第8話
僕と涼子が最初に出会ったのはもう8年以上前のことで、それは今の僕には大昔と言っていいくらいの遠い過去のように感じられた。何故だか僕自身にも不思議だが、そこに戻るくらいなら小学生時代に戻る方が遥かに近い道のように見える。だがどれだけ時間が経ったとしても、たとえ消し去ってしまいたいと思うような過去でも、一旦刻み付けられた記憶は、些細なきっかけですぐによみがえる。特に女の記憶はそうだ。どれだけいい加減な関係で、どれだけすぐに別れ、どれだけ嫌いな女だったとしても、男は女のことは忘れない。一番重要だったことや、大切だったことは忘れてしまっても、破かれた漫画の表紙や、いらいらしながら待ち続けた時間のことは、すぐに思い出す。
簡単に言うと涼子はそういう女だった。基本的に約束は守らない。デート中に別の誰かの電話に出て戻らない。部屋の掃除はしない。自分のことしか考えない。でかい声で人の悪口を言う。借りた金は返さない。唇の端にハミガキ粉がこびりついている。綺麗に焼けた目玉焼きをぐちゃぐちゃにすりつぶして食べる。
付き合っていたのはたった3ヶ月だったが、3ヶ月も保ったのが不思議なくらいだった。その期間は、僕の人生の中でそれだけ別の時空に存在するかのように孤独に切り取られて取り残されている。それは僕と涼子が高校二年生だった十一月二十三日から翌年の二月十四日までのことだった。勤労感謝の日に付き合い始め、バレンタインデーに別れたわけで、出鱈目だった僕と涼子の関係で明確と言える事柄は唯一それだけだった。
そもそものきっかけは、僕が高校生の頃書いていた小説を文化祭で演劇化する羽目になったことからだった。今思えば、あの日から僕の人生は狂い始めた。中ぐらいの進学校の中ぐらいの成績の連中が集まるクラスだったからかどうかは分からないが、文化祭というものに対して士気はカケラもなかった。そして、最もやる気のなかった一人が僕だったと言っていい。僕はそんなことをしている暇があったら学校の帰りに一人で映画館に寄っていくか、図書館で本を読んでいたいと思っている、典型的な文科系ひきこもりだった。
だがどうしてもクラスの出し物として何かを選んで決めなければならないという日、誰かが言った、「松山の小説を演劇にしよう」。
その罪状は提出されるやいなや、被告の権利が読み上げられることもなく、弁護士による陳述もなく、情状酌量の余地もなくあっという間に賛成多数で可決された。僕の反論は完全に封殺された。彼らは何故僕が反対するのか理解できなかった。僕にとってその理由はただ一つで、明確だった。クラスの全員、僕が時々小説を書いていたことは知っていても、読んだことがあったものは誰もいなかったからだ。
そして、僕にはスタッフを選ぶ権利も認められていなかった。クラスで一番の男前と美少女が主人公に選ばれた後は、脇役や裏方が順々に決められていった。まだどんな話になるのか何も決まっていないのにだ。そしてそんな中、杉山涼子が手を挙げた。
「私、演出監督やってもいいよ」
僕はその時、その声が誰だか分からなかった。振り向いて彼女の顔を見ても、声と顔が一致しないくらい、同じクラスだったにもかかわらず彼女のことを知らなかった。涼子は成績も別に良くはなかったし、「不細工ではない」という程度の容貌だったし、友達も多くなく、いつも一人で絵を描いていた。涼子が絵を描いていることは多くの同級生が知っていたが、彼女がまともに描いた絵を誰も見たことはなく、クラスの中で普段はまるで目立たない存在だった。
つまり、僕と涼子はよく似ていた。
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