第10話

 冷房の効いた電車に乗り込むと、ジャケットを脱いで座席の上に置いた。ついでにネクタイを外して丸め、かばんの中に放り込んだ。僕と涼子以外、車内には誰もいなかった。これから一時間半、僕達は延々この電車に揺られて、東だか北だかに突き進んでいく。眩しい日差しが永久に窓から差し込む車内を眺めて、これが現実だ、と僕は考えた。誰も行かないところに誰でもない誰かを集める仕事をしなくてはならないのだ。

 僕と涼子には、話すことが何も無かった。僕は仕事の話をする気にはなれなかったし、涼子にとっても、自分の考えは外に出すまでは自分の中だけのものだからだ。だから僕達は無言だった。無言でいると勝手に記憶が蘇ってくる。僕達が昔、何度かこうして、電車に並んで座ったことを僕は思い出した。あの時も僕達は大体無言だった。しかし、あの時は周囲にもっと多くの人間がいた。誰もが誰かに向かって何か話しかけていて、電車が暗闇を突っ切って走り、レールをがたがた言わせる音で、僕達は話そうとしても自分達の声も聞き取れなかった。今、車内はまるでリニアモーターカーのように静かだった。僕と涼子は三十センチくらい間隔を空けて座っていたが、彼女の呼吸まで聞こえてきそうな気がするほどだった。僕は深く息をついた。僕は外出先を記すボードに、「17時帰社」と書いて会社を出てきた。でも実際にはもっと時間がかかるかもしれない。そしてそれはたった4時間だが、トラブルが山積みになるには充分な時間だった。知ったことか、と僕は考えた。席にいたところで僕では解決できないだろうし、解決できることなら、それは他の誰でもできることだろう。そう言い聞かせていたので、僕は憂鬱になり、せっかくの久しぶりの沈黙にもまるで気が休まらなかった。

「ラジオ体操、ってあるじゃん」

 涼子が前触れもなくそう言った。突然だったので、僕は正確に聞き取れず、「何体操だって?」と聞き返した。涼子はほんの僅かに僕の方に顔を向けて言った。

「ラジオ体操。やったでしょ。高校の時はもうなかったっけ?」

「ないよ。あったって高校生はやんないだろ」

「じゃあ小学生のときやったでしょ。あれ、夏休みの時やんなかった? 朝6時だか6時半にさ、学校の校庭に集めさせられて、ラジオからあの特徴的なイントロが流れ始めて、ちゃんちゃらちゃちゃちゃちゃ跳んだり跳ねたり。今考えると死ぬほど馬鹿げてるけど、あれに全部出席すると夏休みの最後にご褒美で花火セットがもらえるというやつ」

「知らないよ。お前の小学校だけのローカルな報酬だろ。夏休みにラジオ体操に駆り出される風習はあったけど」

「あれさ、今考えると物凄く不思議なんだけど、ラジオ体操の始まりは大体、NHKのアナウンサーか体操のお兄さんとかがMCやるんだよね。『今日はどこそこ県の何とか町に来ております。何とか運動場には死ぬほど町民が集まっております』みたいな。

 そしたらさ、本当に、暴動を起こすために集まったんじゃないかと思うぐらいの大群衆の歓声がさ、わあああって聞こえてくるの。あれよく考えたら絶対嘘だよね。たかがラジオ体操にあんなに人が集まるわけないじゃん。幾らとてつもなく暇な町だとしたってさ。何が悲しくて6時半からラジオ体操やるために集まってわあああって叫ばなくちゃなんないの」

「確かに、そうだ」

「でもさ、ひょっとしたら本当なのかもね。ひょっとしたらサクラとかやらせとかじゃなくて、NHKが呼びかけると、本当にラジオ体操の為に町中の人たちが集まるのかもね。そして彼らは暴動じゃなくラジオ体操をやるのかもね。

本当かもしれないし、嘘かもしれない。

そう思うと、面白くない?」

「何が言いたいんだよ」

「私達の広告のことだよ。『広告は本当の嘘を付いた奴が偉い』。そういうのやろうよ。一番馬鹿馬鹿しい嘘をついた奴が勝ち」

「広告はそうは行かないよ。知ってるだろ? 嘘をついたら駄目なんだ。車が空を飛ぶCMを作ったら駄目だし、配合される成分や製造年月日の表示は正確じゃなきゃいけないんだ」

「知ってるよそんなの。でもさ、私の直感だけど、どうせこのプレゼン、まともにやったって絶対に突破できないよ。めちゃくちゃやってやんないと。嘘なんてさ、要するにばれなきゃいいんだから」

「お前ひょっとして、いつもそんな風に仕事してきたのか?」

「本当かもしれないし、嘘かもしれない」

 僕は涼子に言い返そうとしたが、足元に置いたカバンから震動が伝わってくるのに気が付いた。携帯電話の震動だった。

「電車の中は通話禁止だよ」

黙れ、と僕は言って、受話ボタンを押した。もしもし松山です、と僕は応えた。

〈ああー松山さん、こんにちは。吉田です。先日はどうも〉

 どの先日のことか分からなかったが、誰にでも口癖というものがある。僕は、こちらこそどうも、と応えた。吉田さんは、津島プロジェクトとは別の、埼玉方面のマンションプロジェクトのWebプロデューサーだった。簡単に言えば、物件の広告HP(ホームページ)を作り、管理するのが仕事だ。そして僕はそのプロジェクトの営業担当者だった。広告代理店では、営業が一プロジェクトだけを担当していれば済む、ということはまず無い。必ず同時に別プロジェクトの担当者になる。不動産広告では、仕事が始まってから実際に請求できるまでの回収スパンが長く(ひどいものだと納品してから一年後に請求ということもある)、一営業に一物件だけの売上では会社の経営は立ち行かないからだ。仕事の出来る営業になれば十案件以上を同時に掛け持ちすることもある。

 だが僕はこの時、津島プロジェクトのことだけで頭が一杯だった。今お電話大丈夫ですか、と訊く吉田さんに、僕は、電車の中ですけど、と答えた。吉田さんの声は、駅前あたりの喧騒の中から聞こえてきて、落ち着かない響きだったのだ。嫌な予感がした。

〈ちょっとご報告がありまして。今日、埼玉のHPを更新したんですけど、その件で〉

 はい、と僕は答えた。昨日の夜10時に客からメールで依頼が来たのだ、「HPの情報を以下の通り更新してください、明日の午前中までで結構です」。よくある事だし、よくある言い方だった、明日の午前中までで結構です。僕はその客に、今日はこんな時間なので、どうしても明日の午前中というのは難しい、明日中ということでご容赦いただけないか、と頼もうと電話をしようとしたが、その客はメールを打った瞬間逃げるように退社していた。僕は帰宅していた吉田さんを携帯電話で呼び出して、急ぎの依頼をしなくてはならなかった。吉田さんは内心はともあれ快く引き受けてくれた。そして約束どおり午前中にホームページの情報を更新してくれた。

〈その更新の内容の一部について、お客さんから、さっき私に直接連絡があって〉

「何ですか」

〈あのマンション、駅から徒歩5分で築1年の物件じゃないですか。その表記が、『徒歩5年、築1分』になってたって言うんですよ〉

「え?」

〈お客さんが松山さんと私に寄越した、更新内容の文面が間違ってたんですよ。私はそれをコピー・ペーストしちゃったから、間違いに気がつかなかった。すいません。ホームページはもう直しておきました〉

「ありがとうございます。助かりました」

〈でも〉と吉田さんは言った、〈その時お客さんに一緒に言われたんですよ、『昨日発送したDM(ダイレクトメール)でも同じ間違いをしてる』って〉

 はい、と僕は反射的に言った。言ったまま絶句した。

〈三広さんで5000部印刷したDMの告知文でも、『徒歩5年、築1分』になってるって。至急発送を取りやめたいということです。もう発送してるなら、何とか引き止めてくれって。松山さんに電話をしたけれど、何回かけても出てくれないって言ってました。それで、私からも松山さんに連絡をとってくれるように言われました〉

はい、と僕は答えた。「了解しました。連絡ありがとうございます」

僕は電話を切った。

「まーたトラブル?」と涼子が言い、僕は何も答えなかった。

そしてすぐに、DM発送代行の協力会社の番号に電話した。呼び出し音が耳元で鳴るのを聴きながら、僕のミスだ、と考えた。考えられないくらい馬鹿馬鹿しいチェック漏れだ。もし涼子に電話の内容が聞こえていたら彼女は大爆笑しただろう。僕は「徒歩5年、築1分」のマンションを想像した。それはアフリカの奥地に建つ、自然のままの暮らしが楽しめる掘っ立て小屋で…… しかし僕はすぐにその像を振り払った。憂鬱な話をしなければならなかったし、僕には分かっていたからだ。

 多分もう間に合わないだろうと。昨日発送された5000通のDMを、一軒一軒の郵便ポストから回収することなどできはしない。間に合わないというのはどういうことか? 責任の所在が代理店、すなわち僕にあるとなれば、客は、今回のDMの発送代行にかかった一切の費用を払わないということだ。デザインの制作費、印刷費、封筒に宛名シールを貼って発送する封入費と発送費、おそらく総額三〇〇万円以上がそのまま借金になる。そして大体は記載が間違っていたことに対する「お詫び広告」を打つのだが、今回のケースはどうだろう? 僕は今回のDMが印刷された日のことを思い出した。あの日は確か、僕は津島プロジェクトの4回目のプレゼンの準備に追われていて、その合間を縫ってこのDMを入稿した。スケジュール的に色校正を出して確認する余裕は全くなく、入稿後即印刷に入った。間違いに気が付かなかった最終の責任は、僕か客か、どちらにあるのだろうか? 

 まだ呼び出し音が耳元で鳴り続けていて、スタッフが電話に出てくれるのを僕はじっと待ち続けていた。そして僕は頭の中で「詫び広」の原稿を考えた。でもそれが使われることはあるのだろうか? 訂正の内容が馬鹿馬鹿しすぎるから、ではなく、5000通のうち4950通まではゴミ箱に直行して、どうせ誰からも苦情など来ないのに。


                   ☆


僕は電車を降りてもまだ電話で話し続けていた。津島駅の改札の前で、僕は携帯電話を肩と耳で挟みながらメモを取っていた。結局、DMは発送される直前にぎりぎりで止めることができた。だが、それは既に代行業者から各地域の配送店に発送されていたため、十ヶ所以上に散らばった各配送店に、僕とスタッフは手分けをして電話を掛けまくった。僕とスタッフはお互いに電話を掛けた配送店の名前を確認しあって、そして僕が客先に報告をして、殺されるほどの勢いで怒鳴られた後には、電車を降りてから30分以上経っていた。

 僕は駅前の小さな屋根付きベンチに腰掛けて深く深く煙草を吸った。獅子脅しのように機械的に。屋根の上からぐったりとしなだれる植物の向こうに見える青空を見上げながら煙を吐き出すと、額からだらだらと汗が流れ落ちた。僕は辺りを見回した。前に来たときと同じ、何も無い空間が僕の眼前に広がっていた。風景の中にあるのは三つ、まずは目に突き刺さるほど青い空、もう一つは今にもゾンビの大群に乗っ取られそうな巨大なショッピングセンター、そして、白い板状の囲いで二〇〇メートル四方を覆われた津島プロジェクトの建設現場だけだ。そこにはまだ工事車両は一台も入り込んでおらず、辺りは風の音だけが鳴る静寂に包まれていた。ここには蝉がへばりついて鳴くための木さえろくにない。

 涼子はどこへ行ったのだろうか? 二本目の煙草を踏み消した後、僕は携帯電話で涼子を呼び出した。彼女は呼び出し音が九回鳴ったところで電話に出た。

「今どこにいる?」と僕は訊いた。

〈ショッピングセンターでアイス食ってる〉

「なんだって?」

〈だってくそ熱いんだもん。まじで他に何も無い町だし〉

「お前、何しに来たんだよ」

〈現地の人の生活を体験するのはインスピレーションの源泉ってことで〉

「今からそこに行く」

 僕はそう言って電話を切り、流れた汗がすぐに蒸発するような暑さの中を歩き出した。シャツのボタンを二つ外し、袖をひじの上まで捲り上げ、建設現場の囲いを横目に見ながら歩いた。

 ショッピングセンターの最上階は三階で、そこにあるカフェテリアの窓際は津島町を見渡せる展望スペースになっていた。僕は、アイスをぺろぺろなめ続けている涼子の前に座り、窓の外を見た。たった三階の高さなのに、ずいぶん遠くまで見通せる。と言っても、見えるのは僕らのマンションの建設現場と、いくつかの民家と、後は延々と広がる畑ばかりだった。三階でこれなら、三十八階建てのマンションの頂上からは一体どんな風景が見えることになるのか、全く想像がつかなかった。

「すげえ町だろ?」

 僕は呟くようにそう言った。涼子はアイスをなめながら頷いた。

「こりゃ想像以上だわ。想像させるものが何も無い」

「どうする。しばらくここにいるか?」

 涼子は首を横に振った。

「あんたを待ってただけだからもういい。ずいぶん長いことぶちのめされてたみたいだね?」

僕は頷いた、「毎日こうだって。一日に一回は額に銃弾が突き刺さる」

「あんたちょっと寝たほうがいいんじゃない? ひでえ顔してるよ」

「寝てる時間は無い」

「そう思い込んでるだけだって。だって、今は別にやること何も無いでしょ」

 僕は首を横に振った。「建設現場に行こう。まだ工事は何も始まってないけど、広さだけは分かるだろう」

涼子は立ち上がり、ゴミ箱にアイスクリームの包装紙を捨てると、僕と並んで歩き出した。

 僕は並んで歩く涼子の横顔を見た。彼女は少し俯き気味に、唇をかすかに動かしていた。何かを考えているときの彼女の顔だった。何か思いつきそうか、とか、何かヒントがいるか、とか、僕は彼女に何も言わなかった。涼子がもしも何か思いつきかけているのなら、声に出されるまで僕は待つしかなかったし、もしも何も思いつけないのなら、静かにしているほうがいい。かつての僕と涼子の関係もそうだった。喋る必要のあるときだけ話せばよかった。

 だがあのころと違うことがある。あのころは、待っていればいつか勝手に言葉が見つかった。音楽か何かを聴いていれば、そのリズムに合わせて適当に何かを喋り続けることができた。それとも、本当に見つからないときは、沈黙が言葉以上の意味を持った。しかし今は、どれだけ待っていても僕の中から言葉はやってこない。そして沈黙は、ほとんどの場合無益どころか有害なものになった。僕がこの町に出逢って3ヶ月以上たつが、僕はその間、この町を表現する肯定的な言葉を一つも思いつくことができなかった。ある時僕は気が付くことになった。僕がこれまで喋ってきた言葉は、自分自身を表現する言葉だけであって、他人や対象を表現するものではなかったのだと。ビジネスでは、自分を表現することなど誰も求めてはいないのだという当たり前のことに気が付いたのだ。そのおかげで、僕は長いこと沈黙し続けている。まだ僕の上司も、同僚も、僕がどんな人間なのかまるで知らないでいるし、僕も彼らのことは理解できないままだ。この町の風景を見ていると、僕にはもう分からなかった。自分から想像力がなくなってしまったのか、そもそもそんなものはどこにも無かったのか。たったの半年前まで僕は何かを必死になって考えていたような気がするのだが、何を考えていたのかほとんど思い出せなかった。

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