第5話



 僕は腕時計で時刻を確認した。午前10時30分。まだ午前10時30分だ。それなのに、辺りには凄まじい勢いで日光が降り注いで目蓋を開けていられないほど眩しく、肩と頭が焼けるように熱い。僕は横断歩道を渡りながら、さっき携帯電話の電話帳に登録したキャスティング会社に電話して、永田という男を呼び出した。だが、永田は留守だった。僕は通話先の女性に、三広の松山です、と名乗り、携帯電話の番号を教え、永田に至急折り返し電話してくれるように頼んだ。

 神栄不動産の三十一階の代理店の間まで上っていくと、中島部長が待っていた。ディオール・オムのスーツを身に纏った部長は、相変わらずどこかの俳優のように男前だった。広告代理店を舞台にしたテレビドラマがあれば、そのまま営業部長役として使えそうな感じがした。本人曰く、「40年間ずっと、どうやったらカッコ良く見えて、女にもてるか。それだけを考えて生きてきた」そうで、女どころか他人からどう見えるかもろくに考えてこなかった僕とは、人生に対する姿勢がまるっきり違っていた。

「悪かったな、呼び出して。今日の打ち合わせも参加できなくて済まなかった」

 部長はそう言った。僕は首を横に振って、いいえ、と言った。部長は僕が配属された3ヶ月前よりも確実に痩せていた。この津島町プロジェクトだけでなく、部内の他の案件がどれもこれも「炎上」していて、その度に全ての客先に呼び出され、一々の打ち合わせに参加しているからだ。僕と山本だけを見ているわけには行かないというわけだ。

「お前が分かる範囲でいいから、今川さんが来る前に、今日の打ち合わせの内容と、今の状況、教えてくれ」

 僕は簡単に話した。今朝クリエイティブの再提案を行ったが、ものの見事な没を喰らい、客先から『アフリカ』という歌を聴かされて津島町をアフリカにしろと言われた。再提案は翌朝の9時。今は山本さんと藤崎さんがクリエイティブ案を再検討していて、自分はこの後、キャスティング会社に久保田玲が使えるか相談に行く、と。

 自分で説明していて改めて、無茶な状況だということが分かった。

「久保田玲なんて使えるわけないだろ」

 部長は眉間を指で揉みながら、息を吐いた。そして、大体分かった、と言った。

「今川が何で俺を呼び出したか、大体分かった。お前分かるか?」

 僕は、少し考えたが、分かりません、と言った。

「『プロジェクトから山本を外す』。それを俺に言わせるためだよ。だから俺もさっき、山本じゃなくてお前を呼んだんだ。そんなこったろうと思ったからな」

 僕は曖昧に、そうなんですか、と答えた。

 山本が外される。僕は、二日酔いで弱り果てている上司の顔を思い出した。確かに僕も時々、何故この人は山のように仕事がある時に家に帰ってしまうんだろう、と思うときはあった。何故僕から昼食代を借りたままいつまで経っても返さないのだろう、と思うことはあった。それからついでに、僕がこの世で一番嫌いなのは高圧的な酔っぱらいで、山本は3日に一晩は必ずそれになっていた。

 それでも今プロジェクトから山本が外れて、一番困るのは僕だ。部内は今どのプロジェクトも大混乱中で、代わりになってくれる上司はどこにもいない。そして僕には、はっきり言ってこの仕事は未だにほとんど意味不明な世界の出来事だった。五回のクリエイティブ提案の却下、という最悪の事態を招いた責任は山本にあるのだとしても、僕は彼がこれまで何をそこまで間違ってきたのかさえ分からないでいるのだ。

 だから僕は言った。

「今、山本さんを外すのはやばいと思います。今日もそうですけど、常に緊急の事態っていうのがずっと続いてますし、山本さんと僕以外には、社内でこのプロジェクトのことを知ってる人間は誰もいないし」

「そんなこと、お前に言われなくても分かってるよ。このプロジェクトをお前一人なんかに全部任せちまったら、即終わりだからな。いきなりお前一人にするようなことはしないから心配するな」

 僕はまた曖昧に頷いた。それは要は、いつかは山本は外されるということだし、いつかは僕一人になる、ということだったからだ。僕は一人で立ち会った、今朝の打ち合わせを思い出した。苦い胃酸が今にも喉元に上がってきそうだった。

 僕と部長はそこで、煙草に火を付けた。二人とも、吸うのはラッキーストライクだった。そして無言で、今川が到着するのを待った。



 今川の話は10分で終わった。彼は三広に対しての不信感をあらかたぶちまけた後、朝の打ち合わせと同じセリフを言った。「このままだと、プロジェクトにおける三広さんの立場を再検討せざるを得なくなります」。

 部長は、営業とクリエイティブの連携を緊密にして、クオリティとスケジュールの管理をきっちり行っていきます云々、と話したが、具体的なことは何も言わなかった。今川が、よろしくお願い致します、と言って立ち去った後、僕と部長は神栄不動産のビルを出て、近くの喫煙コーナーでラッキーストライクを吸った。恐ろしく強い冷房が効いていて、一瞬で汗が乾いた。

「最後通牒って奴だな」と部長は言った。「明日の提案次第で、終わるぞ本当に」

 僕は頷いた。まだ終わっていないのが不思議なくらいだ。当然、広告は、基本となるクリエイティブ表現が決まらなければ世に出すことはできない。没を喰らった漫画家がネームを描き直さなくてはならないのと同じだ。それが予定よりも一ヶ月も遅れているのだから、その分ダイレクトメールやチラシなどの制作準備期間は無くなって、もはや一刻の猶予も無いどころか、当初の広告開始予定時期を過ぎている。何故僕達はまだ首になっていないのだろう?

「現地ショッピングセンター施策、あれのおかげで首の皮だけつながってるな」

 部長が僕の心を読んだようにそう言った。その施策とは、津島町に要塞のように広がる巨大なショッピングセンター内の一角に、物件の広告出張所となるブースを設置する、というものだった。そもそも、クリエイティブ提案が当初からNGだったにも関わらず、僕らがこのプロジェクトの広告を受注できたのも、その提案のおかげだった。いくら田舎でも、娯楽施設のほかに無い町だから、週末ともなれば二、三万人の人間が出入りする。そこにプロジェクトを告知するブースを設置すれば、それだけで強力な広告となる。「ツシマモール」という名のその大商業施設の責任者と、三広が見つけたプロモーション担当、つまり神谷さんが知り合いで、その計画が実現することになった。この施策だけは、三広と「ツシマモール」の間の交渉で進んでいるものなので、今更他の広告代理店にバトンタッチしたからといって明け渡せるものではない。だから今川も大沢も、胸中はどうあれ僕らを簡単に首にはできないということなのだ。

 僕は、とにかく今は走ります、と部長に言った。不可能に決まっているのかもしれないが、とにかく久保田玲の出演交渉をして、無理なら無理という結論を出さなくてはならない。

 部長は頷いた。そして言った。

「山本は今は変えられない。でも、クリエイティブは変えなきゃならんな。今すぐに」

 僕は部長を見た。誰もがそれは分かっている。でも、と僕は言った。

「でも後20時間ぐらいで再提案しなくちゃならないのに、代わりが見つかるんですか」

「見つける。どこかで。それに、準備期間が全然無いのは藤崎も一緒だろ。今更、これまでの提案とか、津島町に関する予備知識もほとんど意味がないしな。それにあの今川の反応は、明日藤崎が顔を見せただけでもぶち切れるっていうくらいの勢いだろ。是が非でも外すべきだ。俺から山本には話す。いいな?」

 良いも悪いも無かった。自分でもう決めたことを、いいな、と相手に確認するのが部長の癖だった。僕は頷いた。

「とにかく新しいクリエイティブは俺が探すから、お前はどこかでTOTOの『アフリカ』が入ったCDを買っておけ。そいつらに聞かせなきゃならない。俺は今から六本木だ」

 僕と部長は喫煙コーナーを出た。部長は僕の背中を叩いて、後でまた連絡する、と言って僕が捕まえたタクシーに乗り込んだ。部長は20分後には六本木で別のプロジェクトの打ち合わせに出なくてはならなかったのだった。部長を見送って、また横断歩道を渡りながら携帯電話を操作した。もう一度キャスティング会社の永田という男に電話するためだった。

 今度は、永田は電話に出た。僕は名を名乗り、急なお願いで申し訳ないが、お会いして御相談のお時間が欲しい、と頼んだ。

 午後3時くらいからではどうか、と永田は言った。僕は、申し訳ないが今すぐお願いしたい、と言った、「時間は取らせません」。

 永田はしばらく唸った後で、分かりました、と言った。

 僕は、ありがとうございます、助かりました、と二回繰り返して言った後で、永田の事務所の住所を訊いた。「渋谷です」と永田は答えた。

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