第15話

 オフィスに戻ると、中島部長がデスクにいた。他にはだれもおらず、部長が電話に向かって怒鳴る声だけがオフィスに響いていた。僕が自分の席の椅子にジャケットを掛けたとき、中島部長の電話は終わり、睨むように僕を見た。

「何があった?」

 僕は口を開きかけ、そして何から話せばいいのか分からずにすぐに口を閉じた。中島部長と別れたのは午前中のことで、午後から起こったことは、今の僕にはとても短い文章にはまとめられない。

 僕が口を開いたり閉じたりしていると、中島部長が眉間にしわを寄せて、先に声を出した。

「今川から俺に電話があったぞ。予算表を作りなおせってな」

 僕はうなずいた。しかし、それが一体いつの、どんな話だったか、僕はすぐには思い出せなかった。僕は何度か頷き、そのうちに、あの恐ろしく暑かった津島町で、僕に予算を一億縮小するよう言い残してすたすたと立ち去って行った、今川の後ろ姿を思い出した。

 中島部長は眼鏡をはずし、鼻の付け根を軽く指で揉んだ。

「松山、お前コーヒー二つ淹れてこい」

「コーヒーですか?」

 この恐ろしく暑い夜に、と僕は思って訊き直した。

「いいから淹れてこい」

 僕は頷いて、オフィスの隅に置かれたコーヒーメーカーで二杯のコーヒーを注いで戻ってきた。中島部長はデスクの近くの小さな打ち合わせテーブルに就いていて、僕はテーブルの上にコーヒーを置いた。中島部長は僕に、座れ、と言った。

「とりあえず簡単に全部話せ。時間がかかってもいいから」

 僕は、はい、と言って頷いた。そして、自分の頭の中の焼き切れた神経を一つ一つたどった。

 クリエイティブの杉山と打ち合わせした後、提案準備のために津島町に行き、そこでたまたま今川に会った。そこで今川は現状予算の六億を五億にして再度予算表を作りなおすように通達してきた。期限は明日の9時のクリエイティブ提案と同時。会社に戻ってくるとプロモーション担当の神谷氏が仕事を降りると伝えてきた。くわしい理由は分からないが、山本とのトラブルらしい。その後大沢から呼び出され、先週印刷したチラシにミスがあったことが分かった。電話番号の間違いだった。悪いことには間違えた番号が実際に存在する番号で、神栄不動産あてにクレームがあった。大沢とともに先方に謝りに行った。

「大体こんなところです」

 僕が簡単に説明し、そう言い終えると、中島部長は僕をじっと見返した。僕には今の自分の説明で部長に状況が伝わったのかどうか、全く自信がなかった。

「なるほどな。むちゃくちゃだということはよく分かった」

「はい」

「今のお前の話だと、何が解決していて何がそうでないのかさっぱり分からんが、解決しているものが一つでもあるのか?」

 僕は首を横に振った。

「分かりません」

「だろうな。お前の仕事のやり方はむちゃくちゃだ。仕事になってねえよ」

「申し訳ありません」

「俺に謝ってどうすんだよ。悪いのはお前じゃなくて、全部をお前に押し付けた山本だろう。そんなことは俺にも分かってんだよ。

 だけど問題なのは、お前が一番重要なことを放置してるってことだ」

「アフリカ、ですか?」

「違う、そんなんじゃねえ。久保田玲だ」

 僕は首を横に振った。

「言い忘れたかもしれないですけど、久保田玲はNGだったんです。不動産広告には出ないって」

「聞いたよ。だけどそんなもん、外部のキャスティング会社に問い合わせて、タレント事務所に電話で聞かせただけだろ。真剣の直談判はそのキャスティング会社もやってねえ。お前も分かってるだろうけど、アフリカだろうが何だろうが、久保田玲を呼んで来れなけりゃどの道アウトだろうが。アフリカなんてどうにでもなるんだよ。所詮コンセプトなんて、単なる論理だ。論理は、状況や環境が変わればあっという間に消し飛ぶ。だけど久保田玲は違う。論理でも概念でもない。彼女を実際に呼んでくれば、全てが解決する。そしてそこが俺たちの生命線だろ? だったらそこは全力で気張るとこだろうが。無理なものは初めっから無理なのはわかってる。それでもどうにかするのが仕事だ。99%NGでも、1%の作業すらお前は怠ってる」

「どうすればいいんですか?」

「直接タレント事務所に行け。社内の電話帳システムで電話番号を調べて、携帯で鳴らしまくりながらな」

 僕は腕時計を見た。22時30分。

「まだ、誰か話を聞いてくれる人がいるでしょうか?」

「そんなの関係ねえよ。いようがいまいが、これ以上に他にやることあるのか?」

「杉山を一人にしてます」

「杉山?」

「クリエイティブの担当です。あいつ不動産広告なんて担当するの初めてなのに、一人で作業してるんですよ。誰も手伝ってくれる人がいないから、デザインもコピーも全部一人でやってるんですよ。僕もずっとあいつを一人にしてて、全く助けられてないんです。何の話もせずに、なにも固まらないままもうこんな時間になって、このままじゃ明日の9時までなんて間に合わせられっこない」

「だからお前が行ってどうにかなるのか?」

 中島部長はコーヒーを飲み干して、僕をじっとにらんだ。

「結局、クリエイティブの結論が出てねえのはそのせいだろうが。結局、お前は久保田玲で案を作れないとしたらそれ以外の誰かや何かでどう作るのか、はっきり決断してクリエイティブに指示できてねえんだろうが。杉山が制作に詰まってるんだとしたら、指針を出してやれないお前のせいだ。で、今のお前にそんなことができんのかよ」

 僕は、口を開いた。だが何も言えなかった。

「電話番号を間違えた件だけどな」と中島部長は言った。「気にするな。もう間違えなけりゃそれでいい。明日俺が行って改めてもう一度頭下げてくるから、お前はもう忘れていい」

 僕は曖昧に頷いた。

「いいか、久保田玲の事務所に行くんだ。行ったあとでどうするかは、お前が考えろ」


                  ☆


 タクシーに乗って、久保田玲の所属事務所がある表参道に向かいながら、僕は携帯電話を握りしめて、半永久的に続く呼び出し音を耳元に聴き続けていた。窓の外を通り過ぎていく東京の夜景を眺めると、真夜中が近いというのに、どの交差点もビジネスマンで埋め尽くされていた。七割は酒を飲んで帰る途中だが、三割はまだ働いている。ある者は半袖のシャツで、ある者はネクタイを締めてジャケット姿で、でもどちらにしても彼らが汗だくであることには変わりなかった。僕はこれまでに百万人くらいのスーツ姿の男とすれ違ってきたような気がする。もちろん、実際にすれ違ってきた。この世には恐ろしい数のビジネスマンがいて、それぞれに大なり小なり仕事を抱えている。誰も彼もがそれなりの悩みを抱え、罵倒されたり小突きまわされたりしながら働いている。僕は半年前までそれが理解できなかった。でも今は分かる。今僕の目に映る街では、どんな小さな物も、全て誰かが働いた結果、何らかの苦しみを経て生まれてきた。そうでなくてはこの世に存在しないものばかりなのだ。だが僕にはそれが、素晴らしいことなのか恐ろしいことなのか分からなかった。それらの小さな物たちが、必要なものなのかどうかが分からないからだ。

 誰も電話には出ない。百回コールしようと千回コールしようと変わらない。一万回コールすれば誰かが出るだろうが、その時はもう夜が明けている。それでも僕は久保田玲の事務所の電話を鳴らし続けた。それ以外にどうしたらいいのか全くアイデアがなかったからだ。

 やがてタクシーは、久保田玲が所属する「エトワールプロダクション」が入居する表参道のマンション前に着いた。運転手が僕に、ここでいいかと訊いてきた。僕は鳴らしっぱなしだった携帯電話を切り、頷いて、料金を払ってレシートを受け取り、車を降りた。

 目の前の建物は、レンガ風のタイルが外壁に貼られた、何の変哲もない十階建てのマンションだった。僕は風除室の自動ドアの前に立ち、煙草に火を点けた。あたりには人の気配は全くなく、遠くから蝉の鳴く声が聞こえてくるだけだった。煙を深く吸い込んで吐き出すと、その蝉の声も、街灯の光も遠ざかった。

 僕はふと気がついて、携帯電話を手に取った。そして午前中に話をした、キャスティング会社の人間の携帯に電話をかけた。なぜこんな簡単なことに気がつくのに時間がかかったのだろう。

 相手は五回目のコールで電話に出た。

〈もしもし、永田です〉

「三広の松山です。夜遅くに申し訳ありません。ご相談があってお電話しました」

〈はい、どうしましたか?〉

「今日は、久保田玲の件ではありがとうございました。その件で、改めてのお願いがあるんですが、聞いていただけますか」

〈なんですか〉と言って、永田は少し笑った。〈どうぞ〉

「久保田玲のマネージャーの携帯電話の番号を教えてください」

〈え?〉

「久保田玲じゃなくてもいいんです。同じ事務所の誰かなら、誰でもいいです。何なら社長の番号とかでもかまわないです」

〈どうしたんですか、ただ事じゃないみたいですけど〉

「彼女にどうしても、最後にもうひと押ししなくちゃならないことに気づいたんです。こんな時間で、急なお願いで、無茶だと思いますがどうか助けていただけませんか」

〈緊急事態というわけですね〉

「そうです、お願いします」

 永田は、しばらく黙った。僕は目を閉じて、早く教えろ、と念じた。

〈申し訳ありませんけど、番号は教えられません〉

「どうしてですか」

〈うちの商売は細かい信用の積み重ねの上に成り立ってるんです。勝手に携帯番号を教えたと知られたら、たとえそれがお得意の広告代理店だったとしても、たかが電話番号だとしても、うちの信用が失われかねません〉

「無理なのは初めっから無理だってわかってるんです。そこを何とか教えてくれませんか」

〈私から事務所の担当者に電話します〉

「え?」

〈私から久保田玲のマネージャーに電話して、松山さんの携帯に電話してもらうようにします。ぜひ松山さんにすぐに電話してほしいと、緊急の相談だということは強調して話しますから、それで容赦してください〉

 分かりました、と僕は言った。「ありがとうございます」

 どういたしまして、と言って永田は電話を切った。

 そしてまた静寂がやってきた。煙草の吸い過ぎで喉がねばついているのに気がつき、僕は近くの自動販売機でコカコーラを買った。それを一気に飲み干して、また煙草に火を点けた。額を撫で、指先を見つめると、汗はまだ止まっていなかった。

 僕は一粒の星も見えない夜空を見上げて考えた。電話はかかってくるだろうか? その可能性はどれくらいあるのだろうか。ゼロではないのかどうかさえ僕にはわからなかった。そして僕は何を話すのだろうか。誰にどう説明して、彼女の出演の許可をもらうつもりなのだろうか。どんな企画に登場させるのかを決めることもできていないし、考えてみれば、僕は今回のプロジェクトで彼女を使うために用意できる予算さえ把握していない。つい数時間前に六億円だった予算が五億円になったばかりだというのに、どこに数千万の費用を要するタレント契約費がねじ込まれる余地があるのだろうか? 一つも答えはないし、保証もない。それが今に始まったことではないということだけが唯一の救いだった。

 再び煙草に火を点けた。胃が大音量で悲鳴を上げるほど腹が減っているのに気がついたが、全く食欲はなかった。近くのコンビニを探して歩く気力もなかった。

 携帯電話は相変わらず押し黙っている。僕は明かりの消えた液晶画面をじっと見つめて、長い時間煙草を吸い続けた。


                   ☆


 掌の携帯電話が振動したのは、ラッキーストライクの最後の一本に火を点けた直後だった。僕はその時半分以上、立ったまま眠りに落ちていた。自動的に煙草の煙を吸って吐く機能だけが体に残っていたのだ。

 着信表示の番号は、僕の知らない番号だった。僕は反射的に左手首の腕時計を見た。午前1時12分。まともな人間の働いている時間じゃない。普通なら相手は酔っ払っているか、寝床に就いているか、あるいは寝る支度をしているところだ。僕はそう考えながら電話に出た。

「もしもし、三広の松山です」

〈こんばんは。エトワールプロの森崎です〉

 その声は、まるでパチンコ屋のど真ん中のような喧騒の向こうから聞こえてきた。背後で大音量の音楽が鳴り響いていて、かすかにしか声が届いてこない。

 僕は携帯電話を左耳に押し付け、右耳を指でふさいで、叫ぶように言った。

「夜分遅くにお電話ありがとうございます」

〈ご用があるそうですね。永田さんに聞きました〉

「はい。こんな時間で本当に申し訳ないのですが、ぜひお願いしたいことがあります」

〈で、なんですか。そのご用件というのは〉

「はい、端的になりますが、とあるプロジェクトの広告宣伝のために、久保田玲さんをキャラクターにして、提案したいんです」

〈すみません、よく聞き取れなかった。もう一度言っていただけませんか〉

「久保田玲さんをクライアントに提案したいんです」

〈何かと思えば、こんな時間にそんなご相談なんですか〉

「それについては本当に申し訳ありません。大変ご迷惑とは重々承知しています。ですけど是非一度相談に乗っていただきたいんです」

〈相談に乗る? ここで、この電話で、ですか〉

「可能なら、ぜひ」

〈しかし、申し訳ないが、そういった話は私に決裁権があるわけでもない。私はただのマネージャーです。今ここでお電話でどうこうお話ししたところで結論が出せるわけもない。それはおわかりいただけますか?〉

「そこを何とかお願いします。全てのオーケーをこのお電話でもらおうなんてもちろん思っていません。提案は明日の朝9時になるので、提案する許可だけでもいただきたいんです」

〈勝手に提案すればいいでしょう。明日、企画書を事務所に持ってきていただければ、オーケーかどうかすぐに判断できますから〉

「それでは意味がないんです。企画内容を見なければ判断ができないというのはよくわかります。ただ、何とかお願いしたいのは、マンション広告がNGだという前提をどうにか覆して――」

〈マンション広告? そりゃNGですよ。話すまでもないじゃないですか〉

「NG?」

〈そうです、NGです〉

 僕は反射的にため息をつきそうになる寸前でこらえた。

 やっぱりそうだ。一瞬で判断がつく話なのだ。そんなことは電話をする前から分かっていた。それをどうにかひっくり返すために連絡を取ったが、そうするための手段や方法など全く分からないまま電話をしたのだから、結局当たり前の返答が返ってきた。

 無謀で無策としか言いようがない。僕は言葉に詰まった。電話口の向こうから大音量の音楽が聞こえ続けている。またアンダーワールドの曲だ。90年代のとあるイギリス映画の主題歌になった曲で、それは大した映画ではない。時代やらファッションやら、そういう曖昧な流れのようなものに追従して出来上がった、とくに中身の無い映画だ。それに耳を傾けていると、腹の底から怒りが湧き上がってきた。

 説明不能な怒りだった。

「どうしてNGなんですか?」

〈どうしてって何がですか?〉

「何でマンション広告はだめなんですか? お菓子や清涼飲料の広告はOKで、どうしてマンションはだめなんですか? 私には分からないんです」

〈そういうお話は、明日しましょう。ただ、初めに言ってください、不動産広告だなんて重要なことは。だから明日お話ししたところで無駄だと思いますが〉

「そうじゃありません。重要なことはこれが数千万円のビジネスの話だということです。不動産広告かどうかなんてことは、それに比べたら重要じゃない。それこそどうしてあなたが一存でNGだと言えるんですか?」

〈時間の無駄だからですよ。失礼だが我々の仕事をよくご存じでないようだ。この世界はイメージが最も重要なんです。答えはそれだけです。社長の判断も本人の判断も必要ないくらいそれは明白です〉

「私はそうは思いません。直接話していただける価値はあると思います」

〈残念ですけど水掛け論にしかならなそうです。後日もう少し落ち着いた時間と場所でお話ししましょう。そして失礼ですが、あなたはもう少し代理店のお仕事の経験を積んだほうがいいでしょう〉

 僕が大声で返事をしようとしたとき、電話は切れた。僕は耳にへばりついた携帯電話を剥がし、終話になってツーツーと鳴る液晶画面を見つめた。もう一度耳にそれを当てても、もちろんその音は何も変わらなかった。

 さっきまで耳元で鳴り響いていた凄まじい喧騒と対照的な沈黙だった。僕はそれに耳を傾け続けたが、やがてゆっくりと電話を耳から離し、通話を解除した。

 そしてリダイヤル画面を呼び出して、そこに現れた番号を見つめた。ポケットからラッキーストライクの箱を取り出して振ったが、一本も残っていなかった。鞄の中の煙草は、キャビンスーパーマイルドもマルボロメンソールも全て吸いつくして弾切れだった。僕は指先を唇に触れさせて深呼吸しながら、液晶画面の番号を見つめた。

ここにコールすればもう一度話すことができるだろうか、と僕は考えた。もちろん、その確率は考えるまでもなくゼロパーセントだ。彼が僕からの電話に出るはずはない。僕は意味の無い喧嘩を彼に売った。僕から彼に話をしようとしたところで、今後一切交渉になどなりようがない。そして、僕から何か話すことがこれ以上あるわけでもない。僕の手持ちのカードには印付きのブタが含まれていて、相手が僕からそれを引き抜くことは絶対にない。

 全身から力が抜けていくのが分かった。

 帰ろう、そう自分に言い聞かせた。最善を尽くしたかどうかはともかく、どう考えても僕にはこれ以上どうしようもない。

 僕はマンションの外壁にもたれかかっていた体を立て直した。関節がきしんで、筋肉がドロドロになったような感覚がして、体がうまく動かなかった。目の前の道路の向こうからタクシーのヘッドライトが近づいてきて、僕は手を揚げた。タクシーが僕の目の前に停まり、後部座席に腰を落ち着けると、瞬間的に全身から力が抜けた。1分もしないうちに眠気がやってくるだろう。

「お客さん、どちらまで行かれますか?」

 タクシーの運転手がそう聞いてきた。会社のある銀座の住所を答えようとして、僕は止めた。何故止めたのか、実際に行き先を口に出すまで自分でも分からなかった。

「六本木まで」

「分かりました。六本木の交差点でいいですか?」

 僕は頷いた。

 そしてタクシーは六本木に向かって走り出した。僕は窓の外の動き出した風景を眺めた。暗闇で、ほとんど何も見えなくなりかけている。何故六本木なのか、と僕は自分に訊いた。

 だがそう訊いたときには、馬鹿げた問いだとしか思えなかった。

 だって俺が行くところは六本木しかないじゃないか。

 自分の頭の中から何かが聞こえた。それはたった今現れた音ではない。さっきからずっと頭の中で響き続けていた音が、脳から遡って鼓膜に伝わり、また内側に跳ね返ってきて、ようやくそれが音だと分かった。それが巨大な爆発音なのか、微かな振動なのか僕には分からなかった。僕に分かったのは、それが音楽だということだけだった。それが、昔からずっと聞き慣れている音楽であり、それでいて懐かしい音楽ではないということだけだった。それは六本木から聞こえてくる。

 そうだ、六本木だ。さっき、電話先で流れていたあの音楽。アンダーワールドの音楽が流れていたあの店だ。僕がヤクザに土下座したあの店だ。彼はそこにいる。

 僕はそう思った。それはごく僅かな閃きで、次に瞬きしたときには、もう消えていた。だが、僕の右耳と左耳の間をえぐって走り抜けた。

 消えてしまえばそれは直感でも何でもなかった。ただの妄想で、僕という溺れる者の藁にすぎない。東京中に今夜、アンダーワールドの音楽を流している店は一体いくつ存在するか知れない。それは確率の問題ですらなく、論理ですらない符合だ。それは自分で良く分かっていた。

 だがそんなことはどうでもよかった。僕は確認したかっただけだ。家を出るときに煙草を消し忘れていないかどうか確認するように、そこに何もないと分かっていても念のために確認するだけだ。だから別に何も考える必要はない。いるかいないかを確認して、そうしたら本当に帰ればいい。

 六本木の交差点でタクシーから降りた時、体に何の疲れも、緊張も感じなかった。六本木の町はまだ少しも眠りに落ちる気配がない。しかしその光も目に入らなかった。数時間前に訪れたビルのエレベーターに乗り、最上階で降りると、まだアンダーワールドの音楽が聞こえていた。受付の男に、エトワールプロの森崎さんの名前で席を取っていて、遅れて来た、と告げた。受付の男は、胸元のインカムにぼそぼそと何かしゃべると、無表情で僕を案内して歩き出した。

 店の奥の個室まで僕は通された。ドアを開いて中に入ると、音楽が少し遠ざかる。照明も外より少し薄暗い。椅子やテーブルや壁の装飾やその他調度品のレベルが、外よりも一段上の物ばかりのその部屋には、三人の男と一人の女がいた。彼らは大声で笑い合っていたが、僕の存在に気がつくとそれを止めて、僕を見上げた。三人の男の顔を、僕は一人も知らなかった。男のうち二人は中年で、どちらも薄暗闇の中で僅かな光を増幅して反射するようなブラックスーツを着ていて、もう一人の男は二人よりも若く、簡単なジャケットパンツの服装だった。おそらく彼が先ほど電話で話をした森崎だった。そして四人目は、恐ろしく顔の小さい女だった。ミニスカートから異様に白く長い脚が伸びている。首もとでパールのネックレスが輝いている。僕を見る目は、縮尺を間違えたのではないかと思うほど巨大だった。それが誰なのか、僕には見間違いようがなかった。僕は自分が正しかったことを知った。

 その女は久保田玲だった。

「誰だ?」

 誰かが僕にそう訊いた。だが僕は誰がそう問いかけてきたのか、その声がどこから聞こえてきたのか、全く分からなかった。

 僕の目は彼女の瞳に吸い寄せられて離れなかった。ただ巨大なだけの目ではなく、それ自体が発光しているのではないかと思うほど輝いていた。そして、彼女の体全体から名状しがたい波動のようなものが伝わってきた。それは世の中の男も女も惹きつけ、惹きつけるたびに自分自身に蓄積されて増幅する力だ。彼女は僕とは全く別種の生命体のように見えた。

 もちろん、実際にその通りだ。

「誰だ?」

 もう一度同じ声が聞こえた。僕はようやく彼女の目から視線を離して、声がした方に振りむいた。顎髭を生やした中年の男が僕を睨みつけていた。僕は男の顔をじっと見つめた。

「はじめまして。突然お邪魔いたしまして、大変失礼いたします。私は三広の松山といいます」

「三広の松山?」

 隣りの若い男がそう言った。電話で聞いたのと同じ声だった。やはり彼が森崎だった。僕は彼に向って会釈した。

「はい、松山です。森崎さん、先ほどは失礼いたしました」

「森崎くん、知り合いか?」

 顎髭の男が森崎にそう訊いた。森崎は曖昧に頷いた。そして眉間にしわを寄せて、僕を睨んだ。

「何しに来たんです?」

「先ほどのお話の続きをしに来ました」

「その話はもう終わったはずです」

 森崎はそう言いながら立ち上がろうとした。だが僕がそれより早く、彼に向って掌を突き出すと、彼の動きは止まった。

「まだ終わっていません。電話だけで終わるような、簡単なお話じゃない」

 そして僕は森崎を無視し、中年の男二人の方に向き直った。二人のうちのどちらかが事務所の決裁者であることを願いながら。

「こんな夜分遅くに、しかも宴席の場に突然お邪魔し、大変申し訳ありません。しかしどうしても、折り入ってご相談したいことがあってお伺いしました」

 僕はそう言って二人の男の顔を交互に見た。僕をずっと睨みつけている髭面の男と、動じた風もなくまだ一声も発していない、丸く太った男の顔を。

僕は一瞬迷った後で、太った男の顔だけを見て話し続けることにした。

「明日の午前9時、今から約7時間後に、新宿で大規模な広告プレゼンがあります。それは、一つの街の風景を根底から変える、巨大な広告計画です。

 私たちは今、必勝態勢でそのプレの準備を進めています。もう引き返すことはできない、絶対に負けるわけにはいかないプレゼンです。プロジェクトの概算広告費は六億。ですが、大きいのはその金額だけじゃありません。最も重要なのは、このプレゼンが客先と我々との信頼関係を継続できるかどうかを大きく左右するということです。このプレに失敗すれば、私たちは今後客先から発注を受けることはないでしょう。それによって受けるダメージは計り知れません。私たちは今、そういう瀬戸際に立っています」

 僕の声は、店内に響く音楽を通り抜けて、個室の中で自分でも驚くほどはっきりと聞こえた。視界の隅で、久保田玲も僕を見ているのが分かった。巨大で、何を考えているのか全く分からない眼だった。僕は不思議だった。何故僕はあっという間に森崎か髭面の男に胸倉を掴まれて追い出されないのか。あるいは何故、彼らに店員が呼ばれて僕を締め出さないのか。最も不思議だったのは、今僕が喋るのを誰も邪魔することはできないと、僕が確信していることだった。

「ですが今、そのプレゼンの準備を進める中で、どうしても足りないものがあります。

 私たちの提案の中には、まだ、今回のプロジェクトを代表するアイコンが欠けているのです。それは絶対的にクライアントから求められており、このプロジェクトを成功させるために決して欠くことができないものです。

 私たちが求めているのは、そちらにいらっしゃる久保田玲さんです。

 私たちが掲げる広告コンセプトに、久保田さんほど合致した方はいません。若く美しく、老若男女誰からも愛され、もちろん客先にも愛されていることがすでに分かっています。久保田さんさえいらっしゃれば、私たちは明日のプレゼンに間違いなく勝利できる。

 そのために、ぜひとも私たちに力を貸してほしいんです」

 僕は四人を見渡し、表情を確認した。森崎は口を半開きにして、髭面の男は口髭に手を当てて、太った男と僕の顔を交互に見ていた。久保田玲は感情の読みとれない眼で僕を見続けている。太った男が僕に言った。

「それで、それはどんなプロジェクトなんですか?」

 僕は微笑んだ。そして胸を張った。

「プロジェクト・アフリカ」

「プロジェクト・アフリカ? それはどういうものなんですか?」

「新しい街を創造する計画です。事業主は神栄不動産。今回建設される県下最大のマンションを中心にして、その街に新たな価値、アフリカという価値を付加するのです。

 その街は、豊かな自然に囲まれていながら、都心まで近しい距離にあります。この街は、若い夫婦や、小さな子どもたちが住み、これから発展していく街です。美しく、空が広く、空気が澄んだ、若い人々が住むのにうってつけの街です。駅周辺にはショッピング施設も充実しているし、インフラも十分整っている。しかし正直に言って今は、この街には住む人が誇りに思える象徴となるものがない。それは一生の買い物をするときに、絶対的に必要なものです。人が買い物をする時に、それを買うかどうか決めさせるのは財布の中の札の枚数じゃありません。お金を払うかどうかを決めるのは、それを買うことによって買う前よりも幸福になれるという夢があるかどうかです。そして、どんなお題目も、夢も、形になったものが目の前に見えなければリアリティを持ちません。

 私たちの仕事はそれを作り上げることです。とても重要な仕事です。それに力を貸していただきたいんです」

 僕は胸を張ったまま、その場に膝を突いた。そして太った男の顔をじっと見つめた。

「どうかお願いします」

 僕はそう言った。だが頭は下げなかった。太った男がかすかに頷いた。

「つまり、マンションの広告キャラクターに久保田玲を使いたいというわけだ」

「その通りです」

「あなたがさっき言った予算の金額で、あなたが夢に描いているようなことができるのかな?」

「全力を尽くします」

「だが分からないのは、アフリカというのが何なのかということです。私が思うに、一般的に人々がアフリカと聞いて思い浮かべるのは、未開の地、灼熱の大地、サバンナと言った、およそ都市生活にはそぐわないイメージのような気がします。そのコンセプト自体が魅力的なものなのかどうかがよく分からない。アフリカという価値を付加すると言っても、それが価値になるんですか?」

 太った男は考え込むようにそう言った。だがそれが当たり前だ。何故アフリカなのか、誰にもそれは分からない。僕や涼子はもちろん、今川も大沢も分かっているかどうか疑わしい。

 しかしそんなことは今の僕には何の関係もない。アフリカが一体何であろうと、それに魅力があろうとなかろうと、僕が理解していようといまいと、一切構わない。僕は息を吸い込んだ。

「問題は」、そう僕は言った、「問題は、既存のアフリカというイメージに価値があるかどうかではありません。出来上がったアフリカが魅力的に見えるかどうかです。神栄不動産は現実のアフリカを再現しようとしているのではなく、アフリカのエッセンスを建設計画に抽出しようとしているのです。そして私たちは、そのための広告提案の準備をしているだけです」

 太った男はゆっくりと頷いた。

「分かりました」と彼は言った、「実際に提案を見ないことにはどういうものかは分からないということですね。そしてそれはここにはない。正直言って私には良く分かりません。媒体が何になるのかは決まっているんですか? テレビCMか新聞か、Webか、どういったものに使われる予定なのか」

「まだ決定していません。ただ、今おっしゃったような媒体を提案する予定です」

 もちろん嘘だ。テレビや新聞を使うような予算は無い。久保田玲はチラシとDMにしか登場しない。

「そして何よりも問題は、マンション広告だということだ。ウチのタレントはマンション広告には出さないことにしているんです。申し訳ないが」

「そこを何とかお願いします。森崎さんにもお願いしたことですが、ここで完全な出演許可をいただきたいわけではありません。OKをいただくかどうかは、提案を見ていただいた後でいい。明日の9時の提案時に、私たちが神栄不動産に対して、『企画次第では出演OK』だと説明できればいいんです。そして皆さんにはプレゼンが終わったら、すぐにその企画をお持ちします」

「しかしそれには何の意味もない」と太った男は言った。「たとえば今私が、『企画次第でOKかどうか決める』と答えるとします。しかし内心では私はすでに断ると決めている。その結果、あなた方が折角プレゼンした企画はすべて、結局のところ崩壊する。

 もう結論は出ている。それを知っていながら私と口裏合わせだけをしてお客さんに提案を持っていくのは、モラルに反してはいませんか」

 僕は答えようとした。だが、突然声が出なくなった。

 太った男の言うとおりだったからだ。

「モラルに反している?」僕は小さな声でそう訊き返した。

「つまり、広告代理店の仕事として、それが許されるのかどうかということです。企画として成立しないことが既に分かっているのに、それを売り物としてお客さんのところに持っていく行為は、簡単に言ってしまえば、その場しのぎの誤魔化しでしかないのではないかということです」

「でもそうではないかもしれない。企画を実際に見てもらえれば」

「いいえ、そうですよ。私の答えは変わりありません」

 何か言わなくてはならない、と僕は思った。

僕は何度も息を飲んで、吐き出した。しかしそうしていても、急速に自分の中のイメージがしぼんでいくのを感じるだけだった。森崎も、髭の男も、太った男も、久保田玲も僕を見下ろしていた。息を何度か飲み込めば、そのうちに言葉が頭の中に浮かんでくるかもしれないと期待していたが、僕の言葉は品切れだった。

「それでもお願いしたいんです」

 そう言うのが精いっぱいだった。そして目前の四人の顔を見渡した。だが表情は良く分からなかった。四人に表情がないのではなく、僕の視界がかすんで良く見えないのだ。追い込まれると僕はいつもそうだ。自分自身から自分が遠ざかり、眠気がやってくる。背後の個室の外で、マイ・ブラッディ・バレンタインの音楽とも騒音ともつかないノイズが響き渡るのが聞こえてきたが、それは僕の頭の中に、次に紡ぐ言葉を導くための何のイメージももたらさなかった。昔は一つの曲があれば、そこからいくらでも自分の言葉を引き出してくることができた。だが今は、僕が話さなくてはならないことと音楽の間に隔たりがありすぎて、何の役にも立たない。

 誰も何も言わなかった。僕が続けて何か言うのを待っているのだ、と僕は思った。だが何を言えばいいのだろう。主張はすでに破綻している。僕が言えるのはもう一度はじめから同じ言葉を繰り返すことだけで、それなら黙っている方がましだ。論理が駄目なら、感情に訴えるしかない。そう思った時、僕は気が付いた。

 僕は四人の顔を見渡した。彼らは僕がしゃべることを待ってなんかいない。

 彼らは僕が土下座するのを待っているのだ。

 僕はそう思った。頭の中に思い浮かぶその映像は、どことなく宗教的な儀式のように見えた。息を吸ったり吐いたりしている僕に、その気付きはぴったり嵌った。あたりに立ち込めるムードと沈黙が、あつらえたようにふさわしい間合いでそれを待ち構えているように思えた。それが唯一の道のように、それも救いの道であるように僕には見えた。論理でどうにもならないなら、論理を超えた行為でどうにかするしかない。それは最後の夜の最後の仕事にふさわしい行為のように思える。そうすれば僕は全てをやりきったことになる。

 もちろん土下座したところで状況は変わらないだろう。頭一つで事情を変えることができるほど、僕の土下座に価値があるわけがない。しかし僕がやったことは、ルールを逸脱する行為だった。真夜中に飲み会の席に突然乱入して一方的に仕事の話をした。それを代償する行為が必要だった。そしてなにより、その行為によってゼロパーセントが1パーセントに変化する可能性がある。今は夜中の1時半で、僕には金もコネもなく、交渉力も全くない。プレゼンは目前に迫っていて、それを成功に導く術はごく限られている。目の前にそれがある。

 僕は手を床につき、ゆっくりと頭を下げようとした。

だが、体が動かなかった。手は膝の上に置かれたままで、頭はぴくりとも動かなかった。

 土下座しろ、と僕は自分に言い聞かせた。

 僕は小さく首を横に振った。

 どうしてもそれ以上体が動かなかった。

「是非、明日の企画書を見てから検討していただきたい」

 僕はそう言った。太った男は表情を変えずに僕を見た。

「分かりました」

 彼はそう言った。諦めたような響きだった。

「明日企画書を見ましょう。お約束できるのはそれだけです。森崎に連絡をください。お得意先にどうお話をするかは、あなたにお任せします。今日のところはそれでお帰りなさい」

 僕は、かすれた声で、ありがとうございます、と言った。そして立ち上がろうとしたが、足がしびれていてよろけた。壁に手を突き、体勢を立て直して四人に向かって一礼した。

 僕がジャケットの内ポケットから名刺を取り出して差し出すと、太った男も名刺を返した。「エトワールプロダクション 代表取締役社長 篠崎 亮一」

髭の男は微動だにしなかったので、あとは森崎とだけ名刺を交換した。立ち去る前に、僕は久保田玲の顔を見た。彼女は僕に小さく会釈した。僕は微笑んだ。

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