡した時には午前4時になっていた。藤崎さんは言った、「太陽が昇る前に終わって運が良かったな」。

 走馬灯のように一瞬にしてその記憶がよみがえってきた。

〈印刷部数は覚えてるか?〉と大沢が言った。

「三十万部です」

〈そうだ、三十万人の目に触れるチラシだ。三十万部のチラシって、現物を見たことあるか? 段ボール箱にして数百個、小さなオフィスのワンフロアじゃ収まりきらないくらいのとてつもない量だ〉

 僕は、はい、と小さな声でうなずきながら、悪い予感が目の前で現実に変わっていこうとしているのが分かった。それは、世界全体がスローモーションになっていく感覚だ。弾丸がゆっくりとガラスに突き刺さって、亀裂が走り、次の瞬間砕け散って跡形もなくなる。

 僕は既に、この場を立ち去って一人になるべきだった。大沢の罵声は受話器を通して目の前にいる神谷さんにも聞こえていただろう。彼に聞かせる話ではないし、誰にも聞かせる話ではない。しかし僕はそういう判断を自分に下すことができなかった。何の判断もできなかった。

〈そのチラシが、間違ってんだよ。そのチラシの、問合せ先の電話番号が。販売準備室に掛かるはずのフリーダイヤルの電話番号が〉

「はい」

〈『はい』ってなんだよ。分かってんのかよ、どういうことか〉

「はい」

〈分かるわけねえだろ。今、チラシに載った電話番号をダイヤルするとどこに掛かるかお前に分かるのかよ〉

「分かりません」

〈六本木の飲み屋だよ〉

「そうですか」

〈だけど、ただの飲み屋じゃねえよ。簡単に言うと、そこの経営者はヤクザだ〉

 ヤクザだ、という大沢の言葉が、僕の空っぽの頭の中で鳴り響いた。

言葉の意味は分ったが、何故今その言葉が僕の目の前に存在するのか全くわけが分からなかった。僕は何か言おうとしたが、頭の中の日本語辞書は完全に破壊されていて、かすれた息しか漏れてこなかった。代わりに大沢が僕の気持を代弁した。

〈何でよりによってそんな番号に間違えてんだよ?〉

 その時、テーブルの上に置いてあった、もう一つの携帯電話、僕の個人携帯がイルミネーションとともに振動した。僕は、震えるその物体を呆然と見降ろした。着信表示には「山本」とあった。目の前に座っている神谷さんの表情を窺おうとした瞬間、止める間もなく、神谷さんはその携帯電話を取って、電話に出た。

 もしもし、山本さんですか、と神谷さんは言った。「神谷です」

 三十万部もチラシを撒いたのに一件の電話も来ないから不審に思っていたんだ、と大沢は言った。

「松山君は今別の電話に出てますよ。お客さんからぼこぼこに叱られてます。忙しそうなんで私が代わりに電話に出ました。私も山本さんに話したいことがあったので。直接会って話したかったんですが、まあ電話でもかまわない」

 それが今日、社長宛に一本電話があった。もちろん電話に出たのは秘書室だが、俺たちは即刻部長に呼び出されたんだ。

「そう急がなくていいですよ。用件自体は1分もあれば話せる。その後の話は長くなるかもしれませんが」

 何事か、とは俺たちは思わないんだよ。ろくでもない用件に決まっている。

「先週の火曜、あんた夜はどこにいました? ちょうど今そこで話題になってるチラシを入稿しようとしてた夜ですよ」

 部長に呼び出される部屋はいつも決まってる。その会議室は、蹴飛ばされて壁にぶつかっても音が響かないんだ。

「嘘は言わなくていいんです。もちろん、本当のことも言わなくていい。もう起きたことです。はっきりしています」

 四十歳近くなって人から蹴られるのってきついもんだぞ。一滴の酒も入ってないし、冗談で済む要素はどこにもないんだ。

「うちの社員の池田、そう、イベントコンパニオンのあの子。彼女うちの社員なんですよ。派遣とかバイトとかじゃなくて。彼女を飲みに連れてったでしょ」

 蹴りの後は土下座だよ。土下座してもどうにもならねえよ、とにかくもう、番号は間違ってんだから。でも土下座するんだよ。

「もう私たちは大人ですから、その辺のことは好きにすればいいと思います。大人ですから、自由です。しかしそういうのとは違う場合もありますよね。今回がそうです。私の言いたいこと分かりますよね?」

 俺はお前に土下座しろなんて言わねえよ。そんなことされたって何の役にも立たねえからな。そんなことより、問題は金だ。

「ルール違反なんですよ、それ、山本さん。ルール違反なんすよ。少なくとも俺は、そういう人間とは一切仕事はできないんすよ。分かりますよね?」

 このチラシのデザインの制作費と、三十万部の印刷費と、三十万部の折り込み費用、全部お前らが持て。それから、次に撒く詫び広のチラシ三十万部の費用も全部だ。詫び広って分かるな? 僕は馬鹿なので電話番号を書き写すこともできませんでした大変申し訳ありません、って、チラシの隅に書くんだよ。いいな?

「池田は何にも言ってませんよ。俺が無理やり、周りの人間を使って聞き出したんです。あんたのよくない噂は聞いてましたから、気を付けてたつもりだったんですけどね」

 僕は、はい、はい、と何度も言った。しかし自分が何を言っているのか、何に対してうなずいているのか全く分からなかった。大沢の声が僕の耳をがんがん叩き続けているのが聞こえてはいたが、まるで今朝目を覚ますときに聞こえてきたデフ・レパードのように、遠い別の世界で鳴り響いているようだった。目の前にいる神谷さんの声もだんだん激しくなり、やがてそれは怒号に変わっていった。その声が大きくなればなるほど、なぜか僕はどんどん眠くなってきた。意識が現実から遠ざかり、僕は実際に目を閉じた。そして突然何の脈絡もなく、涼子と別れた日のことを思い出した。7年だか8年だか前のバレンタインデーだ。詳細は僕の中で全く形にならず、一つのシーンの印象だけが蘇ってくる。僕と涼子は二人でそこにいる。高校の近所にあった公園のベンチで、もちろんチョコレートはどこにもない。別れ話を切り出すのは涼子だ。彼女は珍しく、長く話し続けていた。だが今はっきりと思い出せるのはその中の一言だけだ。「あんた人の話真剣に聞いてないでしょう?」

 今すぐ六本木まで出て来い、と大沢は言った。部長と俺とお前で、そのヤクザのとこに詫び入れにいく。菓子折りでも何でもいいから土産を買ってこい。

 わかりました、と僕は言って、電話を切った。

 その後すぐ、神谷さんの電話も終わった。神谷さんは携帯電話の液晶画面を袖で拭って僕に返した。僕は黙って頷いた。僕も神谷さんも、もはや話すことなど何もなかった。

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