第17話
オフィスの中には誰もいなかった。それはもちろん当たり前の光景だ。いくらなんでも毎日誰もが午前5時前まで仕事しているほど、広告代理店にやることがあるわけではない。たまたま厳しいクライアントの営業になり、たまたま厳しいプロジェクトの担当になり、たまたま仕事のできない人間がそうなるだけだ。
だが僕は人の姿を探していた。中島部長だ。部長と話をして、予算表の修正と、涼子から上がってくるクリエイティブ提案のチェックをしなくてはならなかった。部長はどこにもいなかった。数時間前に僕がコーヒーを注いだカップが、空になって机の上に置かれているだけだった。
僕は自分の席に戻り、椅子に深く腰掛けた。目の前のパソコンのディスプレイを見ると、未読のメールが六十八件あった。僕はそれを一通も開かず、右下に小さく表示されている時計を見た。4:51。午前四時五十一分。僕は指一本動かさず、その表示が四時五十五分になるまでじっと見つめていた。
どうする?
僕は自分にそう尋ねた。訊くまでもなくやることは分かっているはずだった。残っている二人に電話をするのだ。中島部長と、涼子。問題は、どちらに先に電話をするか、ということだった。涼子に話す言葉は未だに全く思い浮かばなかったから、先に部長と話をしたかったが、部長は僕がDMの回収に行っていて、涼子と打ち合わせを全くしていないことなど知らない。電話をすれば、当然、今の提案の準備の状況を訊かれるだろう。
涼子に先に電話するしかなかった。
携帯電話の電話帳から涼子の番号を開き、何秒間かそれを見つめた後でダイヤルした。考えたところで何も変わらない。話すしかない。僕は目を閉じて、受話口をじっと耳に押し当てて、涼子が出るのを待った。
十回ほどでコール音が鳴りやんで、こちらは留守番電話サービスセンターです、というアナウンスが聞こえてきた。発信音の後にメッセージをどうぞ。僕はメッセージを何も残さずに電話を切った。彼女はコンビニに飯でも買いに行っているのかもしれない。
仕方なく今度は中島部長に電話した。お掛けになった電話は電波の届かない場所に居られるか電源が入っていないため掛かりません、という返答だった。
煙草が吸いたかった。だが、数時間前に弾切れになったことを思い出して、指を唇にあてて深呼吸して、その欲求を誤魔化した。
僕は立ち上がって歩きだした。そして別フロアの涼子のデスクに向かった。彼女が帰ってくるのを待とうと思った。待つ間に、どんな風に話し始めればよいか、それが思いつくだろうとも思った。
だがそうはならなかった。涼子はフロアの中で一人だけ、ぽつんと席に座っていた。カタカタとパソコンのキーボードを打ち、ディスプレイをじっと睨みつけていた。缶コーヒーか何かでも買ってくるべきだったと思ったが、そうするにはもう彼女に近づきすぎていた。僕は涼子の隣りの席に腰をおろして、彼女の横顔を見た。昼に見たときと、彼女の表情にあまり変わりはなかった。ずいぶん久しぶりに会うような気がした。
僕は座ったまま、何も言えなかった。涼子は僕の方を見もしなかった。それでも僕は何でもいいから何か言わなくてはならなかった。
「調子はどうだ?」
僕はそう言った。だが涼子はまだ顔を動かさなかった。ディスプレイには、大きなフォントで書かれた文字が並んでいた。
『津島プロジェクトを成功に導くために必要なもの。
それは○○○○○○』
涼子がキーボードを打つ手は既に止まっていた。僕と涼子は、「○○○○○○」を見つめたまま、しばらく無言だった。
「何しに来たの?」
涼子が低くかすれた声でそう言った。
「様子を見に来た。調子はどうかと思って」
「それってこの世で最も無意味な行動だと思わない?」
「時と場合によるだろ。今は必要だ」
「3時間前だったら必要だった。でも今は遅すぎる」
相変わらず、涼子は僕の方を見ないままだった。僕は涼子の横顔と「○○○○○○」を交互に眺めた。どちらも同じ表情に見えた。そこには何もない。入れるべき言葉と感情を待っている。
僕は自分の誤りを認める方を選んだ。
「悪かった。もっと早く来ればよかった」
涼子は首を横に振った。
「もう終わりだよ、これ。間に合わない」
「今、どういう状況なんだ?」
「これだけだよ」
「これだけって、何だ?」
「見りゃ分かんでしょ。これが企画書の一ページ目で、まだ、『まるまるまるまる』、だけしかない」
「他には? 絵になってるものは何もないのか? 広告ビジュアルは?」
「だから何も無いって」
「お前、流石にそれ冗談だろ?」
「マジだよ。マジに何も思いつかない。終わりだわ、これ」
僕は涼子の横顔をじっと見つめた。彼女は頭の後ろで手を組んで、天井を見上げていた。僕はパソコンのディスプレイを穴が開くほど睨みつけた。いつの間にか唇が震えていて、僕はそれを指で抑えつけた。
「締め切り前の漫画家みてえなこと言ってんじゃねえよ。俺たちは今更、『作者急病につき今週は休載いたします』、なんてわけに行かないんだぞ」
「喚いたところで何にも変わらないよ。大体初めっから人選がおかしいんだよね。社内で最もこのプロジェクトに向いてない私をクリエイティブディレクターに選んでる時点でさ」
「それこそ今更言ったところで無駄だ。お前どうするつもりなんだよ。午前9時まであと4時間もないぞ」
「さあ。考える」
「考えて間に合うのか?」
「だからそう喚くな、って言ってるでしょ。それともあんたがこの『まるまるまるまる』、埋めてくれるの?」
「何だって?」
「『津島プロジェクトを成功に導くために必要なもの』は何か?」
「俺がそれを考えるのか?」
「だったら誰が考えんの?」
涼子はそう言って、ようやく僕の方を見た。僕はディスプレイを見つめたまま、涼子とを視線を合わさなかった。額を撫で、息を吸い込んで、僕は首を横に振った。
「俺に分かると思うのか、それが?」
「分かるか分かんないかじゃないよ。考えるか考えないかだよ」
「分からないよ俺には」
「分かんないってどういうこと?」
「分かんないのは俺だけじゃないよ。客も、部長も、山本も、誰もそれが分かってない。本当に分からないのか、皆考える暇がないのか、考えようともしていないのかも分からない。だからこんな状況になってるんだろう」
「じゃあ決めちゃえばいいじゃん、あんたが。誰もそれが分かんないってことは、別にそれが何だっていいってことなんだから」
僕はもう一度首を横に振った。
「ずれてるんだよ、俺は」
「それ、どういう意味?」
「この3ヶ月か4ヶ月、俺が言った言葉に誰かが頷いたり納得したりすることなんか一回もなかった。それは別に、俺が素人だからとかそういうことじゃない。俺がマンションなんか全く欲しくないってことも、たぶん関係ない。俺は、考え方とか求めてることが他の人と根本的にずれてるんだ」
「いいから言いなよ。何でもいいから」
涼子は静かな声でそう言った。
「何でもいいってことないだろ?」
「本当に何でもいいよ。私はそこから書き始めてみるから」
分かった、と僕は言った、「じゃあ『想像力』にしてくれ」
「『想像力』? それが津島プロジェクトを成功に導くために必要なもの?」
僕は頷いた。
「俺はそう思う」
そしてそれは今の僕に最も欠けているものだ。
「分かった」と涼子は言った。「それでいいよ」
「こんなの漠然としすぎてるだろ。コンセプトでもコピーでも何でもない」
「いいんだよ別に。目印にはなる」
「それでどうする? 冗談抜きで、8時半にはここを出なくちゃならない。事前に営業で確認なんか到底無理だろうけど、ぶっつけ本番だって間に合わせられるか?」
「分からない。ぎりぎりになると思う」
「分かった。部長にも予定を確認してみる。まだ会社に戻ってないんだ」
僕はポケットから携帯電話を取り出して、部長の番号に掛けた。十二、三回目のコールで〈もしもし〉という返事があった。
それは女性の声だった。僕は、三広の松山です、と名乗りながら、一瞬電話を耳から離して液晶を見た。電話する先を間違えたのではないかと思った。僕はもう一度名前を名乗った。
「もしもし、三広の松山と申します。そちらは中島部長の携帯電話ですか?」
〈はい、左様です〉
女性の声がそう答えた。線の細い声だった。
〈私は中島の家内です〉
「部長の奥様ですか?」と僕は言った。全く予想しない相手だった。「はじめまして。松山と申します。中島部長にはいつもお世話になっております」
いいえ、こちらこそ、と中島部長の奥さんは言った。〈お名前はかねがねお伺いしております。いつも中島がお世話になっております〉
「とんでもありません、私なんかはまだ全く仕事のお役に立てていません」
僕はそう言った。だがそれは頭で考えた言葉ではなく、反射的に口から滑り出てきた台詞だった。
実際には、僕の頭の中では無数のクエスチョンマークが一斉に点灯していた。
何だ? どうして今部長の奥さんが部長の携帯電話に出るんだ? 部長は仕事をほっぽり出して家に帰ったのか? 大体部長は結婚してたのか?
それらは結局一つの疑問に集約され、僕はそれを口に出した。
「ところで部長はどちらですか?」
〈中島は手術を受けております〉
「すみません、何ですって?」
〈中島は手術を受けております〉
部長の奥さんは、同じセリフを美しい滑舌で繰り返した。
「手術? 部長がですか?」
〈はい。1時間ほど前に、突然倒れたという連絡がありまして、慌てて私も病院に駆けつけました。先ほどから手術が始まっています〉
開いた口がふさがらなくなった。僕は顎に力を入れて、ひとまず口を閉じた。
「ご容態は?」
〈私には詳しいことは分かりませんが、『気胸だ』とお医者様は仰っていました。手術で、脇の部分を切開して息を吸い込みやすくするのだということです〉
「それは」と僕は言った。それは一体どういう冗談だ?「それは、大変お気の毒です」
〈無茶ばかりしてきたからこうなるんですわ。松山さんもお気をつけてくださいね。こんなお時間にお電話をいただくなんて、働き過ぎでいらっしゃるわ。そんなに働かなくてはいけない理由はどこにもないんですからね。休み休みやるのが何事もよろしいんですから〉
僕は首を横に振った。
「そうさせていただきます。ところで、こんな時に申し訳ないんですが、部長は私について何かおっしゃっていませんでしたか?」
しばらく無言だった後で、部長の奥さんは〈いいえ〉、と言った。
〈何も言っておりませんでした。私が病院に駆けつけた時にはほとんど声を出せない状態でしたから〉
そうですか、と僕は言った。ため息が出そうになるのを必死でこらえた。「夜分遅くに、大変失礼いたしました。くれぐれもどうぞお大事に」
ありがとうございます、という声が聞こえた後、電話は切れた。
僕は携帯電話を握りしめたまま、じっと俯いた。その液晶画面に表示された、残り一マスになったバッテリー残量表示と、午前5時半を示すデジタル時計とが、嫌でも僕の目に突き刺さってきた。そして腹の奥から絞り出されるような溜息が、ゆっくりの僕の唇を伝って漏れ出て行った。
「またなんかあった?」
涼子が尋ねた。僕は頷いた。そして首を横に振った。
「何で俺より先に倒れるんだ?」
☆
僕は自分の席に戻り、誰もいないオフィスを見渡し、俺は逃げられないのだと自分に言い聞かせた。自分から先に言い聞かせないと、すぐにでもその事実が向こうからやってきて僕に覆いかぶさろうとするのが、はっきり感じられたからだ。部長は倒れ、9時のプレゼンには一〇〇%参加できない。あと何日後に戻ってくるかも分からない。
広告提案については、あとは涼子に任せるしかない。どう考えても間に合うとは思えなかったが、最早考えても仕方がない。
僕が残り、やるべきことはたった一つ、そしてそれは明確だった。六億円のプロジェクト広告宣伝予算を、五億円に縮めて提出することだ。それをどうやって僕一人で残り3時間足らずで実現すればいいのか全く分からないということ以外は、全てが明らかだった。
いや、やるべきことはもう一つあった。僕は、9時のプレゼンに参加するメンバーを予め確認しなくてはならない。僕と涼子以外に誰が出席するのか? 山本か、それとも、部長がいないのであればその上の局長か。その二人が出られないのであれば、僕と涼子は二人で行くしかない。もちろん、まともに考えればそんなことは許されない。今回のプレが本当に三広への最終審判になるのだとしたら、そこでは五億円が消えるかどうかだけでなく、津島PJ以降も神栄不動産から三広に仕事が発注されるかどうかも同時に決定されるかもしれないからだ。そんな責任を僕たち二人が負うことはできない。だが、僕は局長の携帯電話の番号を知らないし、知っていたとしても朝の5時に局長をたたき起こす役目など極力避けたかった。
僕は山本に電話することにした。局長に電話するかどうかの判断も、電話するとしたらその役目も、全て山本にやってもらおうと思った。話などできればしたくないが、部下として、電話をしたという事実が必要だった。電話に出ようが出まいが、怒鳴られようが罵倒されようがどうでもいい気分だった。僕は目を閉じて携帯電話に耳を押しあてた。
〈もしもし〉と声が聞こえた。
その山本の声を聞いた時、意表を突かれた気がした。どちらでも構うものかと思いながら、結局は出るはずがないと思っていたのだ。
「松山です。山本さんですか?」
〈ああ。どうした?〉
「こんな時間に申し訳ないんですが、確認したいことがあってお電話しました。明日の9時のプレゼン、どうされますか?」
〈どうされますかって、どういう意味だよ〉
「いらっしゃいますか?」
〈馬鹿か、行かなくてどうすんだよ〉
「分かりました」と僕は言った。「それとご報告なんですが、ついさっき中島部長が倒れました。今病院で手術受けられてます」
〈はあ?〉
「気胸だそうです」
〈まじかよ。明日のプレどころか、当分休みってことだな〉
「そうだと思います」と僕は言った。「どうしますか? 明日のプレゼンは局長を呼びますか?」
〈馬鹿。部長がいないからってわざわざ局長まで呼ぶほどでかいプレかよ〉
「分かりました」と僕は言った。僕とは意見が違ったが、それが上司の判断なのだからそれはそれで構わない。
それよりも僕はもう一つ確認したいことがあった。
「もう一つ、お伺いしたいことがあるんですけど、よろしいですか」
〈めんどくせえ話じゃないだろうな〉
「津島プロジェクトの予算、五億円に縮めてくれって話、部長とお話しされてますか?」
〈はあ? なんだそれ〉
「メールが来てた件です。神栄不動産の今川さんから、部長と、山本さんと、僕宛てに」
〈見てねえよ〉
「とにかくそういうメールがあったんです。9時のプレゼン時に提出しろ、って。ご存じありませんでしたか?」
〈知らねえよ。お前ふざけんなよ。それってめちゃくちゃ重要な話じゃねえのか。何でお前そんなめちゃくちゃでかい話、早く言わねえんだよ?〉
「何度かお伝えしようとしたんですけど、お忙しそうだったので話せませんでした」
〈で、お前もうその予算表はもう作ったのかよ?〉
「作ったのか、ってどういう意味ですか」と僕は言った。感情的になるな、と自分に言い聞かせながら。「作れるわけ無いじゃないですか。あの予算表に書いてある費用の全部は、山本さんが見積もりを取ったものじゃないんですか。何でそれを僕が断わりもなく勝手にいじれるんですか?」
〈俺がそれをやる時間がねえだろうが。お前、代理店の営業が客に請求する金の内訳を理解してないってことが恥ずかしいことだって分かってねえのかよ。何でお前がやらなくていいことになってんだよ〉
「違います、何で初めから俺がやることになってるんですか? 客先との打ち合わせも、クリエイティブ提案の打ち合わせも、スタッフからのクレームの対応も、客先からの呼び出しに応じるのも俺がやって、金の計算も俺がやったら、山本さんは何をするんですか?」
〈なんだお前、その口のきき方?〉
「口のきき方が問題なんですか? 残り3時間で予算を一億円縮めなくちゃならないってことは問題じゃないんですか? 俺は確認したいだけなんです。俺がそれを一人でやるのか、二人でやるのか。いいから教えてください、今から会社に戻ってくる気があるのかどうか、俺にそれを押し付けるつもりなのかどうか」
〈お前ふざけてんのか。頭冷やせこの馬鹿!〉
「ふざけてんのはお前だ馬鹿野郎!」
唇が震えた。
山本が息を飲む音が聞こえたような気がした。
僕は目を閉じたまま、出来る限り静かな声で話した。
「俺はもうあんたとは仕事できません。俺はもう辞めます。この仕事が終わったら。予算表は俺が作りなおします。分かんないなりにどうにかやってみます」
僕はそう言って電話を切った。
自然と深いため息が漏れた。
喉が乾いて、僕は休憩室まで歩いて行き、自販機で缶コーヒーを二本買った。一本はその場で飲み干し、もう一本は作業しながら飲むことにした。
デスクまで戻ってくると、机の上で携帯電話が振動していた。着信表示は山本だった。僕はそれを着信拒否してポケットに突っ込んだ。
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