第6話
僕は新宿駅から山手線に乗って渋谷駅で降り、永田の事務所「有限会社キャスティンガー」に辿り着いた。着いた時には全身が汗だくだった。僕は営業が必ず持っているべき才能、「道に迷わない能力」というものを、これっぽっちも持ち合わせていなかった。それで何度山本に罵られたか分からない。
今日もそうだった。間違った道を歩き、間違った横断歩道を渡り、何度も行きつ戻りつした後で、へとへとになって「キャスティンガー」の入っている雑居ビルに辿り着き、エレベーターで5階まで登っていった。受付の電話で永田を呼び出すと、僕は待合室のソファに腰掛けた。ソファの隣に灰皿が置いてあるのを見て、我慢できなくなって「キャビンスーパーマイルド」に火を点けた。ここ最近の僕の一日当たりの喫煙量は、学生時代の3倍を超えている。
「キャビンスーパーマイルド」を一本完全に吸い終えたところで永田が現れた。永田はストライプのシャツにジーンズという、ラフと言うより、手近にあったものをとりあえず羽織って家を出てきたという感じの服装だった。僕は小さな会議室に通され、永田と名刺を交換した。
「お忙しいということなので、早速用向きをお話させてください」と僕は言った。そして、今日三回目の説明をした。クライアントは神栄不動産、クリエイティブ再提案は明日午前9時、使いたいタレントは久保田玲、何とか助けになっていただきたい。
だが、三十秒も話さないうちに、みるみる永田の表情は曇っていった。
「久保田玲ですかぁ……」
どうですかね、と僕は促した。
「難しいって言うか…… そもそも何故久保田玲なんですか?」
それは僕が訊きたいくらいです、と返事してやりたかった。でも実際は、理由なんか何も無い。藤崎さんには、ど田舎の、特長の何も無い町に建つ馬鹿でかいマンションに六〇〇家族をぶち込むためには、とにかく有名なタレントやモデルを広告に使うという方法しか思いつかなかったのだ。
だから僕は言った、「本当は久保田玲じゃなくても良かったんです。とにかく有名で、顔が綺麗なら。でも客に見せたら、どうしても彼女じゃなきゃ駄目だ、ということになっちゃったんです」。
うーん、と永田は唸った。「それで、どういう風に彼女を使いたいんですか? チラシとか雑誌とか駅ポスターとかはもちろんですが、CMもやるんですか? それから、広告のコンセプトは?」
全部、何一つ具体的に決まっていないことだ。だから僕は最後の質問にだけ答えた。「広告のコンセプトは、『アフリカ』です」
「アフリカ?」
「TOTOと言うロックバンドの、『アフリカ』という曲を知っていますか? あの曲の世界観を表現したビジュアルで、津島町という町に建つタワーマンションの魅力を伝えます」と、僕は適当に言った。
「それで」と永田は言った、「その広告のどこに久保田玲が出てくるんですか?」
僕は、それは、と言おうとして言葉に詰まった。致命的な質問だった。反射的に、アフリカの原住民のようなごわごわの布をまとった彼女が、キリンの背中に腰掛けている姿を想像した。僕は心の中で首を横に振った。
「それは」と僕は言った。「今クリエイティブが検討中です」
永田は額に手をやってかぶりを振った。
「結論から言うと、久保田玲は不動産NGなんです」
「不動産NGって……」
「事務所が、不動産関係の広告には出さないことにしてるんですよ。消費者金融とかも同じくNG」
それを初めに言え、と僕は思った。だが僕は食い下がった。「申し訳ありませんけど、今回もう一度交渉していただけませんか? 金額面含めて」
永田はうーん、と唸りながら、分かりました、でも期待しないでください、と言った。「何も決定していないこの状況と、今日の明日じゃ、交渉にもならないかもしれない」
それでもいい、と僕は答えた。とにかく今日中に結論を出さなくてはならない。
「それで、もしもどうしても久保田玲が使えなかったらどうしますか?」
永田がそう聞いた。もしも、では無く、間違いなく、だと永田が考えているのは分かった。建前で相談するのは面倒くさかったし、そんな余裕も無い。僕は結論を答えた。
「他のタレントを紹介して欲しいと思ってます。若くて綺麗で、有名で、使える誰かを。そういうリストって、ありませんか?」
永田は、内線電話を取って、誰かを呼び出し、電話先の相手に今の僕達の会話の内容を伝えて、久保田玲の事務所に問い合わせるように言った。そして、付け足すように言った。「昨日、別の不動産の案件で若いモデルと芸能人のリスト作っただろう。あれ持ってきてくれ」
永田は煙草に火を点けて、深く煙を吸い込んだ。天井に向かって吐きだされた煙が、部屋全体に降り注ぐように拡散していった。僕も煙草に火を点けた。煙草を吸うのにも良い点がいくつかある。相手が煙草を吸っても不快にならないことと、煙草を吸っている間はほとんど内容のある会話をしなくてもよいことだ。どちらも僕にとっては重要だった。永田が僕に、松山さんは三広さんに入社されて何年目でいらっしゃるんですか、と訊いた。僕は、4ヶ月です、と答えた。
それに対して永田が何か言おうとした時、女性のスタッフが手に紙の束を持って入ってきた。永田はそれを受け取り、そのまま僕に渡した。僕は「㊙」の判が表紙に押されたそれをぱらぱら開いて眺めやった。そこには芸能人のプロフィールが顔写真付きで一枚ずつシートになって並んでいた。芸能界の情報にまるっきり疎い僕でさえ知っている顔ばかりだった。一年間使用するのに必要になる契約金も書き込まれている。
「その中から候補になりそうなタレントを教えてください。そうしたら改めて各タレントの事務所の方に出演の可否と料金を確認します」
僕は頷いて、パラパラと何度も繰り返しそのリストを見た。今ここでその候補を僕が選べるわけもない。
「このリスト、お借りしてもいいですか。スタッフと相談して、またご連絡します」
どうぞ、と永田が言い、僕は、ありがとうございます、と言って席を立った。「久保田玲さんの交渉結果が出たら、お手数ですが至急ご連絡ください」
僕と永田はお互いに頭を下げ、僕はオフィスを出てエレベーターに乗った。空調が澱んでいて、僕はあっという間に汗をかき始めた。
「キャスティンガー」を出てしばらく歩いたところで僕の携帯電話が鳴った。
永田だった。もしもし、と僕は返事した。
「久保田玲なんですけどね、言いにくいんですが……」
「どうぞ」
「やはりNGでした。不動産は出ないそうです」
そうですか、と僕は言った。「どうにかなりませんか?」
「申し訳ありませんが、例外は無いそうで、どうにもなりませんでした」
僕は目を閉じた。取り付く島もない。分かりました、ありがとうございました、また相談させてください、と言って電話を切った。この時点で明日の僕らの提案は、翼をもがれたのと同じことになったわけだが、それについて今は詳しく考えたくなかった。街は、限界がないのかと思うほど加速度的に気温を上昇させ続けていた。僕の汗も底が知れないほどだらだらとあふれ続けた。
僕は渋谷の町を汗だくになって歩き、西口の交差点を横切り、HMVに立ち寄った。そして洋楽ロックのコーナーでTOTOのアルバムを探した。「アフリカ」が入っているのは「Ⅳ」という名前通り、彼らの通算四枚目のアルバムだった。これで午前中の仕事は終わりだ。デスクに戻って冷たいコーヒーを一杯飲むまで、何も考えたくなかった。
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