第16話

 タクシーに乗り込んですぐ、僕は涼子に電話した。短い電話だった。

 久保田玲の客先への提案がOKになった。実際に出演がOKかどうかは、提案次第だ。

 分かった、と涼子は言った。お疲れ様、ありがとう。

 僕は頷いて、電話を切った。

 会社に戻った時、時計の針は午前2時を回っていた。オフィスの中には誰もいない。山本も、部長もいなかった。僕は自席に座り込んで、ゆっくりと深呼吸した。時計の針の音が遠くから聞こえる。それ以外には何の音もしない。僕は顔を両手でおおい、何度もぬぐった。つま先から髪の先端まで、疲れが全身を貫いていた。僕は誰かに電話をしなくてはならなかった。だが、誰に、何を、どう話すのか、頭の中で一繋がりになるものがなく、何十通りもの言葉とそれを話す相手の組み合わせが現れて、消えていった。

 僕がぐったりと俯いているうちに、机の上に投げ出した携帯電話が振動した。この携帯電話は一度も音を鳴らしたことがないな、とその時気が付いた。常にマナーモードで、ノンマナーであったことが一度もない。

受話ボタンを押して、もしもし、と呟くように言った。

〈中島だ。松山か?〉

 はい、松山です、お疲れ様です、と僕は言った。

〈会社に戻ってきたのか?〉

「はい。久保田玲の事務所の社長に会って話してきました」

〈それで何だって?〉

「企画を見てから決めるそうです」

〈そうか〉と中島部長は言った〈良くやったな〉

 僕は首を横に振った。

「でも結局はNGかもしれません。7時間しか持たない命が12時間になるだけかもしれません」

〈代理店の仕事は算数じゃねえよ。そこで増えるのは5時間だけじゃない。それが出入り禁止になるかどうかの境目になるかもしれない。クリエイティブにはもう伝えたのか?〉

「はい」

〈山本は会社にいるのか?〉

「いません。どこにいるのか、まだ連絡を取ってません」

〈そうか、分かった。俺が捕まえる〉

「分かりました」

〈それで、悪いけどな、俺はまだ会社に戻れない。明日の渋谷のプレゼンで、こっちも嵌っちまってるんだ。こっちは、お前らのプロジェクトと違って、営業が俺しかいないから、抜けられないんだ〉

「そうですか」

〈だから基本的には、後はお前がやるしかない。俺とか山本のこととかは忘れてお前の思ったとおりにやれ。三ヶ月間でお前が学んだことが少しでもあるなら、それを精一杯思い出してやれ。お前に任せる。俺も朝までには帰るから、最後のクリエイティブチェックは一緒にやろう〉

 僕は首を横に振った。

「分かりました。でも、どうしてもできないことが残ってます」

〈何だ?〉

「予算を六億から五億に縮めた予算表です。明日の9時にクリエイティブ案と一緒に提出しなくちゃならないと言われてますけど、僕一人じゃとても作れません。どこをどう削ればいいのか。情けないですけど、僕はチラシ一枚の原価も正確には知らないんです」

 中島部長はしばらく沈黙した。

〈分かった。それは山本にやらせる。もし山本が捕まらなければ、俺は5時までにそっちに戻る。そこから一気に二人で作ろう〉

 僕は分かりました、と言った。そう言うしかなかった。

〈頑張れよ。別に死ぬわけじゃない〉

 中島部長はそう言って電話を切った。

 僕は携帯電話を充電機にセットして、立ち上がった。涼子のところに行って、直接打ち合わせをしなくてはならなかった。僕はまだ彼女と、1分たりとも明日の具体的な提案についての話ができていない。

 数歩も歩かないうちに、僕は立ち止った。背後で電話の着信音が鳴り響いた。

 振り返ると、それは自分のデスクに置かれた固定電話が発する音だった。誰もいないオフィスの中で、四方の壁に突き刺さるような勢いで鳴り続けていた。

受話器を手に取り、「はい、三広です」と僕は答えた。

〈もしもし、松山さんはいらっしゃいますか?〉

「私が松山ですが」

〈ああ、松山さん、ステップワークの島田です。お世話になっております〉

 茨城弁なまりの声だった。

「はい、お世話様です」

 僕はそう答えながら、誰だ、と思った。電話先で話している相手の声にも名前にも、全く覚えがなかった。

〈今日のお昼に発送取りやめしたDMの件なんですけどねえ。その件でご相談がありまして〉

「はい」と僕は答えた。DM? 何のことだ? しかもこんな時間に。

〈『徒歩5年、築1分』て、書いちゃってたDMですけどね、あれねえ、全部発送取りやめたはずだったんだけどね、ちょっとね、間違えてもう発送しちゃった奴があってね〉

 突然、相手の声が聞こえなくなった。電波状況が悪くなったわけではない。脳内に一気に記憶が噴き出して、あふれかえって耳の穴までふさいだからだ。

 思い出した。彼はDM発送代行業者の島田さんだ。12時間ほど前、僕は彼と一緒に、発送寸前だったDM5000通をぎりぎりで食い止めた。

徒歩5年、築1分。

〈もしもし、聞こえてますか?〉

「聞こえてますよ」、僕は声を張り上げていた。「ところで、今何て言いました? もう一回言ってください」

〈だからね、申し訳ないんだけど、一部DMを配っちゃったんですよ。申し訳ないんですけどねえ〉

「何でですか?」

〈なんでって言われても、本当に申し訳ないんですけどねえ、配っちゃったんですよ。ほら、あれ5000通のうち、1000は郵送じゃなくてポストに直接投げ込みの投函分だったでしょう。その分の一部がねえ、回収しきれてなくて今日の夕方に配っちゃったんですよ〉

「何でですか?」

〈だからねえ、申し訳ないんだけど私の指示が行き届かなかったとしか言いようがないよねえ。お伝えしなきゃならんと思って、何回も松山さんに電話したんだけど、ずっとお電話に出られなかったからねえ、だからこんな時間になって申し訳ないんだけど、それだけは諦めてもらえないですかねえ?〉

 島田さんはそう言った。悲しげな声だった。夏に雨が降りすぎたために、秋を迎える前に不作が決まった農家のような諦念に満ちた声だった。

「駄目です」

 僕はそう言った。そう、きっぱりと言わざるを得なかった。12時間前、僕は客先から念を押されていた、一通たりとも発送はされていないんでしょうね、と。僕は、間違いなく一通たりとも、と答えた。そして客は言った。発送されていなければ今回の費用は折半ですが、もし一通でも発送されていたら、全額負担してもらいます。

 僕は今更その金額を計算する気にはなれなかった。

「回収してください。何としてでも。今から客先に事情を説明するには時間が遅すぎる。どうにか方法を考えてください」

〈考えるって言ったってねえ。もう多分、全部ポストに投函されちゃってるからねえ〉

「ポストに入ってるなら、ポストから抜いてこればいいでしょう」

 僕は反射的にそう言った。

〈え?〉

「投函は夕方から夜にかけてやったんでしょう。それなら、まだポストに投げ込んだDMが、家の人が気付かずに挟まったままの可能性が高い。今から全部の家をもう一度回って、回収してこればいいんです」

〈無茶言わないでください。何軒あると思ってるんですか?〉

「そうです。何軒に投函したんですか? 1000部全てじゃないでしょう。投函したDMは1000部のうち何部ですか?」

〈そうですねえ。2、300ですねえ〉

「それじゃあ」と言って、僕は計算した。「一軒につき15秒かけたとしても、1時間程度で回収しきれる。申し訳ないけど、やってやれないことじゃないと思います」

〈それが無理なんですわ〉

「どうして?」

〈私、一昨日から腰痛めちゃってて。医者から肉体労働禁止されてるんですわ。もうほんとに、立ってると腰が痛くてどうしようもなくって。社員もこの時間だから流石に捕まらないし。無理なんですわ〉

 僕は眉間を指で抑えた。目を強く閉じ、深いため息をついた。

「じゃあ僕が行きます」

〈え?〉

「僕が行きます。運搬用の車ぐらいはあるでしょう? 現場まで行けば、僕がポストからDMを200通引っ張り出します。何なら車の運転もします。とにかく現場まで案内してください」


                  ☆


 僕は狂っているのだろうか? 今日何度目かのタクシーの中で、僕は自分にそう尋ねた。しかし、馬鹿げた質問だった。どう考えたって狂っているに決まっている。問題は、軽く狂っているだけなのか、完全に狂っているのかが自分で全く分からないということだ。

 僕は腕時計を見た。午前2時半。3時までに現地に辿り着いて、1時間半でDMを回収しきれば5時までに会社に戻れる。その頃ちょうど部長も戻ってくる。そこで僕たちは、項目数が二百に及ぶ予算表を一億円縮むように作り直し、涼子が作るクリエイティブ提案のチェックをして、企画書を十セットほど簡易製本して、8時半までにタクシーに乗って新宿に向かう。それでぎりぎり9時の提案に間に合う。

 理屈はそれで間に合う。しかしその過程で必要な作業は、僕にとってはまるっきりブラックボックスだ。自分では判断することも作り出すこともできない物事ばかりなのだから、そのスケジュールは僕にとって、九回の裏の打席に向かう三打席連続三振中のバッターに、満塁ホームランを打てば逆転できるぞ、と告げているのと同じことだ。それは単なる事実で、論理的にも実際的にも何の光明でもない。ただの現実逃避だ。実際には、取り返しのつかないほど全てが破綻している。部長は山本に予算表を直させると言っていたが、そんなことが実現するとは僕には思えない。今頃はどこかの店で泥酔しきっているだろうし、万が一会社に戻ってきたとしても、僕にその仕事を放り渡すだけだ。それに、部長が5時に帰ってくるかどうかも実際には分からないし、僕自身だってこの作業がそれまでに終わって戻れるかどうかは分からない。残っているのは涼子だけだ。僕は涼子に電話しようかどうか考えて、結局携帯電話をポケットに戻した。彼女の作業の何の助けにもならないなら、何をどう話していいのか分からなかった。

 住宅街に入る道との交差点の前でタクシーを降りると、ワゴン車の横で初老の男が僕を待っていた。島田さんですか、と声をかけると、そうです、と茨城弁なまりの返事が返ってきた。島田さんが胸元から名刺を差し出した。実際に顔を合わせるのは初めてだったのだ。僕は名刺を受け取り、申し訳ないですが名刺を切らしていて、と嘘をついた。内ポケットから名刺入れを取り出して交換する作業を頭に思い浮かべるだけで苦痛だった。

「場所はこのあたりですか?」

 僕はそう言って、どれも同じ造りの家々が並ぶ、目の前の道を指し示した。

「そうです、詳しくは地図で見ましょう」

 そう島田さんは言って、腰をかばうような足取りでワゴン車の運転席に向かった。本当に、立っているのも辛そうだった。僕が助手席から車に乗り込むと、島田さんは膝の上に地図を広げた。僕は車内灯で照らされた地図を覗き込んだ。地図は網目のようになった赤い線で覆い尽くされていて、無数の区画に分けられている。島田さんはその一つの個所に鉛筆で斜線を引いた。

「この区画がそうです。配っちまったのは、この区画だけです」

「全部で何軒ですか?」

「確認してみたんですけど、二百四十一軒でした」

 分かりました、と僕は言って、地図を受け取って折りたたんだ。「島田さんはここで待っててください」

 島田さんは黙ってうなずいた。心の底から申し訳なさそうな表情だった。僕は首を横に振った。

 辺りを見渡すと、どの家も見事なほど同じ顔をしていた。レンガで舗装された道の両脇に、クリーム色の壁の上に紺色の屋根を載せ、庇の下に出窓を一つ飛び出させているだけの無愛想な表情の建売住宅が、一糸乱れぬ間隔で延々と整列していた。全ての家の明かりは消えていて、夜のかすかな街灯に照らされたその風景は、まるで昔映画で見た外人墓地のように見えた。中に入っていくためにアーチをくぐって行くところまでそっくりだった。

 そして庭まで同じ顔をしていた。同じように猫の額ほどの広さの芝生があり、同じように車が一台ずつ停めてあり、同じようなポストが軒先に突き立っていた。違うのは、ある家には犬小屋があり、ある家はそうでないという点だけだった。犬小屋がない家も、どっちにしろ家の中には犬か猫のどちらかがいるに違いない。それは冗談にしても悪趣味すぎるくらい不気味な光景だった。

 僕はポストだけを見つめていた。用があるのはそれだけだった。風景が不気味かどうかなどということはどうでもよかった。そしてそのポストが僕の手で開けられるポストかどうか、ということだけが問題だった。僕は呼吸を整えて、そこに近づき、ゆっくりと手を伸ばした。そのポストはスタンド式で、差し込み口が箱の上部に付いていて、手前の小さな取っ手を引くと中身が取り出せるタイプのものだった。僕は幸運に感謝した。ポストが壁やドアに備え付けの、その裏側からしか中身を引き出せないタイプの物や、あるいは鍵がかかっているものなら、僕にはどうしようもなかったからだ。僕はゆっくりと取っ手を引いて、暗闇の中で目を凝らした。

 中には、ビニール封筒に収まった、僕が作ったDM一通だけが横たわっていた。DMといったところで、B3サイズのチラシを4回折りたたんでそれらしく見せているだけのものだ。ポストから指先でつまんで取り出し、用意してきた手提げ袋に入れた時、まるでそのDMを小動物の死体のように感じた。中身のチラシに書かれた文字に、本当に「徒歩5年、築1分」と書かれているかどうかなど、全く確認するつもりにはなれなかった。死んだ者は今更どうあがいたところで死んだ者だ。その事実以外はどうでもいい。

 次の家のポストも、その次の家のポストも、同じ構造で、中には僕の作ったDMだけが入っていた。そして僕は同じような動作でそれを指先でつまみ、袋の中に放り込んだ。どうやらこの住宅街の人々に対して何かを伝えようとしていたのは、僕と、僕の客だけだったようだ。僕は後に続く200軒強のポストの中身がこのDM以外に何もないことを確信し始めていた。そして、四軒目のポストを開けた時には、僕は早くも自意識を失っていた。機械的にポストに駆け寄って、ふたを開け、ビニール封筒を取り出し、ふたを閉じる。一軒当たりに10秒程度しかかかっていない。おそらくこの作業はあっという間に終わるだろう。遠くから虫の鳴く声が聞こえる。僕はその音に耳を澄ましながら、光と光の間を飛び回る蛾のように、家々の軒先のポストからポストへと走り続けた。

 真夜中でも気温はあまり下がらない。僕の全身は気が付かないうちにまた汗でぐっしょりと湿っていた。一体、今、自分の首筋や脇の下からどんな臭いが立ち上っているのか想像もつかなかった。そして何より、歩き過ぎてぐにゃぐにゃに変形し、底に穴の開きかけている革靴の中で、汗で液状化したようなどろどろの靴下は、どれぐらいきつい臭いを放っているのだろうか。想像するだけで吐き気がした。

 その想像は僕の頭から離れなかった。僕は小走りに歩きながら、その臭いを振り払おうとした。当たり前だがそんなもののことを考えたくはなかった。だが駄目だった。どうしてもその臭いは僕の鼻の奥と脳味噌の間で消えなかった。その臭いを発する何かが、実際にそこに発生して、引っ掛かって動けないでいるように感じられた。僕は口元を手で押さえながら、ポストを開いてDMを回収し続けた。

 僕は他のことを考えるよう、頭の中にある、臭い以外の別の物事を探した。何か美しいものについて考えたかった。それは別に何でもよかった。風景でも、女のことでも、映画のことでも、物語のことでも。そして、僕の中に浮かび上がってきたのは音楽だった。

 TOTOが歌う『アフリカ』の旋律が、耳の奥から自然と聞こえてきた。そしてパーカッションの鼓動が腹の底から湧きあがるようにして現れ、僕はいつの間にか歌を歌い始めていた。もちろん、ほんの二回しか聴いたことのない歌で、僕には歌詞はほとんど分からない。メロディーをたどって、言葉にならない適当な歌をデタラメに呟いているだけだ。「アフリカに降る雨に栄光あれ」、唯一聞き取れたその部分だけを何度も何度も繰り返し歌った。

 その歌は僕の心を静かにしていった。美しい歌だと僕は思った。一体この歌が実際にどういう意味で、どんな思いで歌われ、そして今の僕の仕事にとってどんな意味を持つのか、全く分からないままだったが、歌っている間はそんなことは全く気にならなかった。心の中に音以外の何かが響き、彫刻のように何かが形作られ、そしてそれは感情や感覚になって、喉の奥や指先からあふれ出てくる。僕はそんな印象を前にも味わったことがあった。一度や二度ではなく、むしろ何年か前までは毎日がそうだった。何を聴いても、何を観ても、いつも何度でも胸の奥底から何かが湧きあがってくる感覚があった。手に触れるものが全て黄金だった時間があったのだ。だがそれは消えた。いつの間にか消えていた。僕は何を見ても感動しなくなり、何を聴いてもすぐに飽きてしまうようになった。何故なのかは分からない。僕はその原因は自分自身にあると思った。僕は毎日音楽を聴いて、毎日映画を見て、毎日本を読んで、毎日小説を書き続けていた。でも、誰かに出会うことはなかった。僕はいつも一人で過ごしていた。それが原因なのだと僕は思った。僕は誰かに出会わなくちゃならない。そうするためにはこれ以上ここにいても駄目だ。ここから出て別のところへ行きたい。その手段を僕は、働くこと以外には見つけ出せなかった。

 そして僕は気がついた。今、僕の中に自然と浮かび上がってくる、この感覚は、今となってはどこへも行かないだろうと。僕はこの感覚を誰にも、僕自身にも伝えることはできないだろうと。昔の方法なら、それができるかもしれない。しかし今はもう誰もそれを求めてはいない。客も、上司も、涼子も、そして僕自身も。それはコンセプトでも概念でもテーマでもキャッチコピーでもない、ただの僕の個人的な感覚なのだから、当たり前だ。僕はもう自分で分かっている。たとえありったけの自由な時間があったとしても、もう以前のように物語を書いたり語ったりすることはできない。今の僕には、誰に向かって何を話せばいいのかが全く分からないからだ。僕自身さえそれを読みたいとは思わない。

 僕は涼子の顔を思い浮かべた。無表情な彼女の顔が、僕の脳裏に浮かび上がった。本当に目の前に彼女が立っているような気さえした。僕は何百軒目かのポストの目の前で、DMをつまんだまま立ちつくした。僕はため息をついた。深いため息だった。僕は自分が間違っていたのだと気がついた。

 僕は結局、全てを涼子に押し付けようとしている。五億円のプロジェクトよりも、目先の数百万円の借金の方を、僕は取ったのだ。僕は手に持った手提げ袋の中で積み重なった死骸のようなDMたちを見下ろした。今、ずっと大きく困難な作業に立ち向かっている仲間を放っておいて、僕はより楽な方へ楽な方へとやってきたのだ。それはビジネス的な収支やリスクの判断とは関係ない。僕はこの夜で仕事を終わらせようとしているのだから、後の何かがどうなろうと知ったことではなく、自分が今できることだけをやればよく、だから僕が恐れるものなど何もなかったはずだ。僕はリスクの高いか低いかによらず、重要だと思う方を取ることができたはずだ。それなのに僕はここに来た。何が正解かは僕には分からない。僕がいたところで何一つ涼子の助けにはならないだろう。だが、ここに来てこうしているのは間違いだった。あり得ないくらいの大間違いだ。馬鹿の上に卑怯が重なって、僕は汗だくになって、心の底から最低なところにいる。

 僕は茫然と立ち尽くしていた。空を見上げると、月が消えていて、代わりに、かすかに青白い光と空気が辺りを覆っていた。もうすぐ夜明けだ。僕はゆっくり歩き始めた。新聞配達のバイクとすれ違い、アーチをくぐりぬけ、明かりが点きっぱなしの島田さんのワゴン車の助手席の窓をノックした。

 僕は助手席に乗り込み、足元に手提げ袋を置き、島田さんに、申し訳ないけど銀座まで送ってください、と言った。

「終わりましたか、お疲れ様でした」

 僕は頷いたのか首を横に振ったのか、自分でも分からなかった。

 車が動き始めると、僕は目を細めた。正面に見える東の空は刻一刻と青くなっていった。僕は時計を見ることができなかった。しかし心臓がどくどくと激しいビートを打ち続けていて、時間がほとんどなくなっていることを僕に告げていた。ポケットに手を突っ込んで携帯電話を握りしめた。涼子に電話しなければならないということは頭では分かっていた。しかし言葉が何も浮かんでこない。残りの限られた数時間で、自分がどうするつもりなのかが分かっていないからだ。一分一秒遅くなればなるほど、電話は掛けにくくなると分かっていても、指が動かなかった。

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