第19話

「津島プロジェクトについて改めて簡単に整理します。東京から電車で80分の津島駅徒歩2分の地に建つ、地上三十五階建て六〇〇戸のタワーマンション。棟内にコンシェルジュを完備し、三重の防犯システムに守られ、共用施設も充実しています。その一方、津島町を含む青塚市内のマンション年間供給戸数は二五〇。これが意味するものは何でしょうか? 完売まで、最速で2年半かかる、ということでしょうか。東京都内からも需要を引っ張ってくる必要がある、ということでしょうか。

 そうではありません。

 まともに広告を打っていても、私たちは六〇〇戸という目標に到達することは決して無いということです。完売までの道のりは非常に険しく、本物件は限りなくマーケットアウトしているということです。私たちはそれを認めない限り、決して前進することはできません。

 そうした状況下において、私たち三広が皆さんにご提案できることは、何か。限られた予算内で出来ることは何か。

 我々がやらなければならないことははっきりしています。

 必要なものは並はずれた広告です。まともなものではなく、過剰なものです。通り過ぎていくものではなく、突き刺さるものです。観る者の目に必ず留まり、忘れることの無いものです。そうしたものだけが、人の心を動かし、常識的に考えれば不可能な目標に到達することができるのです。

 人の心を動かしているのは何か?

 それは想像力です。

 想像力とは、無いものを在ると感じることができる力のことです。そしてそれ以上に、在るものを在ると感じることができる力のことです。それが無い限り、人は何かに惹かれたり、何かをしようとしたりすることはありません。しかし、その一方で、非常に重要な事実として、その力を持っている人は滅多にいません。あるいはほとんどの場合、心の中で眠っていて、滅多なことが無い限り目を覚ましません。私たち自身を振り返ってみれば、それは自ずから明らかだと思います。日々取り扱う仕事や生活に、どれくらいのリアリティを感じて私たちは生きているでしょうか? 私たちは日々、数千万円とか数億円のビジネスを取り仕切っていますが、そのお金は私たちとどれくらい関係のあるお金なのでしょうか? 私たちは子供だった時に比べ、毎日数え切れないほど多くの人達と会話を繰り返していますが、その言葉の中にどれだけの感情が込められているでしょうか? 私たちはそうしたことを気にすることなく生きています。私たちはほとんどの場合、生きているという実感の無いまま生きている。おそらく誰もがそんなことは分かったまま生活しています。そしてこれも私たちが知っている通り、これらは今更立ち上がった問題ではなく、私たちが生まれるずっと以前から何一つ変わらない問題です。あまりにも変わらないために最早誰も口に出しはしませんが、何一つ解決はしていないものです。時が経って、新たに問題が山積し続けても、前の問題が解決済みとはならないのです。

ではいかなるものが、人の想像力を呼び起こすのか?

 床暖房やディスポーザーや食器洗浄機でしょうか? 大理石の壁や制振構造や高強度のコンクリートでしょうか?

 もちろんそうではありません。私たちはそういった実際的な機能や性能からは、何一つ想像力を刺激されることはありません。現実をそのまま伝えたところで、どれだけ突き詰めても得られるのは詳細なリアルだけです。そこに住む、という意思と、そのために投資する数千万円という大金が結びつくときに必要になるものは、その生活が今の生活よりも良くなるというイメージです。イメージとは、現実そのものではありません。現実を土台にしつつ、そこから飛翔した幻想です。それだけが、現実には存在しないものを存在するように見せ、かつ、現実にあるものが本当にそこに存在するのだと実感させる。人の中のリアリティを呼び起こすためのイメージを作りあげること、それが私たちの仕事です。リアリティと、イメージが、リアルの地平から飛翔して結ばれた時、私たちの仕事は完成します。

 想像力とは、幻想と現実の間にあるものです。どちらが欠けても想像力は成立しません。これが我々の仕事において最も重要な点です。想像力は、現実を超えたところにしか存在しない。人の心を動かすのは、リアルではなくリアリティであり、リアリティとはリアルであることとは本来全く別のことです。リアルと違って、リアリティは私たちの頭の中にしか存在しません。だから私たちの人生は複雑なのです。現実と、自分の求める現実感が互いに傍にある人は滅多におらず、そうした人を私たちは幸福な人と呼ぶのです。リアリティとは生きている実感のことであり、それは限りなくリアルを超えるものです。これを多くの人が誤解しています。私たちの最終目標は、私たちのイメージが誰かのリアリティとなることであり、それは決して現実には存在しないものなのです。

 それを追い求めるのが私たちの仕事です。少しばかりのリアリティが必要なら少しばかりの想像力を、圧倒的なリアリティが必要なら圧倒的な想像力を用いてそれを表現することです。私たちの中のリアリティを、想像力という媒介によってイメージに表現し、観る人の想像力を刺激してその人のリアリティとすること。広告だろうと芸術だろうと、それが表現の本質です。

 翻って、津島プロジェクトにおいて、そこに生活することを人々に想像させるものとは一体何でしょうか?

 分かっていることは、六〇〇家族をここに住まわせるという目的が並はずれたものである以上、それは並はずれたイメージでなくてはならないということです。何を持って並はずれたものとするか? 問題はそれです。六〇〇家族の目に留まることを考え、六〇〇家族を年代、性別、給与水準、世代論等々からターゲッティングして、どのような表現が的確かを考える、それが通常の広告表現における発想の手法です。しかし今回、そういった手順は必ずしも必要なものではありません。並はずれたものとは、論理を超えて人に訴えかけるものである以上、論理的な発想に縛られている限り生み出されるものではないのです。私たちは、広告を観る人に対し、津島町に住むということを圧倒的なイメージで伝えることだけに集中するべきです。つまりそれは、単一の考えや、単一の情報や、単一のコンセプトで語られることではなく、無数のイメージを内包した表現となります。

 それは予め語ることのできないものです。実際にお見せしましょう」

涼子が僕の方を見た。彼女は背後の壁に立てかけてあった大きなカンバスバッグの中から、B1サイズの分厚いパネルを取り出して、僕に渡した。「広げて」と涼子は小さな声で言った。よく見るとそのパネルは一枚ではなく、四枚のパネルが重なって、一辺ずつがテープで留められて折りたたまれているものだった。展開すれば一枚の巨大なパネルになる。

 僕と涼子は二人でそれを開き、ゆっくりと机の上に立てた。それは巨大な絵だった。僕は横からその絵を覗き込み、息を飲んだ。

 それともその反対に、ため息をついたのかもしれない。

 青の渦が全面を覆い、混沌となってそこに描かれていた。そこには街があり、片隅には星空があり、中央には白銀色の巨大な塔が立っていた。薄い青色の空と濃い青色の大地の狭間に太陽が昇り、街を煌々と照らしていた。木々が立ち並び、若草が揺れ、いびつな形の家々が軒を連ねていた。それぞれの事物の位置関係は出鱈目で、互いの背の高さも色も大きさも、全て不規則だった。その遠近感の狂った世界は、どこまでも広がって行くように見え、どこよりも閉じた世界のようにも見えた。そしてよく観るとこの絵は塗料で描かれたものではなく、デジタルな、コンピュータで彩色された絵だった。それは僕に致命的な違和感を覚えさせた。そのせいで何かが増え、何かが欠けている。僕は搭の天辺に誰かが立っているのを見つめた。女だ。女はこちらを向いている。誰かを呼んでいるように見える。

 僕には分かった。それは8年前と同じ絵だった。もちろん絵そのものはあの時と別の物だ。だが、真中に立った巨大な塔が加わっただけで、イメージは何も変わらない。

「これがプロジェクト・アフリカです」

 涼子はそう言った。

「この絵には私たちがイメージする全てが込められています。広大な空と広大な大地、そしてそこで営まれるどこまでも自由で落ち着いた暮らし。昼も夜も、この世界の中央に建つ塔が私たちを見守り、そしていつもそこに帰って行くことができる。ここに住めば、私たちが生活に求める、安心やゆとりや、未来への展望といった全てが手に入るというイメージを、青くうねる色の中に込めています。そして、日々のせせこましい生活のリズムを超越して、ゆっくりとそよぐ草原のようなイメージ。アフリカにそびえる母なるキリマンジャロのように、このマンションが周囲に恵みを与え、畏敬され、絶対的なものであることを、この絵を見る全ての人に感じさせます。

 そのマンションの頂上に立つのが久保田玲さんです。彼女こそ、このマンションによってもたらされる、金銭を超越したこの上ない贅沢な暮しを体現するのにふさわしい人です。彼女の魅力は、その美しさだけではなく、優しい口調や、落ち着きや、前向きさや、眼の輝きにあって、それが彼女が人をひきつける理由だからです。

 この津島町での生活を、『何も無い暮らし』ではなく、『太古から鳴り響いていたリズムのように、ゆったりとした暮らし』として表現すること。それが私たちのプロジェクト・アフリカです」

 僕は涼子の顔を見た。彼女の眼の色は、8年前、僕にこの絵を見せた時と同じだった。

 そしてその眼は、僕たちの提案が終わったことを僕に教えていた。企画の説明はまだ終わらずに、涼子は話し続けていたが、もう僕にはそれが聞こえなかった。五人の男たちが涼子の言葉に耳を傾けていたが、彼らの表情が僕にはもう見えなかった。彼らに涼子の言葉がどんなふうに聞こえているのか僕には分からない。だがそんなことは問題ではなかった。僕には分かっていた。涼子が言っていることはこれ以上無いほどむちゃくちゃだと。誰よりも僕にはそれがよく分かった。そして、嘘だ、と僕は思った。さっきまでの夜、涼子が何も思いつかないなどと言っていたのは嘘だ。この絵を、彼女が「想像力」と企画書に記してからたったの2、3時間で仕上げることなど不可能だ。少なくともあの恐ろしく暑い津島町から帰ってきた直後には、涼子はこの絵を出すと決めていた。そしておそらく涼子はこの絵を大学に入ってからも何度か描き直していたのだろう。そこに昨日の一日で、白い塔と久保田玲を描き足した。そうでなければ間に合うわけがない。だが僕は何故涼子がこの絵を選んだのかは全く分からなかった。僕は、これがアフリカでも何でもないと分かっていた。この絵はそんなものとは全く何の関係もない。僕は小さく首を横に振るのを我慢することができなかった。これは8年前に終わった話だ。8年前にたった四十人に共有された物語で、今となってはどこにでもあるありふれた思い出にすぎない。そういうものは、今僕たちが生きている世界では真っ先に潰されるものだし、最も無力なものだ。僕にはそれがよく分かっていた。もちろん涼子にも分かっていただろう。涼子は嘘をついている。想像力も、イメージも、リアリティも、現実から完全に離れてしまったら成立しないとたった今言ったのは涼子自身なのに、この絵にはその現実がどこにも見当たらない。このイメージはどこにも辿りつかないし、何一つ解決することは無い。このイメージは最早リアリティではない。現実とかけ離れ過ぎていて、イメージでもリアリティでもなく、ただの妄想だ。僕にとっても、涼子にとっても、あの時僕たちと一緒にいた四十人にとっても。

 五億円は消えた。今更最後に予算表を出さなくても僕には分かる。久保田玲がいようといまいと、何の関係もない。彼ら五人が、この提案を受け入れることは絶対に無い。リアルの地平から出発しないリアリティを、彼らが受け入れることはあり得ない。これは彼らにとってのアフリカではなく、別の宇宙の物語だ。

 僕は涼子の横顔をじっと見つめていた。何故彼女が、こんな何から何までめちゃくちゃなプレゼンをしたのか、僕には分からなかった。たとえ彼女が喋った全てが、僕の思っていることの全てだったとしても。


                  ☆

 

 涼子のプレゼンが終わり、今川が周りの四人に、三広さんに何か質問はあるか、と促した。大沢、ゴジラ、カバオ、ブタゴリラの面々は、一様に首を横に振った。

「それでは、これで三広さんからのご提案を終了としたいと思います。ありがとうございました」

 涼子と僕は、ありがとうございました、と言って頭を下げた。今川以外の四人が席を立ち、会議室を出て行こうとするとき、今川が僕に言った。

「松山さんだけは残ってください」

 僕は振り向いて、分かりました、と言った。

涼子を見て、先に戻っててくれ、と告げた。涼子は頷いて会議室から出て、ドアを閉めた。

 僕は今川と向かい合って座った。二人だけで座るには、その会議室の空間は広過ぎた。僕は今川が何を言おうとしているのかは、大体想像がついた。

「予算表を見せてください。一億円圧縮したものです。お持ちですか?」

 僕は頷いて、今川に予算表を渡した。今川はそれを一瞥して直ちに言った。

「五億円に届いていませんね」

 僕は頷いた。

「中島部長や山本さんはこの予算表をご覧になっているのですか?」

 僕は頷いて言った、「中島には確認しています」

「それから、久保田さんの契約費は、この表のどこに含まれているのでしょうか。別途予算ということですか?」

 僕は頷いた。

「だとしたらその費用はいくらになるのですか?」

「今、事務所に確認中です」

「なるほど」

 大沢はそう言って、僕をまっすぐに見つめた。

「率直に申し上げて、全く話になりません。最悪です。今日は、これまで私がしてきた仕事の中でも、最低のプレゼンテーションでした。広告代理店を名乗るのもおこがましいと思えるほど、商品に対する理解も、表現のレベルも、そしてそのコストマネジメントにおいても、全ての面で最悪の仕事です。これから社内で、今のプレゼンを稟議に掛けますが、予め申し上げておくと、まず間違いなく決定権者を通過することは無いでしょう。非常に残念です」

 僕は首を横にも縦にも振らなかった。

「結果については後ほどお知らせいたします。お話は以上です」

 今川はそう言うと、席を立った。

「よろしければ教えていただきたいことがあります。一つだけ、いや、二つだけ」

 僕がそう言うと、今川は立ったまま、僕に振り向いた。

「何でしょうか」

「どうしてアフリカだったのでしょうか。そしてどうして久保田玲だったんでしょうか」

 今川は、細い眼をさらに細くして僕を見た。

「それが知りたいですか?」

 僕は頷いた。

「答えは簡単です。それが社内の決定権者の意向だからです」

「それはどういうことですか」

「その言葉通りの意味です。それ以上でも以下でもありません」

その今川の表情は、いつもと何も変わらなかった。その表情が意味するものは一つ、たった今終わったプレゼンが、彼にとって何の意味も無いものだったということだった。

 知らないうちに、僕は自分の右拳が固く握り締められていたことに気が付いた。それは机の下で震えていて、今にも振りあげられようとしていた。左手で目の前の男の喉を掴んで壁に叩きつけ、右拳で思い切り殴りつける光景が脳裏に浮かんだ。どうしてこの男を殴りたいと思うのか、自分でも理解できなかった。彼が言ったことは、予想通りであっただけでなく、これまでずっと僕たちと彼が交わしてきた会話と何も変わらない。だが脳裏に浮かぶ光景は実体に限りなく近いイメージになって、僕の全身の筋肉を硬直させた。僕は首を横に振って、自分に言い聞かせた。僕の仕事は、こいつを思い切りぶん殴ることではなく、一刻も早くここを立ち去ることだ。

 分かりました、と僕は言った。「本日はありがとうございました」

 ありがとうございました、と今川は言って、会議室から出て行く僕を見送った。

 僕は振り返らなかった。ため息をつくことも無かった。

 廊下を歩き、「代理店の間」の前を通り過ぎたとき、曲がり角の向こうからスーツ姿の集団が歩いてきた。彼らは両手に大きな手提げ袋を提げ、僕の体にぶつかりそうになるのを避けると、頭を下げ、早足に歩き去った。僕も軽く頭を下げて、エレベーターホールに向かった。エレベーターの昇降ボタンの前で、僕はポケットから携帯電話を取り出した。降りて帰る前に、部長に電話をしようと思った。憂鬱だったが、そうした方が良いはずだった。おそらく、電車に乗って座席に座り込んだ瞬間、僕の体力は完全にゼロになって、誰かに何かを話す力も全く失われてしまうだろうと思ったからだ。暗い言葉しか思いつかなくても、話すしかなかった。僕は携帯電話を握りしめ、何からどうやって話し始めたらいいのか考えた。だが集中することができなかった。背後が騒がしい。エレベーターホールの曲がり角の向こうで、複数の人間が何か大声で話し合っている。さっきすれ違った連中だろうと僕は思った。携帯電話のアドレス帳を呼び出しながら、とにかく終わったのだということを伝えればいい、と考えた。部長は病院のベッドの上だ。複雑な話をされたところでどうしようもないだろう。背後から声が聞こえた。

「TOTOの楽曲使用許可は取れたのか?」

「大丈夫です。1年間の契約金も確認済みです」

 別の誰かがそう答えた。僕は携帯電話を操作する手を止めた。

 僕は振り返った。そして廊下の曲がり角から少しだけ身を乗り出して、耳を澄ました。誰かの電話が鳴る。声が聞こえてくるのは「代理店の間」からだった。電話に出た誰かが「もしもし」と大声で答える。しかしそれ以上は、もう具体的な言葉はほとんど聞き取れない。電話に出ている者以外にも何人かが同時に喋っていて、言葉が何重にも重なり、ざわめきとしか聞こえない。僕に聞き分けることができたのは、そのざわめきがいら立ちや焦りに満ちているということだけだった。僕はさっきぶつかりそうになった紙袋に描かれたロゴマークを思い出した。それは見慣れた大手広告代理店のマークだった。

 猛烈に嫌な予感がする。

 そして僕はすぐに首を横に振った。「TOTOの楽曲使用許可」と、確かに今誰かがそう言った。それは予感ではなく現実だ。そしてそれはどう考えても有り得ないセリフだ。僕には意味が分からない。何故そんなセリフが僕らや今川以外から聞こえてくるのだろう? 彼らは誰だろう? 誰に呼ばれて、何をしにここに来たのだろう? どれだけ耳を澄ましても、焦燥に満ちたさざめきしか聞こえず、いらいらするだけだ。僕は一歩だけ廊下の角から足を踏み出した。すると声たちの中から、唐突に「久保田玲」という名前が聞こえてきた。僕は目を閉じて耳を澄ました。誰かが答えた。

「いえ、もう必要ないそうです」

 それが社内の決定権者の意向だからです、と言う今川の表情が僕の脳裏に浮かんだ。

 それは嘘だ、そう思った時、僕は自分の全身に鳥肌が立っていることに気が付いた。僕は目を開き、そして後ずさりした。彼らの声は急速に遠ざかって行く。そして代わりに僕の頭の中に何かが見える。それは僕にこう教えている。何が起きているのかなど考えるまでもないと。彼らがここにいる理由、それはたった一つしかない。鳥肌を立てているのはその事実と、僕の直感だった。それは電気信号となって僕の全身を走り抜けた。

「分かった」、と僕は呟いた。

僕にはずっと分からなかった。「アフリカ」がどこから来たのか。なぜ「アフリカ」なのか。

 彼らがここにいる理由。それはたった一つしかない。「アフリカ」を提案したのが彼らだからだ。昨日よりも早く。僕たちが昨日、神栄不動産からアフリカのコンセプトを伝えられる以前に、彼らが神栄不動産にそのコンセプトによるプレゼンをしていた。間違いない。三広の提案があまりにレベルが低く、いつまでたっても決定案とならないのに業を煮やした神栄不動産の誰かが、彼らに声をかけ、ひっそりと提案の準備をさせていたのだ。それが「アフリカ」で、神栄不動産の上層部はすでにそれを採用することに決めていた。僕らに黙って、いつでも彼らに首をすげ替えられるように。そして今彼らは諸々の調整事項を踏まえて再提案にやってきた。

 そうに違いない。全てが予め準備されていたのでなければ、今ここに既に別の代理店がいるというスピードはあり得ない。

 思い切りカーテンを開け放ったように、砂漠のど真ん中に石板が屹立するように、数学の美しい模範解答のように、僕の疑問の全てが一瞬のうちに直列回路となった。それは僕にこう教えていた。これは誰かが描いた物語だと。

 既に代役は準備されていた。それなら何故、僕らにわざわざもう一度プレゼンを、しかも別代理店と同じコンセプトでやらせたのか。そう自分に問いただした時には答えは明らかだった。たった今僕らが敗北したという事実が、その解答そのものだ。僕たちは今日ここで負けなくてはならなかった。負ける必要があった。つまりそれは、神栄不動産が、僕たちを切る、明確な理由を求めていたということだ。一つの代理店の首をすげ替えるのは簡単なことではない。神栄不動産の社内でも、きっと思惑は一つではない。中島部長は以前言っていた。神栄不動産は全国規模でマンション事業を展開していて、東京だけでなく地方でも三広と仕事をしている。バブル期以前からの付き合いでもあるし、互いの会社で上層部同士が個人的に親しくしている関係もある。それに三広には、神谷さんが進めていた「ツシマモール」の施策提案も、実は彼らの知らないところで既にコネクションは破綻しているが、あった。だから簡単に切ることはできない。だが、同じ条件下でプレゼンをやらせて、上がってきたものを見比べて、レベルが低い方を切るとなれば、社内での調整は容易になる。今川たちには、三広からはろくでもない提案しか上がってこないという自信があった。「ツシマモール」の代替策も、きっと「アフリカ」の中には含まれていただろう。そしてそれに念押しするべく、久保田玲というまともに考えれば使えるはずの無いタレントを絶対に使わせるように指示し、広告予算を五億円に圧縮させようとまでした。初めからすべて無茶な要求だということは神栄不動産の方が僕らより承知していた。もしそれらの要求が叶うことがあったとしても、それはそれで構わなかった。クオリティでレベルの保証されない代理店でも、コスト面でそれを挽回できるなら、蟻としてこき使う価値はあるからだ。

 そして僕たちはそれに到達できなかった。三広は全く利用価値の無い広告代理店であることがはっきりしたので、堂々と別の代理店にチェンジすることができる。

 誰もそれを信じなくても、それが彼らが描いたシナリオだ。彼ら、というのが今川や大沢なのか、神栄不動産の上層部なのかは分からない。だが誰が実際にそれを描いたのかなどどうでもいい。重要なのは、僕が何も知らずに、彼らにとって一〇〇%完璧なピエロを演じ切ったということだ。そして僕が、もし自分がピエロだと分かっていたとしても踊らざるを得なかったということだ。

 これは常軌を逸した筋書きなのだろうか。それともこれさえ、おびただしいよくある話の海の中の一滴に過ぎないのだろうか。これは僕たちのビジネスにおけるルールを逸脱しているのだろうか。だとしたらそもそも何がルールなのだろうか。僕には分からなかった。これが事実だということ以外は全く分からなかった。

 僕が思ったのはこういうことだった。神栄不動産が三広にこうした経緯を改めて説明することなどあり得ない以上、これは永久にただの僕の推論でしかない。ということは、僕は誰かにそれを証明して、嘆いたり憤ったりすることもできない。戦いはすでに終わっている。

 これが今の僕のリアルだとしたら、僕は永久にリアリティにはたどり着けないかもしれない。

 僕はエレベーターのボタンを押した。扉が開き、僕は一階のボタンを押す。20秒もしないうちにエレベーターは一階に辿り着く。そこには涼子がいた。

 おつかれさま、と言う涼子の顔は、笑っていた。

 僕は笑えなかった。「帰ってなかったのか」

「腹減ったよ。なんか食いに行こう」

 僕は頷いて、時計を見た。まだ9時45分だった。

「まだランチタイム前で、開いてる店が無いよ」

 涼子は首を横に振った。「マクドナルドに行こう」

 僕と涼子は二人で新宿の街を歩き、マクドナルドを探した。どんな場所でも数百メートル歩けば、マクドナルドは必ず見つかる。

 駅の近くで見つけたマクドナルドは、学生たちで混雑していた。世間が今夏休みなのだということを、僕は改めて思いだした。僕の財布にはほとんど一銭も入っていなかったので、涼子が注文をし、どうにか空いている席を僕が見つけた。涼子はハンバーガーが載せられたトレイをテーブルの上に置き、僕と向かい合って座った。

 いただきます、と言って涼子はがつがつとハンバーガーに食らいついた。だが僕は、包装を開いたところで手を止めた。限界を超えて腹が減っているのに、目の前の物を口に入れたいという欲求が、体のどこからも湧いてこなかった。

「食べなよ」

 涼子が僕を見てそう言った。僕は頷いて、息を吸い込んでハンバーガーを齧った。得体の知れない、何でできているのか分からない肉以外の何物かを口の中に入れているという感覚がした。だが僕は食べ続けた。コーラを口の中に流し込み、ハッシュドポテトを一口で一気に半分頬張った。

 ポケットの中で携帯電話が震え続けていた。だが僕は、それに出ようとは思わなかった。これを食べ終わるまでは絶対に電話には出ないと決めていた。

 僕は涼子に訊かなかった。何故今日、あの絵を見せたのかと。何故、初めから僕たちが負けることが分かっていたのかと。

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