第14話

 そこはカラオケボックスにしてはかなり広い部屋だった。学校の教室と同じ程度の面積があり、見事な宴会場と化したその空間は三十名ほどの三広社員で埋め尽くされ、大いに盛会だった。扉を開けた時には誰かがステージの上でブルーハーツの「トレイン・トレイン」を大声で歌っていた。その背後の白い壁面にプロジェクターから映像が投影され、ジーパン姿の男が河川敷を疾走している。天井にはミラーボールまで付いている。田島が僕の腕を肘で小突き、ヅラを被れ、と言った。僕が立ち尽くしていると、田島はそれを僕の手からひったくって頭に無理やり被せた。そして僕の右手を取って掲げ、ステージの前を歩かせた。野次が飛び交い、ブルーハーツを歌っていた先輩が、歌を止めて「お前邪魔だ、松山」、と叫んだ。僕は中央奥にいる椎名部長のところまで歩いて行き、お疲れ様でした、と言って頭を下げた。椎名部長は真っ赤な顔を笑顔にして、僕に頷いた。

「ありがとう、お疲れさん」

 僕は頷いて、近くにあったビール入りのピッチャーを取って椎名部長のグラスに注いだ。そして満面の笑みを浮かべ続ける椎名部長に微笑み返した。

「松山、仕事にはもう慣れたか?」と椎名部長が訊いてきた。

 僕は首を横に振った。

「まだ何も分からないです。慣れるっていうのがどういうことなのか、分からないくらいです」

「そのうち分かるよ。月曜日と土曜日を何度も行ったり来たりしているうちに。長く続けていると、見えてくることがあるんだよ。うちの会社には優秀な人がたくさんいるから、観て聴いて、色んなことを学ぶといい。時間はたっぷりあるんだから」

 僕は微笑んで頷いた。そして再び椎名部長のグラスにビールを注いだ。僕はあたりを見回して、中島部長と山本の姿を探した。僕はまだ二人になにも報告できていない。

 山本がステージに一番近い席にいた。袖をまくりあげ、シャツのボタンを真中まで外し、大声で何かを笑っている。僕は椎名部長に頭を下げて立ち上がり、あたりを見回しながら山本の所に歩いて行った。中島部長はどこにもいない。もちろん、明日がラストチャンスのプレゼンだというのにこんなところで騒いでいる方が異常なのだ。だが僕は山本が機嫌よく笑っているのを見ても怒りは湧いてこなかった。何の感情も覚えなかった。

「山本さん、お疲れ様です」

 山本は笑いながら僕を見返した。

「おお、お前遅かったな。ていうか何だその頭」

 山本は僕の頭のバーコード禿げのカツラを指さし、そして爆発的に笑い出した。

「田島さんに被せられました」

「すげー似あってんじゃん」

「ありがとうございます」と僕は言った。「ご報告したいことがあるんですが」

「何だよ」

「ここじゃ話しにくいので、今ちょっとお時間いただけますか」

 山本の笑顔があっという間に硬直した。彼は僕を睨みつけた。

「馬鹿か、お前」と山本は言った。

「今、ちょっとお時間いただけますか」

 僕はもう一度そう繰り返した。山本は首を横に振った。

「お前、本気で馬鹿だな。今ここが、どういう場所か分かって言ってんのかよ。お前、俺が教えてきたこと何にも分かってねえな」

「すみません」

「お前みてえな空気読めねえ奴初めてだよ。ほんっと仕事出来ねえ。お前とは仕事出来ねえよ。俺が何回教えてやってもひとっつも覚えねえし、ほんと最後まで駄目なやつだったな、お前は」

 まあそう言うなよ山ちゃん、と山本の隣に座っていた男が言った。山本は首を横に振って、まじでこいつ使えねえんだよ、バーコード禿げだしよ、と言った。

「プレゼンはどうするんですか」と僕は訊いた。

「はぁ?」

「プレゼンはどうするんですか。こんなところで飲んでていいんですか」

 山本は僕をじっと見つめ返した。山本の唇の端が小刻みに震えた。

「馬鹿野郎! お前誰に向かって口利いてんだ!」

 その怒号は、サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」の大合唱の中でほとんどかき消された。だが少なくともそこにいた全員の耳に届いただろう。そして誰もが聞こえない振りをして「勝手にシンドバッド」を歌い続けた。僕はじっと山本の顔を見返した。

「お前、誰に向かって口利いてんだ」と山本は繰り返した。肩で息をして、唇の端はぶるぶると震え続けている。「嘗めてんじゃねえぞ。頭冷やせ。お前、いい加減にしろよ」

 僕は首を横に振った。

「僕は訊いてるだけです。明日どうするのか。山本さんを嘗めるとか頭を冷やすとかそういう問題じゃないです。あと十二時間後のプレゼンはどうやったって変更ができません」

「黙れ」と山本は言った。「もう口を開くな」

 僕は頷いて立ち上がり、カラオケボックスを出て行こうとした。顔は出して、椎名部長にもあいさつしたのだから、もうここにいる理由はない。「勝手にシンドバッド」が万雷の拍手とともに終わった。その時、ステージ横にいた司会役の男が叫んだ。

「お集まりの皆様、ここで奇跡のデュエットタイムでーす! 山本ディレクターと新人の松山君! 犬猿の仲と言われるこの二人が見せる最初で最後のパフォーマンス! 皆様とくとご覧あれ!

 曲は『修二と彰』の〈青春アミーゴ〉!」

 僕はステージのスクリーンに振り返った。拍手が巻き起こる。指笛が聞こえる。スポットライトが僕に向けて照らされた。80年代の古臭い歌謡曲のようなイントロダクションが耳に突き刺さる。僕は額の上に手をかざし、スクリーンを見つめて立ち尽くした。

 何だこれは?

 僕がぼんやりしているうちに、山本はいつの間にかステージに上がってマイクを手に持っていた。そして満面の笑顔で、松山、早く来い、と叫んだ。僕は誰かに背中を小突かれ、ステージまで押し出された。スポットライトが僕を照らし続ける。そして誰かが僕にマイクを手渡した。僕は部屋全体を見渡した。誰もが笑っていた。笑っていないのは僕一人だけだった。

「お前が修二のパート歌えよ」と山本が言った。

 僕は首を横に振った。「僕この歌知りません」

「馬鹿、いいから歌え」

 そしてイントロが終わり、歌が始まった。

 携帯電話が鳴って嫌な予感がする、という内容の字幕が現れ、流れるようにその色が変わっていく。だがその意味が何であれ無駄だった。知らないものは知らないのだ。僕はマイクを握り締め、すみません、知らないんですこの歌、と繰り返した。

 馬鹿野郎、と言って山本が僕の腹を横から思い切り蹴った。僕はステージの上に横倒しに倒れ、山本を見上げた。山本は笑いながら歌った。会社のデスクや客先の会議室では決して見たことのない、心底から楽しくて仕方が無いという表情だった。

 山本の口がぱくぱくと動いて、大きな夢を追いかけて故郷を抜けだしてきた二人の男の友情がどうのこうのというストーリーを語るのを聞きながら、僕はゆっくりと立ち上がった。どうやら歌の中の二人は何らかの理由で夢に破れたらしいが、何がどうしてそうなったのか、具体性が全く無い。そもそも彼らの夢というのが一体何だったのか全く分からない。しかしそれが分からないのはどうやら僕だけのようだった。フロア全体で大合唱が起こっていて、旅立った日の故郷の空が美しかった、という意味の歌が僕の耳に鳴り響いた。

 その音を茫然と聞いていると、歌の途中で誰かが僕の背後にやってきて、僕の体を山本に押し付けた。そして右腕をつかんで山本の肩に回させた。その誰かは、歌え松山、歌え、と何度も僕の耳元で叫んだ。

「歌え、それから笑え」

 山本も僕の左肩に手を回してきた。田島が僕たち二人の前にやってきて、デジカメで写真を何枚も撮った。山本はそれに向かってピースした。そして僕の肩を強く握り、体を前後左右に揺らしながら僕の側頭部に頭突きをし、足を踏みつけて来た。

 スポットライトの光が正面から当たり続けていて、何も見えない。

 曲が終わった後、山本は僕の頭を後頭部から叩いた。頭にかぶったカツラがずれ、前が見えなくなった。僕がそれを直すと、どっと笑いが起こり、山本は笑いながら手を振ってテーブルに戻っていった。

 僕は全身の力を振り絞って笑顔を浮かべた。そして出口に向かって歩いて行った。おい帰るのかよ松山、という笑い声が聞こえてきて、僕はその声に向かって微笑みながら頭を下げて、ドアを開けて部屋を出た。頭のカツラをひきはがしながら歩き、カラオケボックスの受付にあったゴミ箱に叩きつけて店を出ると、僕は会社に向かって歩き出した。

 銀座四丁目の交差点で和光の時計台を見上げた時、突然喉元から猛烈な吐き気が駆け上がってきた。胃が震え、内臓全体が搾り上げられるような感覚だった。僕は口元を押さえて、どこかに吐き出せる場所がないか、あたりを見回した。だが、あたりは人であふれかえっていて、そうした適当な暗がりは見当たらなかった。あったとしてもそこまでは辿りつけない。何歩か歩いたら本当に我慢できなくなって腹の中のものをすべて吐き出してしまう。僕は口元を掌で押さえたまま交差点の前で立ち尽くした。

 何分かの時間が経ち、呼吸が落ち着いてくると、僕はよろよろ歩いて地下鉄銀座駅の入り口横のガードレールに腰かけた。深く息を吸い込んで、吐き出しながら顔を撫でると、肌がからからに乾いていた。

 ポケットから携帯電話を取り出し、ほとんど何も考えずにアドレス帳の一つの電話番号に電話を掛けた。涼子の番号だった。

 二回目のコールで涼子は電話に出た。

〈もしもし〉

「俺だよ。松山」

〈すげえ待ってたよ、一応。何やってんの〉

「ごめんな」

〈今どこにいるの〉

「四丁目の交差点。もうすぐ会社に戻る」

〈早く戻ってきなよ。一応話がしたいから〉

「今何時?」

〈22時過ぎたとこ。

 ねえ、これやべーわ、まじで。本格的に間に合わないかもしれない。なんかいろいろ理屈をこねて整合性つけてる暇がないわ〉

「いいよ。お前の好きなようにやればいい。明日は、お前のやりたいようにやればいい。

 俺も今から行く」

 僕がそう言うと、涼子は黙った。

 僕はもう一度、和光の時計台を見上げた。風が頬を撫で、シャツの袖をくぐって、体全体を冷やしていった。しかし、足に溜まった汗だけはいつまで経っても消えずにいて、靴下の中は焼けつくほど熱いままだった。

 涼子が小さな声で僕に訊いた。

〈あんた、何かあったでしょ?〉

「何もないよ」

〈嘘ばっかり〉

「本当だよ。別に何もないよ」

〈んなわけないでしょ。私、人間がこんなに暗い声で話すの初めて聴いたんだけど〉

「そんなの気にするなよ。今から戻るから。じゃあ」

 僕はそう言って電話を切った。

そして僕は歩き出した。

その時初めてはっきりと自覚した。これまで毎日それを考えない日はなかったが、今まではずっと漠然としていた。だが今、リアルな未来として、それが明確になった。

 これが最後の仕事で、今日が最後の夜だ。明日の朝、仕事は終わり、明日の夜には、僕はもうここにいないだろう。ここが俺の限界だ。これ以上、このありふれた物語に付き合うことはできない。どう考えても俺はこの物語の登場人物を演じきるだけの才能を持ち合わせていない。それがはっきり分かった。俺はほんの数か月前まで、自分は自分に嘘をついて生きていくことはできないと思っていた。でもそんなの嘘だ。俺は自分に嘘をついても平気で生きていける人間だった。土下座して、蹴飛ばされなければそんな簡単なことも分からないほど馬鹿だった。ただ環境を変えたくてここに来た。自分はどこに行っても生きていけると思っていた。もちろん大間違いだった。自分がどれだけ大切にしてきて、どれだけ一生懸命に続けてきたことも、自分を中心とした半径の、たった十メートルの風景が変わってしまえば、あっと言う間に無価値なものになり、忘れ去ってしまう。どれだけ強固だと思っていたものも、ほんの少し温度が変わり、ほんの少し光が遠ざかっただけで、一瞬のうちに自分から壊れていく。これ以上は後にも先にも行けない。だからもう辞める。行くところなんかどこにもないけど、どこへ行っても同じなら、少なくともここには居たくない。

僕はそう考えながら歩き続けた。吐き気が引いて行く。再び、汗が僕の体から噴き出して全身にまとわりつき始めた。


                   ☆


 8年前の文化祭、僕が書いた小説が演劇になって人々の前に初めて曝された時のことを、僕は漠然としか覚えていない。僕は書きかけの小説を3日間で完成させ、次の3日間で脚本として書きなおし、クラスメートたちに配った。彼らの反応は、率直に言って気の無いものだった。たぶん彼らが読みたいものが書かれていなかったのだろう。彼らが欲しかったのは、ラブストーリーか、殺人事件か、友情とか青春とかの分かりやすい物語だったのだと思う。だが僕にはそれが書けなかった。頭の中にあるぐちゃぐちゃした混沌としたものをそのままぶつけて文章にする、というやり方しかできなかったのだ。そういう物語は当然、ぐちゃぐちゃした混沌とした筋書きになり、ほとんどの人には理解できないということになる。

 だが、僕は自分でそうなることが分かっていたからクラスメート達にやめろと言ったのだ。僕は、今からでも遅くないと思って、別の出し物に切り替えた方がいいのではないかと提案したが、誰も聴く耳を持たなかった。文化祭はあと2週間後に迫っていて、今から別の企画を立てていたのではやっつけ仕事にしかならない。それなら、訳が分からなくても松山の演劇で松山の好きなようにやらせた方が格好がつく。誰もがそう考え、そして誰も理解できないまま物語は走り始めた。

 僕が書いた話は、簡単にまとめると次のようなものだった。

 少年がいて、少女がいる。舞台は海辺の町で、年に一度の祭りが開かれようとしている。町中総出の、一夜限りの祭りだ。そこではあらゆることが起こる。音楽も殺人も恋愛も全てが同時に起こって、群衆の中でもみくちゃになって泡のように消えていく。少年と少女はその群衆の中ですれ違う。お互いに名前もわからないし、顔も知らない。彼らは物語の最初にすれ違い、物語の最後に再会する。でもそのころには祭りは終わり、彼らは最初に出会った時のことを覚えていない。彼らは互いに気付くことなく、自分の家に帰っていく。

 僕はその物語のために、クラスメイト全員に台詞を用意した。そして僕が全てのキャストを決めた。この舞台では全員が話さなくては意味がないんだ、と僕は彼らに説明した。その時初めて迫力が出る。彼らはみんなそれを受け入れた。それどころか、最初の台詞合わせのときに、全員が自分の役の台詞を全て覚えていた。それは、何事にも無関心で、何かに対する責任感とか情熱とかを一切持たないようにしか見えなかった普段の彼らと比較すれば、驚くべきことだった。結局、物語が始まってしまえば彼らにとってはその意味が分かるとか分からないとかはどうでもよかったのだ。当時の僕にとってもそうだったように。練習は極めて順調に進んだ。

 その時、涼子は何をしていたのか? 何もしていなかった。少なくとも僕にはそう見えた。ただ一人彼女だけが練習に参加せず、放課後になるとすぐにどこかに行ってしまった。最初にこの企画が生まれたときに、手を挙げて演出監督に立候補したくせに、僕から脚本を受け取った途端まるっきりどこかに消え失せてしまった。結局、演出は僕が担当することになったが、それについて文句を言う者は誰もおらず、涼子のことなど誰も気に留めなかった。

 文化祭の前日、最後のリハーサルの準備をしていた時、誰かが僕の背中をつついた。涼子だった。僕が振り返って、何の用かと聞くと、彼女は、ちょっと付き合ってほしいと言った。今忙しい、と僕が言うと、涼子は、一瞬で済む、と答えた。

 僕は涼子に連れられて美術室に入った。その時僕は、意識せず声を上げた。美術室の壁一面を、青い混沌とした巨大な渦のような絵が覆っていたのだ。それは青い絵の具で埋め尽くされた海の絵だった。そしてその中には町があり、船があり、星々があった。ぐしゃぐしゃすぎて一見何が何だか分からなかったが、キャンバスをつなぎ合わせて作られたその巨大な絵は、近づくものを飲み込むような迫力に満ち満ちていた。

何だこれ、と僕はつぶやいた。舞台装置だ、と涼子は言った。

「これを背景に置いたらいいと思うんだけど、どう?」

 どうもこうもなかった。僕は小さな声で言った。

「イメージどおりだ」

 

 文化祭が終わり、クラス全員でカラオケボックスを貸し切りにした打ち上げの途中、ふとした時に僕と涼子は二人きりになった。体を冷ましたくて建物の外廊下に出ていると、涼子が手にグラス入りのジュースを二つ持って僕の隣にやってきた。彼女が差し出したグラスを頷いて受け取ると、僕は一気に飲み干した。深く息をついて目を閉じると、風が顔を撫で、クラスメイト達の歌声が聞こえてきた。あいつら本当に元気だな、と僕が隣りにいる涼子に言うと、涼子は黙ってうなずいた。そんな風にクラスメイトから離れた場所にいると、同じように劇では僕と涼子だけに役がなく、二人で並んで舞台袖で劇の行方を見守っていたこともあって、まだ舞台が終わらずに続いているような気がした。

「松山、いい話書くね」

「ありがとう」と僕は答えた。「杉山の絵もすげえ良かったよ。本当にびっくりした」

「松山は小説家になるの?」

「分からないけど小説は書き続ける」と僕は答えた。

「小説家になれるよ」

「ありがとう」と僕は答えた。「杉山は、画家になるの?」

 涼子は笑って答えなかった。僕は涼子が笑うのをその時初めて見た。

 カラオケボックスを出た後でも何事か大声で騒ぎながら、やがて皆それぞれの家路についた。僕たちは皆、手を振って別れた。彼ら全員が、ささやかで心地よい充実感に満たされていたのが僕には感じ取れた。僕自身もそんな感覚は初めてだった。自分が作った物語を誰かと共有する感覚だ。そしてそれは、本当にささやかで今にも消えてしまいそうな感覚だった。握りしめ続けようとしても、誰かにそれを話そうとしても、一瞬のうちに消えてしまうだろう。その時僕は、この世の中にこれ以上の物はないと思った。どれだけ小さくてもいいから、物語を作って、それを誰かに伝えられたら、それが最高のことだと僕は思った。心の底からそう思った。

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