第2話

 僕が4ヶ月前に入社した広告代理店は『三広(さんこう)』と言う。創立当時、日本の広告の主要媒体だった、雑誌、新聞、ラジオの3つを制する広告代理店を目指す、ということでその名が付いたそうだが、僕が初めてこの社名を聞いたときに反射的に連想したのは、旧日本軍が中国領土で展開したと言われる「三光作戦」だった。殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす。それが実際はどのようなものだったかについては諸説あることを中学の日本史の授業で学んだが、少なくとも良いイメージの言葉とは言えない。だがこれは戦争ではなく、ただの就職だ。企業として勢いよく発展しているのならまあ良いと僕は思った。旧日本軍と同じように気合が空回りし、何十年経っても「年間広告代理店売上ランク」の上位でも下位でもない辺りをうろうろし続けている会社であることが分かったのは、実際に入社した後のことだった。

 僕がこの会社に入社したのは、ただ単にここ以外から内定をもらうことができなかったからだった。大学時代にフランス文学を専攻していた僕は、毎日映画を2本観て音楽を聴いて文章を書き続ける、という生活を続けて人より2年長く大学に在籍した後で、就職活動を始めた。希望する職種や業界といったものは、特に無かった。働かせてくれて給料がもらえるところなら、基本的にはどこでもよかった。とりあえず出版系の会社を受けることにし、その流れで特に何も考えずにマスコミや広告代理店の入社試験を受けていった。しかし、半年以上就職活動を続けて僕の内定はゼロだった。最終面接まで残った会社さえ一つも無かった。ほとんどの出版社とマスコミは書類審査か一次面接で落選し、就職活動を始めるまで「CMや広告を作る仕事である」というぐらいの、業界に関して限りなくゼロに等しい知識しか持たなかった広告代理店だけが、何故かいつも最終面接近くまで残ることができた。そして、真夏の恐ろしく暑い日、僕がとある映画会社の面接試験の順番待ちをしていた真っ最中に、僕の携帯電話が鳴った。『三広』の人事担当者からの電話だった。「最終面接に合格とさせていただきますので、来週健康診断に弊社にいらしてください」。

 僕は、ありがとうございますと答えたか、分かりましたと答えたか、とにかく通話中も、電話を切った後も、しばらく放心状態だった。そのころ既に四十以上の会社に落ちていたので、自分が内定をもらえたということが理解できなかったのだ。しばらくして面接の順番が回ってきたが、僕は面接官と話している間中、上の空で、自分が何をしゃべっているのか全く分からなかった。やがて、自分が既にとことんまで解放的な気分になっていることに気が付くと、たとえ十分間の面接でももう耐えられなかった。その日はとにかく暑い日で、一刻も早くスーツを脱いで、エアコンの効いた部屋で麦茶を飲みながら映画を観たかった。面接が終わると僕は有楽町のHMVに立ち寄って、『フェリーニのローマ』のDVDを買った。

 その後半年、最後の学生生活を謳歌した後、僕は社会人になった。毎日7時に起きて、スーツを着て、決まった時間に出社して、仕事をして、給料をもらう身分になった。

 その生活の変化自体はそれほど苦痛ではなかった。僕は規則正しい生活をするのが嫌いではなかったし、暑苦しすぎなければ、きちんとしたスーツを着るのも嫌いではなかった。分からないことを少しずつ覚えていくのも苦手ではなかったし、未知の世界に足を踏み入れていくのにも少しはわくわくしていた。それに、十八年も学生をやってきた自分自身には完全に飽きていたので、いい加減に働いて金を稼いでみたかった。

 しかし、3週間の研修の後、不動産広告担当の営業部に配属されて2週間ほど経った5月、僕のあらゆる状況に、瞬間的に急激な変化が起こった。突然、僕の帰宅時間は午前0時以降になり、いつのまにか僕のスーツはしわだらけになった。突然、僕の眼前に処理しきれない膨大な情報が積み上げられた。そして、僕は未知の世界のど真ん中に放り出された。寄る辺は全く無く、時々呆然となって辺りを見回したが、一緒に入社した同期もほとんど皆同じような状況だったので、僕一人が疑問を呈していいものかどうか判断がつきかねるうちに、僕の帰宅時間は毎日午前3時以降になり、東京の街は耐え難いほど暑苦しくなり、スーツをクリーニングに出す暇もなくなった。

今でも僕はその真っ只中にいて、その変化がいつ起こったのか、何故そうなったのか、これからどれぐらいこの生活が続くのか、全く分からないでいる。

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