第7話

会社に帰りたくはなかった。座っているだけで仕事が増えていくからだ。それに、僕の目の前で回線が焼ききれるんじゃないかと思うほど永久に電話が鳴り続けていて、僕はその取次ぎをしているだけで一歩も動くことができなかった(電話番をしてくれるはずの女性派遣社員はいつも喫煙ルームで煙草を吸っているか、腹痛で欠勤しているかのどちらかだった)。

だが僕が会社に戻ってきたのはちょうど昼時で、社内の人間も電話をかけてくる客も、皆昼食に出かけていて、フロアはエアコンの空調音が聞こえるほどの奇跡的な静けさに包まれていた。僕は決めていた通り、自販機で缶コーヒーを買い、自席に座って息を吐いた。パソコンの電源を入れ、メールソフトを立ち上げた。僕はほとんどの受信メールを最初の一行だけ読んで無視したが、一つのメールに引っ掛かった。

プロモーション担当の神谷さんからのメールで、今日の打ち合わせについての不満が延々列記されていた。何のために私が会議に参加したのか分からない。クリエイティブ方針が決定していないという事情は承知しているが、ツシマモールの社長との交渉(結局いつ運営開始できるのか?)も進められず、当初予定の工期より3週間も遅れている。

僕は最後までメールを読んだが、ただ眺めただけで実際には全く頭に入らなかった。カロリーメイトをかじりながら缶コーヒーを飲み干すと、僕は携帯電話で山本に電話した。山本は何度コールしても電話に出なかった。僕は山本の携帯電話の留守電に、折り返し電話してもらえるよう伝言を残すと、次に部長に電話した。部長は五回目のコールで電話に出た。

〈久保田玲、どうだった?〉

 部長はすぐにそう聞いた。僕もすぐに、NGでした、と答えた。

〈だろうな。山本はどうした?〉

「連絡がつかないので、留守電に伝言を残しておきました」

〈そうか。悪いけど俺も打ち合わせを抜けられそうにない。お前一人で悪いけど、クリエイティブの皆川部長に会いに行って、相談してきてくれ。新しいクリエイティブが至急に要るって。簡単な事情は、もう俺から電話で説明してあるから〉

 部長はそう言った。最近よくあるパターンだなと僕は思った。もちろん悪いパターンだ。部長はいない。他の上司もいない。僕一人で別の部署のスタッフに相談しに行き、僕はろくに事情とそれに対する対応策の方針も説明できない。無駄に時間が過ぎていき、結局何一つ解決しない。

僕は集中力を取り戻さなくてはならなかった。体は弛緩し頭は汗でふやけ、何かを考えようとする意志が自分の中のどこにも見つからなかった。電話を切り、僕がデスクに座ってぼんやりとしていたのはおそらくほんの5、6分だった。しかしそれが今の僕にはずいぶん長い時間に思えた。


                  ☆


 クリエイティブ局に皆川部長はいなかった。そこにいたのは僕と同い年の、僕の知り合いだけだった。

 普段なら、他の部署に同年代の顔見知りがいればずいぶん仕事は楽になる。話が早いし、頼み事もしやすい。だが彼女は僕と同い年でも社会人としては2年先輩で、そして僕にとっては最も会いたくない知り合いだった。

 クリエイティブ局にいたのはその杉山涼子だけだった。彼女以外は皆、示し合わせたように昼食を摂りに行ってしまっていた。もちろんそれが当たり前で、普通、昼にはランチを食べるものだということを、今の僕の習慣では理解できないだけだ。涼子はカロリーメイトをかじりながら缶コーヒーを飲んでいた。僕は強烈な既視感を覚えた。自分も15分前にそうしていたからではなく、8年前にも僕と涼子は同じものを食べていたからだ。

 一人でカロリーメイトをかじりながらマックの白いキーボードを叩いている涼子に、僕は何と話しかけようか迷った。というよりも何か言わなくてはならないのだと思った。僕は涼子がこの会社に就職していることを知ってはいた。クリエイティブ局に打ち合わせに来た時に、すれ違ったこともあった。だが話したことはなかった。8年ぶりに会話するのだから、何かしら注意が必要だと思った。たとえ相手が僕のことを完全に忘れてしまっていたとしても。

だが僕は結局は面倒くさくなって、何も考えずに声をかけた。

「皆川部長は?」

 涼子は僕に振り向いた。彼女の顔は変わっていなかった。化粧は多少大人になったが、目つきは変わっていなかった。

「外だよ。お昼」

 僕は曖昧に頷いた。

「それじゃあ、ここで待ってる」

 涼子が顎でデスクのそばの打ち合わせテーブルを示したので、僕はそこに座った。

「聞いてるよ」と涼子は言った。「藤崎さんがポシャったからクリエイティブの担当探してんでしょう」

 僕は頷いた。

「すぐ分かることだから言うけど、担当私だってさ」

 僕は頷こうとして、とどまった。僕は、「は?」と言ったまま、二の句が継げなかった。

「私がやるんだってさ。その津島何とかっての」

 冗談だろ、と僕は思い、そして実際に口に出した。「冗談だろ」

「うちの会社、悪い冗談は全部本当だから、嘘じゃないよ」

「なんで?」

「なんでって、誰も手が空いてる奴がいないからでしょ」

 僕は眉間を指で押さえたくなった。「お前さ、前までやってた仕事って、ご飯にかけるふりかけのキャラクター広告だろ。『フリオニールのふりかけおにぎり』とかいう馬鹿馬鹿しい奴」

「そうだよ。よく知ってんね」

 僕は首を横に振った。涼子を昔と同じように「お前」と呼んでしまったことに気付いていたが、止められなかった。「お前、マンションの広告なんてどう考えたってど素人じゃないのか。他に誰か上についてくれる上司はいないのか」

 うん、と涼子はあっさり頷いた。「うちの部長がちらっと見るかもしれないけど、実家が昔地上げに遭って以来の不動産屋嫌いらしいし」

終わった、と僕は思った。僕は涼子の広告クリエイティブの才能は知らない。しかしそれ以前の問題だ。僕は彼女とあの神栄不動産の連中との間に、ほんの少しでも精神の周波数を同調させたコミュニケーションが成立するとは思えなかった。昔、クラスメイトの悪意に満ちた似顔絵を描き殴ってみんなからひんしゅくを買っていたことがあったが、その時の絵はでたらめそのものだった。

僕は手に持ったTOTOのアルバムを握り締めたまま、何も言えなかった。涼子は何も言えないでいる僕を無視して、インターネットのブラウザでニュースを見ていた。線路に置き去りにされた地蔵が列車に轢かれて木っ端微塵に吹き飛んだ、というニュースだった。

「あんたの上司は今会社にいないの?」

 僕は首を横に振って、いない、と言った。

「じゃあ、これでメンバー全員揃ったわけだし、打ち合わせ始めようか」

 涼子はそう言った。

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