第18話

 項目の数が二百に及ぶ予算表を一通り見たところで、僕は自分がしようとしている作業の根本的な問題にぶち当たった。

 いや、本当は初めから気が付いていた。まさか実際に自分ひとりでこの作業をしなくてはならなくなるとは思っていなかったから、これまであえて考えていなかっただけだ。

 それは、一億円を縮めた予算表を勝手に作って勝手に提出する権限など、僕には無いということだ。たとえ僕が、チラシ一枚の単価からDM一通の封入発送代行費に至るまで、全ての費用を熟知していたとしても、そこから最終的に三広が得る利益を入社たった四カ月の僕が決めることなどできはしない。それは今更気がつくまでもなく、ごく当たり前のことだ。

 僕は自分が取るべき道を考えた。その数はごく僅かで、そしてどれも似たり寄ったりのややこしい道だった。


(1).予算は一切修正しない。どうしても必要なら明日以降山本や部長に作ってもらう。

(2).大勢に影響の無いと思われる程度に少しずつ利益を削り、五億数千万円にして提出する。

(3).きっちり五億円にして提出する。


 僕としては(1)が許されるのなら、それが最も安全で楽な道だった。だがそれが不可能なことは、この数ヶ月間の神栄不動産の今川と大沢との付き合いの中で嫌というほど良く分かっていた。彼らは決して冗談を口にはしない。彼らが言うことは救世主の預言と同じで、不可能に見えても理不尽に感じられても、絶対に実現されなくてはならないのだ。納期に遅れる、とか、予算をオーバーする、とか言うことは、いかなる時においてもあってはならない。

 たとえ今僕一人しかいなくとも、僕が広告業について全く何も知らないど素人であったとしても、何もせずにプレゼンに向かうことは、やはりあり得ない。許されていようがいまいが、権限があろうが無かろうが、やるしかないのだ。

 が、かと言って、(3)も不可能だ。今川は「広告投下量は一切減らさずに費用のみ縮めること」と言っていたが、請求額に代理店のマージンが四割も五割も含まれているならともかく、実際にはどれだけ多く見積もっても二〇%に満たないだろう。仮に六億円のうち二〇%が利益だとして、一億二千万円。そこからそのまま一億円削れば、費用五億で、利益二千万円。利益率四%。そもそもこの数字の時点でビジネスとしてあり得ない額だが、ぎりぎり赤字にならずに済むように見えるのさえ見せかけだけだということは僕にでも分かる。五億円が一瞬で回収されるのではなく、プロジェクトが終わるまでには二年はかかる。二年がかりで二千万円の収入だということだ。そしてそこには、涼子や山本や部長やその他もろもろのスタッフの人件費も含まれる。実際には完全な赤字だ。

 結局、僕が選べるのは(2)しかない。それが正解かどうかは分からない。数時間後、五億円を下回っていない予算表を見た瞬間に、今川と大沢の審判が下って全て水泡に帰すのかもしれない。だが無理なものは無理だ。僕は立ち上がり、デスクの背後にあるキャビネットを開いた。自分のキャビネットではなく、山本のだ。過去のプロジェクトの資料や制作物のサンプルがすし詰めになっている。僕はその中から、今回のプロジェクトの印刷会社や制作会社や媒体社からの見積書を探し出した。それらは簡単に見つかった。山本は書類の整理能力に関して僕よりも遥かに優れていて、過去の全ての資料はプロジェクトごとに区分けされ、ファイルの色と貼り付けられたタグで分類されていた。津島プロジェクトの予算に関する資料は一つのファイルボックスにまとめられていた。

 僕はそのボックスと、電卓と、まだ合計が六億円のままのA3サイズの予算表一枚を抱えて、オフィスの隅にある会議室に向かった。自分のデスクでは狭すぎて作業できない。テーブルの上に予算表を置き、その周囲に関係会社からの各種の見積もりを配置した。椅子に座り、赤ペンを握って、僕は深呼吸した。会議室の窓の外から、銀座の街が見える。もう建物の輪郭ははっきりと見え、外は完全に昨日から今日になった。早朝の銀座はカラスの町だ。どこから来たのか想像もつかないほどの大量のカラスたちが、夜の店が出すゴミを狙って空から飛来してくる。彼らが実際にゴミにありつけるのかどうかは僕には分からない。カラスたちはすぐにいなくなってしまうのだ。電車が動き始め、人々がまたこの街に戻ってくるころには、もう一羽の姿も見えない。僕のタイムリミットは、それよりはほんの少し余裕がある。一つずつ落ち着いてやって行くしかない、僕はそう自分に言い聞かせた。


                  ☆


 一つ一つのマス目に刻まれた数字と、見積書を見比べ、電卓で利益率を計算し、適当な数字に減らす、という作業をしながら、僕は昔のことを思い出した。思い出したというよりも、記憶の方が勝手に頭の中に浮かび上がってきたような感じだった。目の前で進む単純な計算の作業が、記憶の中のずっと過去に行った動作の影と重なって、それを呼び起こしたようだった。

 僕はその時、干潟で貝を拾い集めていた。八歳か九歳のころだ。裸足になって、温かい泥の中にくるぶし近くまで足を突っ込んで、スコップを片手に、延々と飽きもせず泥をほじくり返していた。どれだけ屈んでいても腰が痛くなることなど無かったし、尻が濡れても全身が泥だらけになっても、全く気にしなかった。僕はシジミやアサリやハマグリを一つ一つ、そして延々とビニール袋の中に放り込んでいった。空は良く晴れていて、風は温かい。遠くに両親や姉妹の姿が見える。しかしそんなに延々と潮干狩りを続けているのは僕だけだ。

 僕は一体何のために貝を集めていたのだろうか?

 僕には思いだせない。特に貝が好きだった記憶は無い。少なくとも僕は食卓に貝が登場して喜んだ記憶は無い。アサリの入った味噌汁を両親が旨そうに飲んでいるのを見て、それを自分には理解できない味覚だと思ったものだ。それに、貝という生き物が好きだったわけでもない。そもそも僕はその時、自分が拾い続けているものが生きているのか死んでいるのかも気にしていなかった。そうすること自体が楽しかったからそうしていたのだ。

 猛烈に腹が減ってきた。アサリの味噌汁のことを考えたからだ。胃が唐突に目を覚まし、大声で空腹を叫びだした。アサリ入りの味噌汁こそ、今僕が最も口にしたいものだと思った。今、それをゆっくりと飲み干すことができたら、そのエキスは僕の全身の隅々まで伝わって、全ての疲れを消してくれるだろうと思った。


                  ☆


 ポケットの中で何かが振動しているのに気がついた。それは僕に強烈なデジャヴを呼び起こした。ポケットの中で振動するものはこの世で携帯電話以外にあり得ないし、ポケットの中で携帯電話が振動するということは、ほとんどすべての場合悪い知らせだったからだ。

 僕は目を開いた。携帯電話を取り出して、着信表示を見ると、中島部長からだった。

 何故中島部長から電話があるのだろうか? 部長は今、手術の真っ最中なのではなかっただろうか?

 そして僕は窓の外を見た。太陽のくっきりとした光線が街を照らし、僕がいる会議室にも光と影を落としていた。一瞬まばたきをしただけだと思ったのに、いつの間にか、目に突き刺さるほどの光がさっきまでの数十倍の力で僕を照らしている。その光に目が慣れた時、僕は自分が今眠っていたのだということに気が付いた。

 やばい、と僕は思った。その一言の後、何も考えられなくなった。

 一瞬のうちに、頭の中が完全なパニック状態になった。全身の産毛が一斉に逆立ちした。僕は反射的にその場で立ち上がった。手の中で振動する携帯電話と、窓の外の景色と、そして目の前の赤字で埋め尽くされた予算表の間で、自分の視線が狂ったように飛び交うのが分かった。

 今、何時だ?

 時計はどこにもなかった。携帯電話を見たが、中島部長の電話番号を表示しているだけだ。そして振動し続けている。僕はそれを握りしめ、椅子を蹴飛ばすようにして会議室を出て、オフィスの壁にかかった時計を探した。8時5分を示すその時計を見つけた時、僕は携帯電話を開いて、もしもし松山です、と言った。

〈もしもし、中島だ。今どこにいる?〉

「会社にいます。今もまだいます」

〈作業は終わったか? クリエイティブの提案と、予算表は?〉

 分からない、と僕は思った。「分かりません。杉山は多分ぎりぎりまで作り続けてると思います」

〈お前の方はどうなんだ。予算表は作れたか? 山本はちゃんと戻ってきたか?〉

「予算表は」と僕は言いながら、走って会議室に戻った。テーブルの上に置かれたA3の紙には、隅から隅までびっしりと赤字が埋め尽くされている。「予算表は、出来ました。あとは紙に書いた数字を打ち込むだけです。五億円にはきっと、到底到達できてないですけど」

〈利益はどれくらい確保できてる?〉

「まだ正確には分かりません。けど一〇%は確実に切ってます」

〈そうか、分かった〉

 そう部長は言って、ゆっくりと息をついた。

〈予算表はそれでいい。それで、山本は戻って来なかったんだな?〉

「はい。戻ってきませんでした。でも電話はして確認したんですが、九時からのプレゼンには来るそうです」

〈何しに来るつもりだ?〉

 ひとり言のように部長は言った。だがそれが僕に向けた問いであったとしても、僕にも答えられなかった。

〈悪かった。お前一人に押しつけちまってな。今日はこのプレゼン終わったら休んでいいぞ。と言うか、休め〉

 分かりました、と僕は言った。

〈さっき、お前に電話する前に今川に電話したんだ。俺の容態を話して、プレゼンを1日遅らせられないかってな。駄目もとだったが、やはりNOだった。重役に上げるのが今日しかないそうだ。お前にやってもらうしかない〉

 分かりました、と僕は言った。

〈松山、お前辞めるなよ〉

 部長は唐突にそう言った。

 僕は何と答えていいか分からず、突然どうしたんですか、と訊きかえした。

〈辞めても良いこと無いぞ。俺に言えるのはそれだけだ〉

 忙しいところ悪かったな、と部長は言い、いいえ、と僕は答えた。

「どうぞお大事に」

〈プレが終わったらまた電話してくれ、じゃあな〉

 部長はそう言って電話を切った。

 その瞬間僕は、予算表を掴んでデスクに駆け戻った。8時10分。余裕はもう一瞬も残っていない。これを完成させて十枚ほどカラー出力してタクシーに乗り込むまで、残り20分。僕はマイクロソフト・エクセルの表に、自分の赤字のメモに従い全速力で数字を打ち込み始めた。一つの数字でも打ち間違えたら命取りになるが、振り返っている暇は無い。ディスプレイの右下に小さく映る時計の数値が、刻一刻と増えていくのを視界の隅でちらちら見やりながら、指が吹っ飛ぶような気がするほどの速さで数字を打った。

 そしてそれは完成した。僕はエクセル表中の合計金額のセルを見た。津島プロジェクトの総広告宣伝費は、五億四千万円。

 それだけ確認すると、すぐにカラーで十枚プリントアウトした。腕時計を見ると、8時25分だった。コピー機からべろべろとA3の紙が吐き出されてくるのを見ながら、僕は涼子に電話した。

〈こっちはまだ出られない〉

 もしもし、も無く涼子はそう言った。

「どれくらいかかる?」

〈あと10分〉

「分かった。新宿には先に行く。9時に遅れそうな時と、着いた時は携帯に電話してくれ。神栄不動産の、三十一階だ」

 僕はそう言って電話を切ってポケットに突っ込み、十枚の予算表を掴んで駆け出し、会社の手提げ袋にそれを放り込んで、スーツの上着と、ロッカーの中に入っていたネクタイ一本もその袋に突っ込んで、たった四ヶ月でボロボロにくたびれた革鞄を拾い上げてオフィスの外へ出た。昨日と同じ暑苦しい光が町中に充満している。

タクシーは、交差点に立って十秒もしないうちにやってきた。乗り込んで、「新宿の神栄不動産ビルまで」と告げた。そして僕は付け足した、「何があっても8時55分までに到着してください」。

 座席に深く腰をついて頭を後ろに倒すと、僕は深い息をついた。人生で一番長い深呼吸だった。何度か呼吸した後、僕はiPodを鞄の中から取り出して、裏側の鏡面に自分の顔を写した。真っ白い顔に黒い髭が浮き、パンダのような隈の中で充血した眼がぎょろぎょろと動いていた。正常な人間の顔には見えなかったが、そんなことはどうでもいい。正常でなくても人間の顔であればいい。とにかく間に合った。

 あと20分は何も考えなくていい。

 僕はドアに肘をつき、歩道を歩いていくスーツ姿の男たちを眺めた。まともな時間に出社する人々の、まともな通勤の風景だ。赤信号で停車するタクシーの前を、一様に黒いスーツと白いシャツを着こんだ男たちが横切って行く。その中に一人、チャコールグレイのスーツを着た女がいた。背が高くやたら足の長い女で、背筋がまっすぐに伸びていた。ヒールが地面をたたくカツカツという音が聞こえてきそうな颯爽とした歩き方だった。その女が歩き去っていくのをぼんやり見ていると、唐突に一つの事実に気が付いた。「あっ」という間抜けな声が、喉から自然に漏れた。

 久保田玲の契約費を予算表に入れるのを忘れた。

 僕は茫然とそう考えた。契約費を予算に入れるのを忘れた。契約費を予算に入れるのを忘れた。僕は手提げ袋の中から予算表を引っ張り出し、目前に広げた。

 総額、五億四千万円。ただしタレント契約費を除く。

 僕は頭の中で、どうするべきか考えた。そして首を横に振った。俺はそもそも久保田玲のタレント契約費を知らない。


                  ☆


 24時間前に、僕は戻ってきた。神栄不動産の三十一階の待合室は、昨日と全く変わりなく僕を出迎えた。誰もいないソファの隣りで、空気清浄機だけがうんうんと唸っている。僕はソファに腰を下ろし、煙草が一本も残っていないことに気が付いた。肺の奥底から、煙草が吸いたくてたまらなかった。

 時計は8時55分を示していた。タクシーの運転手は僕の希望通りに最速で走ってくれた。運転手に金を払ったところで、僕の財布はほぼ空っぽになった。煙草も財布も腹の中も、全て空っぽになった。喉が渇いていたが、自販機で缶ジュースを買う金もない。僕は立ち上がり、やむを得ずトイレの水道で口の中だけでも濯いだ。

 頭の中だけは空っぽではなかった。と言っても、考えていたのはたった一つ、久保田玲の契約費のことだけだった。それだけが僕の頭の中で一杯になり、他のことは何も考えられなかった。

 考えたところで、その数字が僕の前頭葉から浮かび上がってくるわけでもない。そして、久保田玲の契約費が三千万だろうが五千万だろうが、どちらにしても「五億円」という当初の目標から絶望的に引き離されることには変わりない。僕が考えていたのはどうやってそれを言い逃れるかということだ。そのためのセリフが、僕には全く思いつかなかった。浮かび上がってくる言葉は全て、仕様もない言い訳以外の何物でもなかった。

 やがて、どう足掻いても無駄だ、と僕は考えた。もし、予算項目に契約費が入っていないことを彼らに指摘されたら、今事務所に確認中だと答えるしかない。それで当然彼らの怒りは爆発するだろうが、それ以前に僕が今手にしている予算表は、五億円ではなく、そもそも初めから五億四千万円の予算表なのだ。それだけではなく、そこに至るまでにも数え切れないほどの地雷がある。中島部長はおらず、山本も涼子もまだ到着せず、クリエイティブ提案は完成しているかどうかも分からない。完成していたとしても彼らの嗜好にそれが合致しているかは全く不明だ。それらの地雷を一つも踏まずにこのプレゼンを乗り切るなんてことがあれば、まさに奇跡だ。

 8時58分。足音に気が付いて顔を上げた時、目の前に涼子がいた。涼子は少し息を切らしていた。美大学生のように巨大なカンバスバッグを肩に提げている。

「間に合った?」

「大丈夫だ」と言って僕は頷いた。「企画書は間に合った?」

「どうにか」

「あと2分待つ。山本さんが来ることになってるんだ」

 分かった、と涼子は答えた。「このプレゼン、1時間で終わるよね」

「それぐらいで終わると思うけど、次の打ち合わせでもあるのか?」

「違う。めちゃくちゃ腹が減ってるから」

「俺もだ。終わったらどこかで飯を食おう」

「あんたはその前に顔洗って髭そった方がいいよ。栄養失調の山賊みたいな顔してる」

 僕は頷いた。「企画書、ちらっとでも俺も見た方がいいか?」

 涼子は首を横に振った。「乞うご期待。お代は見てのお帰り」

 僕が頷こうか首を横に振ろうか迷っていると、ポケットの中で携帯電話が振動した。それを取り出すと同時に、もしもし松山です、と僕は応えた。

〈もしもし山本だけど〉

「今どちらですか?」

〈悪いんだけど、道が混んでて遅れてる。先に進めててくれるか〉

「わかりました」

 僕はそう言うとすぐに電話を切った。これまでの山本との会話の中でも最も短いやり取りだった。そして最も感情を排した会話だった。

「何だって?」と涼子が訊いてきた。

「山本さんは遅れてる。たぶん来ない」

「何で? プレでしょ?」

 僕は首を横に振った。

「山本さんは俺と同じなんだ」

「どういう意味?」

「俺も山本さんも、現実感が無いんだ。自分がやってることに、何もかもリアリティが無いんだよ。部長が言ってた。いくらミスをしても、殺されるわけじゃないって。その通りだと俺も思う。俺も山本さんも、殺されてもそれに気が付かないんだ」

「じゃあ、まじで私たち二人だけなわけだ」

僕は頷いて言った、「行こう」

僕は受付電話の前に立って、受話器を取った。「三広の松山です。9時からの打ち合わせで、今川様お願いいたします」。

 かしこまりました、と電話先の女性が言い、僕が受話器を置いて振り返ると、背後に既に今川が立っていた。昨日と同じ完璧な七三分けのヘアスタイルの下に、僕を無表情に見つめる目があった。電話に呼ばれた瞬間すぐに出てきたわけではない。ちょうど指定した時間になったから先にやってきたのだ。

 おはようございます、と僕は言った。「本日はよろしくお願いいたします」

「時間です」と今川は言った。「今日のプレゼンにいらっしゃるのは皆さんで全員ですか?」

「そうです。よろしくお願いいたします」

 僕がそう答えると、今川は何も言わずに踵を返した。僕と涼子はその背中に付いて行った。

 通された会議室は昨日と同じ部屋で、昨日と同じメンツが既に揃っていた。今川と大沢、そしてゴジラとカバオとブタゴリラだ。彼ら五人を前に、僕と涼子は並んで立った。大沢が僕たちの顔を交互に見て、呟くように言った。

「二人だけですか?」

 そうです、と僕は言った。「申し訳ありませんが、中島部長が昨晩急病に罹りまして」

「山本さんは?」

「山本も同じくです。申し訳ありません」と僕は言って、頭を下げた。「そして本日は、藤崎からクリエイティブ担当を代わって、こちらの杉山がプレゼンさせていただきます」

 三広の杉山です、よろしくお願いいたします、そう言って涼子が会釈した。

「それでは、さっそく始めさせていただいてよろしいでしょうか?」

 僕がそう言って五人を見渡すと、今川だけが反応して頷いた。涼子の方を向くと、彼女は鞄からA3サイズの企画書の束を取り出すところだった。僕はそれを受け取り、今川たち五人に配った。予算表は別紙で後から渡すこととして、それが僕たちの提案の全てだ。アニメーション付きのパワーポイントも、コンセプトをまとめた映像資料も、華麗なものは何も無い。後は涼子がしゃべるだけだ。

「それでは、津島プロジェクトの広告表現について、プレゼンを始めさせていただきます」

 その涼子の声は、凛として聞き取りやすく、部屋中にはっきりと響いた。僕は手元の企画書を立て、両手で支えた。涼子が話すのに合わせて、紙芝居のようにめくっていくことにした。

「今回のお話をいただき、私たちは考えました。このプロジェクトにおいて、最も重要なものは何か。広告の仕事とは何か。私たちがこのプロジェクトに寄与し、完売に導くために必要なものとは何なのか。津島プロジェクトを成功に導くために必要なものとは一体何なのか、それを今からご提案します。

 津島プロジェクトを成功に導くために必要なもの。

 それは想像力です」

 僕は立てかけた企画書をめくり、横から覗き込んだ。

そこには「想像力」の黒い三文字だけが、紙一面の限界まで巨大なフォントで刻まれていた。それはまるで何かが焼け焦げた跡のように見えた。

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