第9話
僕と涼子は、二人ともミーティングルームでコーヒーをすすりながら無言だった。テーブルの真ん中には僕が涼子に持ってこさせたラジカセが置かれている。多分こういうとき、話し始めるのは営業の僕の役目だった。しかしコーヒーを一杯飲み干すまでは、僕は頭を整理して何も喋りたくなかった。
時間が経つにつれ、少しずつ僕にも状況は理解できるようになり、そして身に沁み始めた。いつまで待っても、ここには僕達以外の誰も現れない。上司は全員出払っていて、僕達二人を顧みるような暇があるものはどこにもいない。藤崎さんには中島部長から今頃別れのあいさつが告げられている。僕達が話し始め、僕達が考え始め、僕達が作り始めない限り、「アフリカ」の広告提案は明日の9時までに完成しない。
僕はTOTOのCDをケースから取り出して、CDラジカセにセットし、再生した。数時間前と同じように、人を夕暮れの草原に誘うような「アフリカ」のメロディが流れ始めた。
僕は歌の最初から最後まで無言だった。涼子も何も喋らなかった。
僕はゆっくりと話し始めた。
「これが、僕たちの広告コンセプトだ。曲名は『アフリカ』。歌うのはアメリカのロックバンド、『TOTO』。今日の朝プレゼンした広告案がひっくり返されると同時に、僕はこの曲を客に聴かされた。今から20時間以内に、この曲のイメージに基づいた広告ビジュアルを作りあげて、明日午前9時に新宿の神栄不動産本社でプレゼンテーションしなくちゃならない。ところで、お前、何を広告するのかは知ってるか?」
涼子は首を横に振った。そうだと思った、と言って僕は頷いた。
「案件は、人口六万五千、総面積約百平方キロの青塚市のちょうど中心に位置する、津島駅徒歩2分の三十八階建て超高層タワーマンションの広告だ。
当初のプレゼンテーションの時に三広が提出した事前のマーケット調査では、市内の年間マンション供給戸数は二五〇。今回の販売計画で神栄不動産は一年で売り切ることを目標にしている。このプロジェクトの総戸数は六〇〇。まともにやっていたら、市内の全需要を吸い上げたとしても、完売まで二年半近くかかる計算だ」
「それって『不可能』って意味じゃないの?」
「クライアントに言わせれば、『それを可能にするのが代理店の役目で、出来なければ必要ない。』だ」
「予算は?」と涼子が聞いた。
「今のところ、六億」
「不動産広告の金銭感覚って分かんないんだけどさ、それだけ聞くと凄い額だけど、実際にも大金なの? 目標に到達するまでの資金として」
僕は首を横に振った。「分からない。俺だって他の広告をやったことないから。結構それなりにいろんなことが出来る額だとは思うけど、問題は、このど田舎に六〇〇家族を集めるってことだから、それを考えたら、一年間でもし売り切るとしても、見込みどおり最低二年半キャンペーンを続けるとしても、多分相当厳しいだろうな」
でも、と僕は続けた。
「でも今俺らはそんなこと考えなくていいんだ。客からのプレッシャーがめちゃくちゃに厳しいプロジェクトだってことを分かって欲しいだけで。今考えなくちゃならないのは、明日までにどんな広告ビジュアルを出すか、ってことだけだよ。どの媒体に投下するだとか、キャンペーンの時期に応じた予算配分だとか、今は考えなくていい。どんな面白いことが出来るかってことだけ考えればいい」
「マーケティング的にシナリオを整理しなくていいの?」
「今更そういう理屈は客も求めてない。誰が見ても一瞬で分かる答えを求めてるんだ。つまりそれは絵とキャッチコピーだ」
涼子は顎に手をやって黙っていた。そしてその姿勢のまま話し始めた。
「さっきの歌は? タイトルは、『アフリカ』だっけ?」
僕は頷いた。
「客に聞かされたらしいけど、向こうの希望としてはとにかくこれを広告にすればいいってこと?」
「いや、もう一つでかい条件がある。多分これが最大の問題だ」
僕はそう言って、もって来たファイルから、一枚のA3サイズの紙を取り出した。久保田玲が朝と変わらない笑顔で、「津島、大好き!」と宣言している。
「なにこれ?」
涼子がそう聞いた。僕も数時間前そう言いたかった。
「ついさっき没を喰らった案だよ。でもその時、客から条件を付けられたんだ。『この案は没。ただし久保田玲は使う』って。たぶん、客先の広告担当か、神栄不動産の社長が、熱狂的な久保田玲のファンなんだろう。そうとしか思えない。でも、結論から言うと、久保田玲はNGだった。不動産広告自体出演しないと決めているそうだ。
だから俺達は決めなくちゃならないんだ。久保田玲の代わりになるタレントを使うのか、それとも全く使わずに何らかのビジュアル提案をするのか」
「使えるかどうか、全く裏取りもせずに出したんだ。よくそういうことやるね」
「しょっちゅうやってるみたいだよ。どうしてそうなるのか俺には分からないけど、いつも何故か時間がないんだ。だから、いつも綱渡りだ。
どっちにしても、明日久保田玲がいない広告案を見た時点で、客先の広告担当は怒り狂ってその時点で提案は没になるかもしれない。そしたら多分俺らは終わりだ。きっと、暫くは事実上神栄に『出入り禁止』になるだろうな。そしてプロジェクトの六億円の売上見込みもそのまま吹っ飛ぶ。五回のプレゼン提案費用を藤崎さんに払った借金だけが残る」
僕は静かな声でそう話した。そして、自分の心の表面のすぐ下では、どうでもいい、と思いながら話していることに気が付いた。だってそうだ。六億円の売上が吹っ飛んで、客先から出入り禁止になることで、僕にどんな実質的な被害がある? プロジェクトの失敗の全責任は僕の上司たちにあり、そして彼らでさえ懲戒免職されたり左遷されたりするわけではない。せいぜい冬のボーナスが減るぐらいだろう。個人情報を漏洩したとか癒着があったとかいうならともかく、単純に広告提案が客の気に召さなかったというだけなのだ。むしろ僕は終わらない仕事から解放され、次に担当になるプロジェクトではもう少しまともな販売市場の物件を広告出来るだろう。
だが僕は話し続けた。
「だからひょっとしたら、俺らの今日一日の仕事は明日の朝には全部無駄になってるかもしれないけど、それなりにきちんとしたものを持っていかなくちゃならないんだ。少なくとも一発で『没』って言われないようなものを。正直に言って、まだ俺何も考えはまとまってないけど、例えば単純に『ライオン・キング』のオープニングみたいな絵をそのまんま持って行ったりしたら、簡単に撥ねられると思う。『アフリカ』を表現するだけじゃない。表現してなおかつ突き刺さって残るようなものにする必要がある」
僕はそう言って涼子の顔を見た。
「なるほど」と涼子は言った。「伊達にプレゼン五回失敗してないね」
「ああ」と僕は言って頷いた、「プロジェクトが始まって以来数ヶ月間、誰ひとり解答が分からないままここまで来たんだ」
「それは?」
彼女が指し示したのは、僕が持ってきた、「キャスティンガー」のタレント候補のファイルだった。僕は涼子にそれを渡しながら、久保田玲の変え駒案だ、と言った。
涼子はそれをぱらぱらとめくりながら言った。
「ねえ、はっきり言っていい?」
「何だよ」
「わたし、さっきいきなり部長からただ『やれ』って言われただけだから、このマンション計画のことさっぱり分からないけど、一つだけはっきりしてるんだわ」
「何が?」
「私今からこの津島町ってとこに行くわ。行ってちょっと様子を見てこないと、なんも思いつかないと思う」
一瞬、僕と涼子は黙って見つめあった。
それはその通りだろう、と僕は心の中では思った。だが口に出してはこう言った。
「言うの忘れたけど、ここから津島町まで、どれだけ電車が高速で突っ走っても片道1時間半かかるんだ。1時間現地でロケハンするとしたら、帰ってくるのは夕方の5時になる。
明日の9時にそれで間に合うのか?」
「だって、ここで5時まで座って考えてても、多分何にも思いつかないよ、わたし」
「間に合うのかって聞いてるんだ」
「帰ってくるのが5時だろうが6時だろうが、間に合わさなきゃならないなら間に合わすでしょ」と涼子は言った。
僕は眉間を撫でた。いつもそうだ。何年かぶりに、ほんの少し会話をしただけで僕は分かった。涼子は昔と何も変わっていない。彼女は直感にいつも従う。それはリスクを犯してリターンを得るという計算ではなくて、ただ単に考えるのが面倒で直感を優先させているだけだ。僕は考えた。ここで話し続けるのと、涼子を行かせるのとどちらがいいのか。だが僕は自分で気がついていた。今ここにあるのはゼロだ。開示されていないイメージは、全て涼子の頭の中にある。彼女がそれを引き出すための方法を見つけることが、僕の今の仕事だ。つまり涼子と違って、考えて、判断するのが僕の役目だった。
「分かった、任せる」
涼子は頷いて、立ち上がった。
そして彼女は僕の顔をじっと見つめて動かなかった。
「何だよ、早く行けよ」
涼子は首を横に振った。
「行き方がわかんない」
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