第13話

 銀座の資生堂パーラーで適当な菓子折りを買い、僕は一人で地下鉄に乗り込んだ。状況を報告するため、山本にも部長にも電話したが、どちらにも繋がらなかった。僕が一人で行くのはどう考えてもリスキーだ。だが仕方なかった。行かない、という選択肢は無いのだ。時刻は午後6時を回っていて、電車内は帰宅するサラリーマンやOLで満員になっていた。僕は吊革を握りしめながら、暗い窓ガラスに映った自分の汗まみれの顔を呆然と眺めた。

 何故、間違った電話番号がチラシに記載されることになったのか? その理由ははっきりしていた。客から番号を聞いた山本が、それを間違えて藤崎さんに伝え、そして僕はそれに気がつかなかった、というだけだ。ミスの原因など、いつもそうしたあきれるほど単純なものでしかない。しかし、何故そんなことが起こったのか、誰が責任を負うのか、僕にはまったく分からなかった。そして同時に、今さらそんなことは心の底からどうでも良かった。起こったことは、もうすでに起こったこと以外の何物でもない。

 頭の中は完全にオーバーヒートしていた。一体、自分が今日中に片づけなくてはならない仕事がいくつあるのか数えることができなかった。一つも片付いていない、ということだけは分かっているが、どれから手をつければいいのか、どのようにすればそれらが解決していくのか、僕にはまったく分からなかった。昨日も同じように自分に問いただしたような気がするが、そもそも僕は今日一日、仕事というものをしたのだろうか。ただ、誰かと誰かの間でピンボールのように弾かれていただけで、誰かや何かに寄与をする、形になったものは一つもない。そして今もフリッパーに弾かれて電車に乗っているだけだ。飛んでいった先にはヤクザがいるだけで、そんなものに衝突したところで一点も加点されない。

 僕は汗ばんだ手で、カバンの中からⅰPodのイヤホンを引きずり出した。そしてアーケード・ファイアの「フューネラル」を聴き始めた。音は全く耳に入ってこなかった。

僕の中で言葉が渦を巻いていて、やがて一つの単語になった。「アフリカ」だ。バカ高く積み重なったガラクタのような仕事の山の中で、最も重要なのはそれに違いなかった。この半日で、僕はアフリカから最も遠い場所にやってくることになったわけだが、明日の9時までにはそこに戻らなくてはならないのだ。しかしどうやったらそんなことができるのだろうか。僕の中には今、アフリカと関連するようなものは何一つない。イメージと呼べるもの自体が存在しない。僕は数時間後、涼子と再び打ち合わせをするだろう。そして何かを話すだろう。僕は夜通し話しているかもしれない。それらは全部、全く無意味な言葉だ。髪の先からつま先まで全体にずっしりと重く何かがのしかかって、相手はもちろん、自分が何を言っているのかも分からない。僕は考えている、もしも神谷さんが本当にこのプロジェクトを降りるのなら、僕たちはこれまでの自分たちの生命線を失うことになって、たとえクリエイティブ提案を突破しても何の意味もないかもしれない。

 日比谷線の六本木駅の改札で、すでにジャイアン大沢が僕を待っていた。彼の隣りには四角い頭でやたらと胸板が厚くいかつい顔の、つまり大沢以上にジャイアンに似た男がいて、説明されなくてもその男が大沢の上司だということは分った。彼が数時間前に大沢を蹴とばしたという事実には、リアリティがありすぎた。その光景は想像しようとするまでもなく勝手に脳裏に浮かび上がってきた。

「遅れて申し訳ありませんでした」

 僕が頭を下げながらそう言った。

「中島部長や山本さんは?」と大沢が訊いてきた。

「申し訳ありません。上司は別件で来られませんでした」

「何が別件だ。他に用件なんかあるわけねえだろうが」

「申し訳ありません」

 僕はさっきから二千回くらい「申し訳ありません」と言っている。それは、一度頭を下げてしまった限り、問題が解決するまでもう避けられない言葉だ。おそらく一万回言っても足りないだろう。怒りという問題は言葉では解決しない。

「話は私たちがする。そっちはとにかく口を利かずに頭を下げてろ」

 シンプル極まりない指示だった。分かりました、と僕が言い終わるよりも早く、大沢と大沢の上司は歩きだした。名刺を交換する暇もなかったが、暇があったところで大沢の上司はそうする必要を認めなかっただろう。見るからに僕はくたびれた丁稚以外の何者でもなかったし、そうでなくとも彼らは広告代理店の人間など、単なる会社に出入りしている下請け業者で、蟻のような連中としか思っていない。

 辿り着いた店は、六本木の交差点から2、3分歩いた場所にあるビルの最上階にあった。全体が間接照明だけで照らされた薄暗い店で、90年代のアンダーワールドの音楽がかかっていた。テーブルはすべてガラス製で、どの椅子も不必要なほど丸みを帯びている、無闇にムーディな、接待かデートかキャバクラ嬢を連れ込むために使われる店だ。受付で大沢が店員に、「武井様にお会いしたい」と言うと、店員は不遜に頷いて、襟元のインカムに向かってぼそぼそと囁いた。店員は、こちらへどうぞ、と呟くように大沢を案内して歩きだした。僕たちは店員について歩き、店内のメインフロアを横切って行った。既に客がぽつぽつと入り始めていて、そのどれもが男と女の二人連れか、男と女が混ざったグループだった。ジャイアン二人と汗みずくのやつれた男、という僕ら三人は風体からしてまるっきりの異邦人だった。

 店の奥の扉が開けられると、そこはこじんまりとしたオフィスになっていた。窓際にデスクがあって、その前に向かい合った一組のソファがあり、これで壁際が本で埋め尽くされていたりすれば、大学教授の研究室のようと言えないこともなかったが、実際に壁に掛けられていたのは、「明鏡止水」と筆で書かれた欄間額であり、コンサートやイベント情報などの種々雑多なポスターと、さまざまなスケジュールがびっしり書き込まれたホワイトボードだった。

 デスクに座っていたのはごく普通の風体の男だった。男は僕ら三人が部屋に入ってくるのを認めると立ち上がった。彼はダークグレーのスーツを着て、白いシャツにブラックのドットタイを巻いている。短めの髪を整髪料で後ろに撫でつけていて、顔つきは細面で髭もなく、傷もない。基本的にどこをとっても大手町にいくらでもいる男の風貌だった。

 だが、不思議で仕方がなかったが、それでも彼がヤクザだということははっきり分かった。初めから、これから登場するのはヤクザだと思って身構えていたのだから、どんな男が現れたとしてもそう感じたのかもしれないが、目の前にいる男のヤクザオーラはそんな先入観を超えて僕に伝わってきた。服装や顔つきでどこがどうというのではなく、佇まいが完璧なヤクザなのだ。本物の本質は常に細部に宿るというが、足のつま先や、まっすぐ線を引かれたスラックスの折り目の先端から、僕はそれをはっきり感じ取ることができた。駅前の道を埋め尽くしている数え切れないほどのスーツ姿の男たちが、実際にはどんな仕事をしているのかは、他の人間には分からない。だが、聖人とヤクザだけは一目見ればそれと分かる。神聖か邪悪かの違いだけで、どちらも額にそう刻印されているのだ。

「お忙しいところ失礼いたします。神栄不動産の者です」

 大沢の上司がそう言って頭を下げると、男はソファの前までやってきた。大沢の上司と大沢が内ポケットから名刺を取り出して相手と交換すると、僕も促された。

「三広の松山と申します」

「武井です」

 低い声だった。受け取った名刺には、「株式会社トラフィック 武井勲」と書かれていた。しかしその社名には何の意味もない。「株式会社ヤクザ」と書くわけにいかないから代わりの文字が記してあるだけだ。武井が僕ら三人にソファを指し示し、大沢の上司、大沢、僕の順番で腰かけた。僕はテーブルの上に資生堂パーラーの菓子折りを置いて、つまらないものですが、と言いながら差し出した。武井はそれをちらりとも見なかった。

「このたびは武井様や皆様に大変なご迷惑をおかけいたしました。大変申し訳ありませんでした」

 大沢の上司がそう頭を下げると、大沢が頭を下げ、僕も頭を下げた。顔を上げる順番もそれと同じだった。武井の顔を見ると、彼は大沢の上司の方を細い眼で見ていた。彼の唇は水平に閉じられて、開く気配がなかった。

「このたびは弊社が大変な粗相を致しまして申し訳ございません。お忙しいところとは存じますが、不始末をお詫びさせていただきたくお伺いしました」

 大沢の上司がそう言った。さっき言ったことを別の言葉に言い換えただけのセリフだった。しかし、申し訳ありませんでした、しか言えない僕よりは何十倍もましだ。同じ内容をそのまま同じ言葉で繰り返すのは馬鹿のすることで、馬鹿だと判断された途端に相手の怒りは覿面に増幅する。必要とあれば彼は何十パターンでもそのバリエーションを披露するだろう。

 だが、そこで武井がゆっくりと口を開いたので、その必要はなくなった。

「まあ、お互い暇じゃありませんから、手短にしましょう」

 低い声が小さな部屋の中で響いた。こういうのをドスの効いた声というのだろうと僕は思った。特に声を張っているわけでもないのに、部屋の中の空気が微妙な振動を起こして、相手を緊張させる。ビジネス上の交渉にも、女の子をナンパするのにも向いていない声色だから、普通の人間は使う必要がない声だ。

 武井はテーブルの上に置かれた名刺を眺めながら言った。

「柿本部長さんにお伺いしますが」

「はい」と大沢の上司が言って頷いた。

「神栄不動産さんは、創業して何年になりますか?」

「たしか、間もなく50年になります」

「50年。ご立派なもんですね。老舗と言って差し支えない」

「そうですね、おかげさまで比較的長いことこの業界でやらしていただいております」

「90年代以来の不況も無事に切り抜け、目下の評判も悪くない。ご立派な会社にお勤めだ。これまでいろいろとあったでしょうが、どうにか信用を維持して、拡大して、これまでやってこられたわけだ。話に聞くと、お給料もいいんでしょう」

 柿本部長は微笑んで首を横に振った、「そうでもありません」

「そうですか。毎日どんなお仕事をしてらっしゃるんですか?」

「私は営業ですから、幾つもの物件の販売計画を練って、人員を配置して、そのコストを管理して、それらの進捗と見通しをチェックして、といったことをやっておりますね」

「なるほど、お忙しいんでしょうね」

「おかげさまで、日々お仕事に恵まれております」

「ところで、この店は、開店して何年になると思います?」

ええっと、と柿本部長は応えた。「ずいぶんお綺麗なお店ですし、5年くらいでしょうか?」

「15年なんですよ。六本木のど真ん中で15年間。結構長いと思いませんか?」

「そうですね、ご立派なものですね」

「15年間、あらゆることに気を付けてきました。会計のトラブルや暴力沙汰などもっての外だし、内装や、お出しする料理とお酒、ウエイターとそのサービス、常に最高の物を求めてきました。15年間ずっとそうしてきました。そうしなくては信用というものは培われないものだからです。そうは思いませんか?」

 柿本部長は、おっしゃるとおりです、と言って頷いた。

「しかし、その15年かけて積み上げてきた信用が、1日で全て崩れることがあるというのは理解できますか?」

 武井はそう言って柿本部長をじっと見つめた。

「信用を潰すには、一瞬でいいんですよ。一瞬だけミスをすればいい。私はこの店を始めるときから、それがよく分かっていた。信用を積み上げるには長い長い時間がかかる。だがそれはふとしたことですぐに消滅してしまう。それまでの仕事がどれだけ上出来でも、ほんの一度でも世間から後ろ指をさされるようなことになれば、何の意味もなくなってしまう。私はそれをよく承知していた。この店の経営についてだけでなく、自分の生き方としてもこれまでそういうやり方をしてきた。決してお客様を裏切ることの無いように、信用を裏切ることのないように、と」

 よく分かります、と柿本部長は言った。

「分かるというのはどういう意味ですか」

 武井は柿本部長をじっと見つめたままそう言った。

「分かるわけがないでしょう。あなたは、あなたのミスのおかげで私のところに掛かってきた電話の内容を聴いたとでも言うんですか。私が何件の間違い電話を受け、何時間を無駄にしたのか、分かるんですか。分かるわけがないのにどうしてそんな意味の無い相槌をうつんですか」

「大変失礼しました」と柿本部長は言った。「私が『分かります』と申し上げたのは、信用を裏切らないことが何より重要だとおっしゃったことについてです」

 武井は柿本部長を睨んだまま、ゆっくりと首を横に振った。

「下らんことを言うのは止めなさい。一体何が分かるんですか? あなたは私が15年積み上げてきた信用をコケにしたんですよ。たった今私がそれを説明したのに、何を聴いていたんですか? それはあなたが自分の会社の信用に、自分自身の手で泥を塗ったということでもある。そんなことも分からないあなたに、他人の信用を地に落としたということが理解できるんですか? ふざけたことを抜かすものじゃない。信用というものは他人に迷惑をかけない、という一点において成り立っている。あなたは私に迷惑をかけていないんですか?」

 申し訳ありません、と柿本部長は言った。

「あなたはさっき、大した給料などもらっていない、と言った。今のご自分のお仕事と、それを照らし合わせてみたことはありますか。駆け出しの若造じゃあるまいし、嘗めすぎちゃいませんか。自分の仕事を良く顧みたほうがいい。たとえそれがどんな額だろうが過ぎた報酬だと分かるはずだ。あなたはさっき仕事の内容を説明したが、そこには、最も重要な仕事が欠けている。それは他人の信用を裏切らないということだ。そう思いませんか?」

 申し訳ありません、と柿本部長は言った。

「迷惑、というのが何か分かりますか。私たちが何よりも避けるものです。他人に掛けることも、自分が被ることも、何にも優先させて避けるものです。人に迷惑をかけないのがビジネスだ。誰かに迷惑をかけた時点でそのビジネスは成立しない。それでも成立させたいのなら、それ相応の詫びが必要だ。

 はっきりさせておきます。私はあなたに迷惑を掛けられた。

まず理由を聞かせなさい。なぜこんなことが起こったのか。大きく、歴史があって、一流だと見なされている会社が、どうしてこういう適当で人を嘗めた仕事をしたのか、納得できる理由を聞かせなさい。返答次第ではこちらにも考えがある」

「はい、申し訳ありませんでした」

 柿本部長は明らかに動揺していた。僕と全く同じセリフを三回繰り返し、その声は震えていた。僕は柿本部長の横顔を横目に観た。頬がひきつっている。ほんの数分前まで一分の隙もないジャイアンだった表情が、あっという間にただのデブにしか見えなくなっていた。だが、僕はそれを笑う気にはなれなかった。確かにそれは急激な変化だったが、理由ははっきりしていた。人を動揺させるのは、恐怖だ。武井の口調はあくまで平静だ。平静すぎるくらいだ。おそらく対堅気専用の口調なのだろう。だが、彼から伝わってくるのは言葉による空気の振動だけではない。眉間に鋭い切っ先を突き付けられるような、非日常のオーラだ。それがいつの間にかこの部屋全体を包んでいた。そして恐怖は瞬く間に伝染して、実体以上の験を示す。武井の言葉を聴いて僕たち三人が理解したのは、彼の怒りや言い分よりも、武井という男がその辺のチンピラではなく、本当に筋金入りのヤクザだったということだった。

「それについては、広告代理店の三広の松山から説明させていただきます」

 柿本部長は唐突にそう言った。

武井が僕の方を見た。その柿本部長の声は武井を通り抜けて壁にぶつかり、何度か部屋の中を跳ね返ってまわった。自分の名前が呼ばれたことは分かったので、曖昧に頷いた。だが奇妙だ、と僕は思った。奇妙だ、としか思わなかった。

 どうして俺が説明するのだろう、ほんの少し前、「お前はとにかく黙って頭を下げてろ」と命じられたばかりだというのに。

 僕は柿本部長と大沢の方を見た。二人とも、僕を見ようとはしなかった。ひょっとしたら僕を見返していたのかもしれないが、どちらにしても僕には二人の顔がよく見えなかった。目を開いているのに目の前が真っ暗になったような感覚がして、何も見えなかった。三広の松山から説明させていただきます。三広の松山から説明させていただきます。

 かすれた息が口から漏れた。

 生け贄にされた、と気が付いた時、同時にその言葉だけが頭の中を埋め尽くした。視力も同時に回復した。だが見えるのはたった一つだった。僕をまっすぐ見ている武井の眼だ。手に巨大な木槌を持った閻魔大王のような眼だった。そのベクトルはさっき会った神谷さんの目と同じだったが、エネルギーの総量は比べ物にならなかった。僕は口をかすかに開閉させた。僕が考えるのはその視線に答える言葉ではなかった。生け贄にされた、ということしか考えられなかった。大の大人が、ヤクザにびびって、恥も外聞もなく、社会人になって四ヵ月にしかならない若造を生け贄にすることにしたのだ、と。

僕の頭の中は、恐慌を通り越して真っ白になった。

 気が付くと、部屋の中を、耳が割れるほどの沈黙が包んでいた。僕は耳を澄ました。ドアを一枚隔てた向こうで鳴り響いているはずのアンダーワールドの音楽は、全く聞こえてこない。ここはその世界とは全く別の空間なのだ。そして、外の音が中に聞こえてこないのと同じように、この部屋の中で誰かが誰かを蹴り飛ばして壁に衝突させても、それは外にはまったく聞こえない。僕は自分の体に起きている変化にようやく気が付いた。全身の毛が逆立っている。体の表面がびりびりと震えて軽い。そしてその反対に内臓が異様に重い。まるで胃の中にいきなりブラックホールが発生したように。そのせいで体がぴくりとも動かない。

 誰もが僕の言葉を待っていた。僕自身も僕の言葉を待っていた。だがどうやっても、口からはかすれた息しか出てこなかった。僕は必死に、冷静になるように自分に言い聞かせた。落ち着け、冷静になれ、落ち着け冷静になれ。しかし、僕が冷静になれる理由はどこにもなかった。僕は何から何をどう話していいのか分からないし、そもそも真実を話すことを求められているのか、この場をうまく取り繕う言葉だけを求められているのかも分からないのだ。僕はいつも冷静になろうと努めるとき、ここで失敗したところで殺されるわけでもない、と自分に言い聞かせてそうなることができた。だが、ひょっとしたら僕は今ここで下手なことを言えば殺されるかもしれない。そんな状況は生まれて初めてだった。まともに考えればそんなことはありえない、とは僕はどうやっても断言できなかった。

いつの間にか僕は話し始めていた。いつ話し始めたのか、自分でも分からなかった。

「問題のチラシについては、先週の水曜の未明に印刷をしました」

 自分が何を話しているのか、まったく聞こえなかった。考えて話し始めたのではなく、その逆だった。僕の意識は所々で途切れ、何を言うべきか考えることなどできなかった。言葉を話すマシーンになっただけだ。そしてその時点で僕が何を話すのかは決まった。真実だ。人の意志が介在しない、飾り気の全くない、事実そのものの真実だ。機械にはそれ以外話せない。

「その前日の火曜日、私たちは印刷用の原稿をおおむね完成させました。神栄不動産さんの大沢さんと、広報宣伝部の担当者さんのご指示で、私と私の上司とクリエイティブデザイナーは、チラシを構成する情報をまとめていきました。その中には、今回のマンションの販売準備室の問合せ先電話番号になる、フリーダイヤルの番号も含まれていました。しかしその時、番号を口頭でお伺いした際に、下3ケタの数字を間違えてメモしてしまったのです。その番号が、武井さんのお店の番号そのものでした。直接大沢さんからその番号をお伺いしたのは私の上司だったため、何故そういった間違いが起こったのかは私には分かりません。しかしとにかく、その間違った状態の番号で原稿は完成し、神栄不動産の皆さんに最後のチェックを受けました。皆さんは私に『あとは任せる、間違いの無いように』とおっしゃいました。私とデザイナーは二人で原稿を隅から隅までチェックしました。しかしその番号の間違いには最後まで気がつきませんでした。そのまま原稿は入稿され、印刷され、三十万部のチラシが朝日新聞と読売新聞と日経新聞に折り込まれました。それをご覧になった方が、そこに書かれた通りの番号に電話をかけられたところ、武井さんのお店につながってしまったのです」

 僕は、早くも遅くもないスピードで、大きくも小さくもない声で、そう話した。再び沈黙がやってきて、武井が僕の目をじっと見ていたが、それ以上僕からは話すことは何もなかった。

「私からのご説明は以上です」

 念のため僕はそう言い添えた。だが沈黙には何の変化もなかった。

「それで?」

 長い時間が――少なくとも僕にとっては――流れた後、その声は聞こえた。僕は、いつの間にか俯いていた自分の顔を上げた。

「それで?」

 武井はもう一度そう言った。僕は彼の眼を見た。路傍の虫けらを見下ろすような眼が僕を見返していた。

 誰も口を開かず、やむを得ず僕は聞き返した。

「それで、とおっしゃいますと」

「状況は大体分かりました。要は、関係した全員が適当な仕事をした結果だというわけだ。しかし今のお話だと、誰に責任があるのか、そしてどのようにしてその責任を取るのかがまったく不明だ。

 それで、一体どうするおつもりなんですか?」

 武井はそう言って、僕たち三人を順々に見渡した。僕は何かをしゃべろうとして、そしてすぐに諦めた。言葉など全くどこにも存在しない。僕に判断できるはずがない。特に「責任」というものについては。

 柿本部長も、大沢も、何も言えなかった。しかし、彼らは、「責任」の在りかがどこなのかは分かっている。一般的に言うなら、広告に記載されたすべての情報について、それを世間に出した責任は広告主である神栄不動産にある。広告代理店は、結局のところ「代理店」に過ぎず、公表された事象の責任を問われることはない。ただ、今の僕のように、代理店と広告主との間で血みどろの争いになるだけだ。だから、神栄不動産の二人も武井に対してその責任を負うのは自分たちだということは分かってはいる。さっき柿本部長はすでに謝罪した。謝罪したということはそこに責任があると認めたということだ。だがそれをどのようにして負うのかが分からないのだ。それは交渉で導き出すしかないはずだが、二人は沈黙したままだった。恐怖がそれを押しとどめているとしか思えない。

 静寂が部屋を包んだまま、長い時間がたって、僕は自分の右足にこつこつと何かがぶつかる振動を感じた。見下ろすと、それは隣に座る大沢が、僕の靴を足でつついているのだった。僕は大沢の横顔を見た。大沢は、声に出さずに唇を小さく動かした。僕は、聞こえません、という意味でわずかに首を横に振った。大沢は今度は、同じように声に出さず、もう少し大きく口を動かした。それでも僕には彼が何を伝えたいのか分からなかった。五文字の言葉だ、ということが分かっただけで精いっぱいだった。

「私どもとしましても、今回の件は非常に申し訳なく、また情けなく思っております。今回の件は、ご指摘の通り、ビジネスではあってはならないことだと存じます」

 柿本部長がついに話し始めた。だが、具体的な話ではなかった。さっきの「お詫びのバリエーション展開」に戻っただけで、物事を一歩も前に進める言葉ではない。いかようなお叱りを受けても当然かと存じます、このような単純ミスを二度と起こさないように、云々としゃべり続けているが、僕には武井がそれを聴いているようには見えなかった。むしろ、彼の周囲で少しずつ怒りの分子が結合し、塵となり、やがて渦を巻きつつあるように僕には見えた。そうして柿本部長と武井を交互に見ていた僕に、大沢が耳打ちした。

「土下座しろ」

 ごく小さな声だった。だがはっきりと聞こえた。僕は大沢の方に振り向いた。大沢はさっきと同じように、声に出さずに唇だけゆっくりと動かした。ど、げ、ざ、し、ろ、と今度ははっきりと唇を読むことができた。

 僕は首を横に振った。二度三度振った。頭で考えての行動ではなく、反射的だった。その五文字は、僕の表層だろうと深層だろうと、どの部分に入り込もうとしても受け入れられずに跳ね返される命令だった。僕はもう一度首を横に振った。

「いいから土下座しろ」

 大沢がもう一度僕に耳打ちした。今度は怒りと苛立ちを孕んだ声質だった。だが僕はもう一度首を横に振った。大沢が凄まじい形相で僕を睨んだ。ドラえもんの四次元ポケットを手に入れた時のジャイアンよりも邪悪で醜悪な顔だった。それでも僕は頷かなかった。そんなことはできない、という目で僕は大沢を見返した。そんな責任は僕にはない。そんなことをする理由はどこにもない。

 いや違う。どんな理由があったとしてもだ。たとえそうする責任が100%僕にあったとしても。

「武井さん、今から三広の松山がお詫びします」

 柿本部長の言葉が途切れた隙間に、大沢がそう言った。僕は大沢の顔を見て、再びかすかに首を横に振った。だが、何の意味もなかった。大沢は僕の脇を抱えてソファの横に立たせ、頭を押さえつけてきた。何が起きているのか、自分が何をされようとしているのかは分かったが、それに対する反応命令が筋肉に伝達されない。武井の顔も、柿本部長の顔も、冷たく無表情だった。その二つの顔を見た瞬間、あらゆる外気と音が、僕から遠ざかった。僕自身さえ僕から遠ざかり、真上から自分を見下ろしている気がした。膝を突け、と大沢が命令したとき、僕の膝にはまったく力が入らず、自然に崩れ落ちた。僕は柔らかいカーペットに手を突き、ゆっくりと頭を下げていった。大沢が僕の後頭部を押し、額をカーペットにこすりつけた。僕は眼を開いていた。カーペットの毛並みが、近すぎてぼやけて見えた。

「申し訳ありませんでした」

 自分のその声が遥か彼方から聞こえてきた。その声はゆっくりと僕の耳を這い、頭の中を巡り、喉元を通り過ぎて体全体の隅々まで走って行った。長い時間が経って、僕が頭を上げた時、僕は柿本部長から、部屋から出て行くように言われた。立ち上がって部屋のドアを開けるとき、大沢が僕の耳元で、よくやった、と囁いた。僕はあいまいに頷いた。

 店のBGMは今ではアンダーワールドからエイフェックスツインに変わっていた。ほとんどすべてのテーブルが客で埋まっている。そのフロアを通り抜け、エレベーターで一階まで降り、ビルの外に出ると、異常な量の光彩が僕の目を突き刺した。いつも通りの夜の六本木が完成していた。僕は腕時計を見た。20時ちょうどだった。少しだけ歩くと、ビルの壁にもたれかかり、僕は立ち尽くした。時計の針が回転するのをじっと眺めていた。秒針が五回転しても、十回転しても、まだ僕は動けなかった。両親の顔と、学生時代の友人や恋人たちの顔が頭に浮かんだ。彼らは僕の名前を呼んでいた。無限に凄まじいスピードで呼ばれ続けていて、僕がそれに応えられる隙間はどこにもなかった。僕は鞄から取り出したラッキーストライクに火を点けた。


                  ☆


 オフィスに戻って時計を見た時、時刻は21時になっていた。果てしなく長い時間呆然としていたような気がしたが、まだたったの1時間しか経っていなかったのだった。僕は自席に座りこんで辺りを見渡した。オフィスの中には誰もおらず、しんと静まり返っていた。普段なら、まだ社内に静寂が訪れるような時間帯ではない。しかしそれは僕にとっては好都合だった。誰にも声をかけられたくないし、誰とも話をしたくなかった。だらりと両腕を下ろし、ぼんやりとパソコンのモニターに顔を向けていた。受信メールが五十通ほど溜まっていたが、一つも読む気にはならなかった。煙草を吸う以外には何もする気にならなかった。僕はポケットから取り出した煙草に火を点けた。オフィスの中はもちろん全面禁煙だ。しかし今は、文句を言うものは誰もいない。いや、いたとしても、一体それが何だというんだ? 僕は深く深く煙を吸い込んで、ゆっくりと天井に向けて吐き出した。

 携帯電話がポケットの中で振動した。僕はそれをデスクの上に放り出して、ぶるぶると震えるのを眺めた。20秒ほど震え続けた後、それは留守番電話モードに切り替わり、伝言が吹き込まれるのが遠くから小さく聞こえた。同期入社の男の声だった。

〈もしもし、森田です。松山、今どこにいる? 椎名部長の送別会で、今、銀座五丁目のカラオケで二次会をやっています。一瞬でもいいから顔を出してください。折り返し待ってます〉

 僕は机に置きっぱなしになっていた缶コーヒーの口で、煙草の火をすり潰して消した。そしてすぐに次の煙草に火を点けた。送別会、カラオケ、一瞬、折り返し、そんな単語が僕の頭の中で反芻されたが、全く意味が分からなかった。どうして僕がそこに行かなくてはならないのだろう。今僕がそこに行く理由がどこにあるのだろう。椎名部長というのは隣の部の部長だが、これまで一言も会話したことはない。辞めて実家の大阪のパン屋を継ぐということだが、僕がそこを訪れることは永久にないだろう。辞めたいなら勝手に辞めればいいし、パンを焼きたいなら焼けばいい。誰かがやりたいことをその通りにやる時に、どうして僕が「一瞬でもいいから顔を」出さなくてはならないのだろうか?

 僕が三本目の煙草に火を点けた時、オフィスの入り口扉が開け放たれ、隣の部の部員が入ってきた。僕よりも3年先輩の田島だった。週に五日は酒を飲んでいる男だが、それは特にオリジナリティのある行為ではない。この会社での夜は、仕事をしているか、酒を飲んでいるか、女をナンパしているかの三択しかない。彼の酩酊した気配が一瞬のうちに伝わってきた。彼は僕をすぐに見つけた。

「お疲れ様です」

 僕は相手より先にそう声をかけた。意味不明な言葉だ。

「松山、お前、いたのか。なんで送別会こねーんだよ、新人の癖に」

「すいません、客先に呼び出されてました」

「まあいいけどよ。来いよな、お前」と田島は言って、そして眉間にしわを寄せた。「お前、何煙草吸ってんだよ。禁煙だろうが」

「すいませんでした」

 僕はつまんだ煙草を缶コーヒーの中に放り込んだ。

「すいませんでしたじゃねえんだよ、お前、新人の癖に」

「すいませんでした、もう二度としません」

「まあいいけどよ、それよりカラオケ行くぞ、カラオケ」

「カラオケですか?」

「椎名部長の送別会の二次会だろうが。俺はそれで戻ってきたんだよ。今年の新年会で使ったジョークグッズを取りにな。お前も来い」

「でも僕、明日プレゼンなんです」

「それがどうした。お前なんかがやることなんかどうせ企画書のコピーぐらいのことだろ。30分や1時間カラオケに顔出すぐらいなら、どうってことねえよ。いいから来い。顔出すだけでいいんだ」

 広告代理店の新人にとって、朝早く会社に来ること、すれ違った先輩には挨拶すること、飲み会には必ず参加すること、それだけが重要だ。だがそれよりもっと重要なのは、カラオケは僕が今この世で最も行きたくない場所だということだ。どうやって断ろうかを考えようとしたが、その言葉を無理に告げるよりも、確かに田島が言う通り、ほんの僅かに会に出席してすぐに逃げる方がストレスの量はずっと低いことに気がついた。僕は曖昧に頷いた。

僕は席から立ち上がった。田島は頷いた。

「よし、じゃあお前これ頭に被れ」

 田島はそう言って、手に持った紙袋からバーコード禿げのカツラを取り出して僕に渡した。

「それ被ってカラオケに突撃するんだ。そうすれば許してもらえるからな」

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