第3話
こんな身の上話はもちろんよくある話で、どこの会社でも大体の新入社員はみんな似たり寄ったりの境遇にある。そして、上司が打ち合わせに遅刻してしまったので、一人で客先に立ち向かわなくてはならないという状況も、きっとよくある話だった。僕は今、その夥しいよくある話の中の一滴に過ぎない。
僕は自分にそう言い聞かせていた。こんなことは何でもない。別に僕がこの場で劇的な発言や発明をしなくてはならないわけではない。僕はこの後1時間ほどの打ち合わせの中で、会が滞らないように、二日酔いのクリエイティブディレクターと、元ヤンキーのプロモーション担当を喋らせ続ければいいだけなのだ。僕は話の内容を理解して、求められている問題を提示するだけでいい。
だが問題は、入社して4ヶ月、僕が未だに不動産のことも広告のこともほとんど全くと言っていいほど分からないでいるということだった。だから相手が何を求めているのか、その為に事前に何を用意しておけばいいのかがまるで分からない。例えばアンチラ、という言葉があって、僕がそれがアンケート付チラシの略だと分かったのは、後になって実際にアンケートのはがきが貼り付いたチラシを見た後だった。僕はそういうものが世の中に存在すること自体つい先日初めて知った。それは大体、マンション完売にまで至る長い長い広告展開の、最初の一歩として会員収集に利用されるのだが(「この物件に興味を持った方はこのはがきを投函してください」という風に使うわけだ)、僕はそもそもマンションを買うのに会員になる必要があるということさえ最初は理解できなかった。入念な予約をし、数千万単位の金の算段をつけ、1年以上後に現物が手に入るもの、そんなものがフェラーリやランボルギーニ以外にこの世に存在するとは知らなかった。僕にとってマンションというのは既にいずこかの地点に馬鹿でかく立ち上がっているものであって、竣工もしていないものを買う人間が世の中には数多くいるという事実を全く知らなかったのだ。はっきり言えば、僕は不動産とそれにまつわるものについて、これまでの二十四年間、一瞬たりとも興味を持ったことが無かったし、未だにどれだけ頑張っても興味を持つ気になれないでいた。
だが、今日の相手はその道のマニアで、ほとんどパラノイアで、僕の客だ。「興味が無い」では済まない。
待合室に現れた今川洋一は無表情だった。僕の姿を認めると(かろうじて僕の顔を覚えていたようだ)、僕がおはようございますと頭を下げる暇もなく、すぐに踵を返して廊下を歩き出していった。僕はすぐに彼の後をついていき、他の二人も僕の後に続いた。
薄暗い廊下を歩いていった突き当り、いつもの会議室に僕たちは通された。ロの字型にテーブルが並んでいて、僕は一瞬、どこに座るべきか迷った。いつもは上司が客の真ん前に座り、基本的に僕は一番端で打ち合わせを聞いているだけだったからだ。とすれば、上司がいない今日、僕が真ん中に座るしかないわけだった。僕が椅子に座ると、右に藤崎さん、左に神谷さんが座った。
僕達が席に就くとすぐに、神栄不動産・販売担当の大沢がやってきた。広告担当の今川とともに、今回のマンション建設計画の中心となる人物だ。
不動産広告では、他の業種なら宣伝部などが担当する役割を、販売担当が担うことが多い。顧客に対して、物件の何をもってアピールポイントにするかということが、販売担当の意向にある程度委ねられているためだ。今回の神栄不動産の場合は、大沢が広告の基本方針を決め、広告担当となる今川は、神栄不動産のブランドイメージなるものから物件広告が逸脱しないよう監督する。広告代理店は、基本的にはその二者の意向や顔色を伺いながら、マンション完売までの広告展開を示したプレゼンテーションを行い、競合代理店と争ってそのプレゼンに勝利すれば、後は完売まで文字通りべったりと二人の客にくっついて、ざっと1年から2年の期間、毎日のように顔を出すことになる。そして彼らからのありとあらゆる要求に対して、たとえそれがどんな過酷なものであれ、それが涅槃に到る唯一の道であるかのように真摯に対応する。そう、僕が広告代理店に就職して一番初めに驚いたのは、客の要求に応えることが全てであるというその業務姿勢だった。究極的には、こちらの提案に対して客が満足さえすれば、後は広告の対象となる商品が売れようが売れまいが、代理店としては金が請求できるのだからそれで十分というわけなのだ。もちろん、マンションが全く売れなければ次の仕事の発注が無くなってしまうため、ある程度は売れてくれないと困るが、あくまで売るのはクライアントの責任である以上、クライアントが気に入る広告を作ることが広告代理店の仕事の絶対条件になる。クライアントである神栄不動産も当然そのことを理解している。自分たちを騙そうとしてもそうはいかない、と待ち構えているのだ。広告代理店の儲けはクライアントにとって単なるコストでしかないため、我々の利害関係は決して一致することは無い。だから必然的に、クライアントと広告代理店の関係には、常に緊張がある。そしてそれを少しでも和らげる為に接待というものがあるわけだ。
だが、この神栄不動産の今川と大沢の二氏は、広告代理店からの接待を一切受け付けないことで有名だった。今川は昔の麻雀漫画に出てきそうなほどの見事な7・3分けのヘアスタイルで、大沢はドラえもんに出てくるジャイアンにそっくりだった。日ごろは一般人を相手にマンション販売をしているため、僕らに対しても通常は温和な顔つきだが、怒らせると怒涛のジャイアンリサイタルが始まる。
僕はカバンからノートや今日の資料を取り出して、目の前に座っている二人を見ようと顔を上げたとき、思わずぎょっとした。会議室に、さらに三人の男が入ってくるところだったからだ。僕がその三人を口を半開きにさせて眺めていると、販売担当の大沢が言った。
「今日は重要な打ち合わせだから、三広さんの提案をこれまで見ていないスタッフの意見も参考にしたいと思って出席してもらうことにしました」
僕は曖昧に頷いた。追加で現れた三人のいかつい顔を見つめて、僕はやむを得ずそれぞれに、ゴジラ、カバオ、ブタゴリラ、というあだ名をつけた。彼らはどう考えても、僕らに数でプレッシャーを与えるための人員だった。打ち合わせは戦争と同じで、数で勝っている方が絶対に有利だからだ。
僕は両隣のスタッフの顔色を見やった。神谷さんはあらゆることに無関心といった超然とした表情だったし、もう一方の藤崎さんはこの部屋に入ってくる前から憔悴しきった顔つきだったので、特に変化は見られなかった。ビルの外で舞う風が、背後の窓を通り抜け、僕の背中を冷たく撫でつけてくるような感覚がした。
一瞬、会議室の中の八人全員が押し黙った。そこでようやく、今、話し始めるのは僕の役目だったということを思い出した。
「おはようございます。それでは、『津島町プロジェクト』、定例会議を始めさせていただきます。まず、本日は、津島町現地にございます、大型ショッピングセンターに設置のサテライトオフィスの設計・設置箇所その他進捗状況について――」
「ちょっと待ってください」
そう言って、僕の言葉を止めたのは広告担当の今川だった。僕は、いきなり自分が何のミスを犯したのか分からなくて、戸惑って彼の顔を見返した。
「今日は、急遽参加してもらったこの3人もいることだし、先に再提案のクリエイティブ表現の件から始めて下さい。時間が勿体無い」
僕は、一瞬間があった後で、分かりました、と頷いた。そして、まずいことになった、と思った。上司の山本が、この件は「後に回せ」と言っていたからというだけでなく、これが当初のプレゼンから数えて五回目の再提案で、これまでの四度全てが、僕の目から見てもろくでもない提案ばかりだったからだ。しかも僕は、今出されるその再提案を、まだ一度もこの目で見ていない。昨日の朝の時点ではクリエイティブの藤崎さんは打ち合わせ中うなっているばかりで何のアイデアも思いつけなかったし、僕は昨日の夕方以来、上司の指示でずっとスケジュール表や見積り書や無数の表を作り続けていて、実際に何が完成したのか確認できるタイミングが無かったのだ。その内容を藤崎さん以外に知っているのは、今ここにいない山本だけだ。だから僕は、大丈夫だ、と何度も心の中で自分に言い聞かせた。喋るのは僕じゃない。
「分かりました」と僕はもう一度言った。「それでは、先だってのお打ち合わせでご注文を頂いておりましたとおり、クリエイティブディレクターの藤崎から、津島プロジェクトのクリエイティブ表現の再提案をさせていただきます」
僕は藤崎さんの方を見た。彼はまだ少し俯いていて、顔色は土気色のままだった。むしろさっきまでよりも更に生気が失われている。僕はテーブルの下で彼の肘をつついた。
藤崎さんは顔を動かしたが、まだ俯いたままで、カバンの中からごそごそと資料を取り出し始めた。A3サイズの数枚の紙がクリップ留めされた紙の束を、彼は僕に渡した。表紙には「津島町PJ(プロジェクト)・クリエイティブ表現案」と大文字で書かれている。僕はそれを頷いて受け取って、席から立ち上がり、よろしくお願いいたします、と言いながら五人の客の席に渡して歩いた。
僕が席に戻ると、藤崎さんはようやく顔を上げ、話し始めた。
「それでは、クリエイティブ表現の再提案をさせていただきます。津島町の特長を前面に押し出した、周辺の競合物件との差別化を明確にする広告表現ということで、先週来、最大限の努力で検討しまして、今日ご提案させていただくのが、こちらです」
藤崎さんはそう言って、紙の束をめくった。僕も、客も、表紙をめくって、現れたものを見た。
「今回のご提案はずばり、久保田玲さんです」
僕はじっと、そのA3サイズの紙一杯に微笑む女性の顔を見つめた。彼女は真っ直ぐこちらを見つめている。染み一つ見当たらない白い肌と、白い歯が輝く、大写しの彼女の顔の横に、漫画のような吹き出しが大きく飛び出していて、そこにはこう書かれていた。「津島、大好き!」。そして画面の下部には、「県下最高層マンション、津島タワー誕生。」と、太字の宣言がなされてあった。
それがその提案の全てだった。他には神栄不動産のロゴがあるだけで、久保田玲の顔色とあいまって、やたらと画面全体が白かった。
僕は高校生のころから、ほとんどテレビも雑誌も見ていない。たまに見るのはスポーツ番組とスポーツ雑誌だけだった。就職してからはそれさえ見なくなった。それでも彼女の顔は知っていた。僕と違ってまともにメディアに接して生きている人にとっては、彼女の名前と顔を見ない日はないというくらい人気のある女性モデルだ。人気がありすぎて、こんなど田舎に建つマンションの広告に出るとは考えられないくらいだった。
僕は一瞬だけ目を動かして、前方の五人の客の表情を伺った。そしてすぐに視線を落とした。彼らは全員、無表情だった。僕は、自分の顔が彼らと同じような無表情に変わって行くのを感じた。それはこの最近で身に付いた、僕の癖だった。あらゆる判断を保留して、その場の状況と空気にカメレオンのように同化する。たとえ目の前に危機が見えていても、僕の意見も判断も表情も誰も必要としていない状況では、そうするしかないとある時気付いたのだ。
「津島町という郊外の都市に、六〇〇戸のマンションが建つ。これはこの町にとっては、かつてない大事件です。そしてその事件を、東京都心の人々をも引っ張り込むパワーでもってひきつけ、広域に集客していくためには、キャンペーン全体を通してエネルギーを持つ、絶対的なパワーを持ったアイコンが必要と考えます。そのアイコンに、現在テレビに雑誌にと大活躍中の久保田玲さんは、若い男女だけでなく、幅広い年齢層から高い好感度を得て支持されており、これ以上無いふさわしいキャラクターと考えます。
そして、メインコピーとなる、『津島、大好き!』。久保田玲さんという、日本人なら誰もが愛するタレントが津島町への愛情をあえて正面から表現してくれることで、受け手は津島町に非常に興味を掻き立てられることになるはずです。広告というのは発信者から消費者へのラブレターと言われますが、これは久保田玲からの津島プロジェクトへのラブレターであり、受け手は彼女の気持ちを共有することになります。久保田玲が大好きな津島町とはどんな町だろう、と受け手は感じ、今後の広告展開への期待を煽るのです」
藤崎さんは客の方を見ていなかった。手に持った企画書の、久保田玲の顔を指し示しながら企画の内容を話し続けている。だが途中から、彼が何を言っているのか僕にはさっぱり分からなくなった。藤崎さんが一言話すごとに、この部屋に満ちた危機の熱量が急速に上昇しているのは明らかで、もはや僕にはその警報しか聞こえないからだ。その音はけたたましいサイレンではなく、もっと小さな、何かがぎしぎしと歪んでいく音だった。僕はじっとテーブル上の久保田玲の大写しの顔を見つめていたが、それは実際は単にそこ以外どこにも視線を持っていくことができないだけだった。いくら僕に経験が無くても分かる。僕に聞こえるのは、五人の客達の顔面と感情が凍りついていく音だった。上目づかいに前方の五人の顔をちらりと覗くと、全員の表情が死人のように硬直しているのが分かった。客達は藤崎さんが喋り終えるのを待って、この、欠点が多すぎてどこから指摘すればいいのか分からない広告表現に対して、最初に何を言うべきかを既に考え始めている。そして僕も、その第一声は一体なんだろうと考え始めていた。
この広告表現には、少なくとも二点、事前に客が示したルールに違反している箇所があった。
一つ、このプロジェクトの広告表現にタレントは使用しないこと。
一つ、津島町という名前を広告のメインコピーに使用しないこと。
一つ目のルールが定められた理由は、金の問題だった。予算をトータルで見たときに、タレント契約にかかる数千万の費用が重すぎるという彼らの判断があった。二つ目の理由は、津島町という町が、東京都民のほぼ誰も知らないマイナーなとてつもない田舎町であるため、名前を露出したところで何のメリットもないどころかマイナスイメージしか与えないから、だった。
つまり、この僕達の提案は客にとっては初めから死んでいる提案だということだ。
だが僕にとっては、そんなことより重要だったのは別のことだった。おそらく、僕が当事者でなく、一年か二年前のいつも映画を見て本ばかり読んでいた学生のころだったら、この提案を見て、馬鹿にする暇も笑う暇もなく、ただ通り過ぎていっただろう。つまりはそういう広告だった。引っかかるところがほとんど何も無い。僕は藤崎さんの横顔を見やったが、喋っている間にどんどん顔色が悪くなっていき、それは今では久保田玲の顔よりも遥かに白かった。話し終えた時には死んでしまうのではないかと僕は本気で心配になってきた。
ちらちらと藤崎さんの顔を見ていたが、彼がいつ喋り終えたのか分からなかった。少し前からどんどんと声が小さく、途切れ途切れになってはいたが、いつの間にかそれも完全に停止した。僕はしばらく待ったが、会議室の中は沈黙に包まれていて何の物音もしなかった。
僕は顔を上げた。神栄不動産の五人の顔は先ほどの死後硬直状態のまま変わらない。今川はじっと藤崎さんを見つめていた。僕はどんな言葉がぶつけられてもいいように、息を吸い込んで腹筋に力を込めた。
以上ですか、と今川が訊いた。
以上です、と藤崎さんは頷いた。
「ご質問をよろしいでしょうか」
お願いいたします、と藤崎さんは答えた。
「本当に久保田玲が使えるんですか?」
えっ、という声が僕の口から洩れそうになった。今川の表情は変わっていない。僕は藤崎さんに振り向いた。予想もしないセリフだった。藤崎さんの口からかすれ声が出ようとした時、今川がそれを遮った。
「なんとしてもタレント事務所の許可を得てください。でないとこのプロジェクトにおける三広さんの立場を再検討せざるを得なくなる」
今川は、提案グラフィックが描かれた紙を取り上げ、僕らに向けて示した。そして、真ん中から真っ二つに引き裂いた。久保田玲の顔だけが残り、『津島、大好き!』と書かれたもう半分は片手でくしゃくしゃに丸めて足元に捨てた。こういうことをやってのける人間が世の中には本当にいるのだということも、僕はサラリーマンになって初めて知った。僕は彼の堂々としたパフォーマンスに感心さえしそうになった。
「この提案は、これだけです」、そう言って今川は久保田玲の顔を指で示した。「後はまるで使えません。といっても、そもそも実質この女性タレントの顔を映しているだけで、マンションの広告であることすら全く分からず、広告代理店の提案と言えるのかという疑問がまずありましたが。そのあたりはどうお考えですか?」
今川は僕と藤崎さんと、両方に向かって問いただしていた。藤崎さんは何も答えられなかったし、僕も何の返答も思いつけなかった。どうもこうも無かった。僕は逆に今川に訊き返したかった。何故これまでと一転して、タレント提案がOKになったのかと。だが訊けるわけがない。NGのままならそもそも提案していること自体がバカなので、そんなことを訊けば自分たちがバカだと認めているのと同じだからだ。
「それと松山さん、こんな重要な打ち合わせに、山本さんは何故出席していないんですか? これとは別の用件を優先させたということですか?」
僕は口を開き、息を吸い込んだが、そのまま再び閉じた。昨晩六本木のおっぱいパブではしゃぎ過ぎたため、という事実以外には論理的な言い訳が思いつかなかった。僕は今川と目も合わせられず、彼のネクタイをじっと見つめていた。ラクダと鎖が描かれた緑色のネクタイで、僕はどういうファッションセンスの結果でそういうネクタイが選ばれるのかどうしても分からなかった。どうしてもそれを首に掛けなければならない理由があるのだとすれば、論理的に考えて、それがおそらく父親の形見か、母親が死ぬ前に買ってきたものか、どちらかだからだろう。
三広の三人は誰も口を開くことができないまま、真夏とは思えない冷えた沈黙が部屋を包んだ。
「こうしていても、埒が明かないでしょう」
今川の隣の大沢が、タイミングを計っていたように口を開いた。
「三広さんのこれまでの提案を伺っていると、これ以上どれだけ待ってもより良いものが上がってくるとは思えない。既に我々は予定のスケジュールに一ヶ月も後れを取っている。このまま販売開始までこの状況が続くようだと、我々は三広さんに道連れにされて、共倒れだ」
申し訳ありません。僕はやっとそう声に出した。それ以外に言うことは何も無いが、あまり連発しても効果は無い言葉なので、また僕は黙った。
「ですから、少し我々の方でヒントを差し上げることにしました」
大沢はそう言って立ち上がり、会議室を出ていった。それでほんの少しだけ辺りに立ち込める沈黙の氷が弛緩した。ふと振り返ると、藤崎さんの表情から一切の生気が抜けていて、死に際の哲学者のような顔になっていた。出すものを出しきった上で清々しいほど打ちのめされた満足感と、どうしようもない提案をしてしまったという恥のオーラとが、二日酔いの顔色の上でぐしゃぐしゃに塗り固められている。
戻ってきた大沢は、CDラジカセを手に持っていた。僕がひそめた眉が見えたかのように、彼は席に戻ると、ただ一言、これを聞いてください、とだけ言った。そして再生ボタンを押した。きゅるきゅるとCDを読み込む音が聞こえるほどの静寂の向こうから、どこかの民族楽器風の軽快なパーカッションの音が聞こえてきた。そして柔かい風のようなシンセサイザーがそこに重なり、歌が始まった。
夜にドラムの響く音が聞こえる
でも彼女には小さな会話の囁きとしか聞こえない
彼女は12時半の飛行機でやってくる
僕を救いへ導く星々が、月夜の翼にきらめく
僕は道端の老人を呼び止める
長いこと忘れられた言葉と、古代のメロディーを見つけたくて
振り向いた彼の言葉はこう聞こえた、「急ぐんだ、そいつがそこで君を待ってる」
僕を君から引き離すことはできない
百人がかりでも敵わない
アフリカに降る雨に栄光あれ
今こそ成した事の無いことをなすべき時
コーラスがリフレインし、オープニングと同じパーカッションが響き、曲が終わった。意味は全く分からなかったが、美しい歌だった。休日にラジオから流れてくるのが聞こえたら、曲名は何かと気になるような歌だった。だが僕は、五人の客が陶酔するように歌に聞き入っている様子を見て、嫌な予感しかしなかった。
この歌が一体なんなんだ?
「この歌のタイトルを御存知ですか?」
今川がそう訊いた。僕は左右の二人を見たが、二人とも黙ってCDラジカセの方を見つめていた。僕は三人を代表して、いいえと答えた。
「『アフリカ』です。歌うアーティストは『TOTO』。80年代最高の名曲です」
僕はとりあえず、なんとなく頷いた。
「藤崎さん。津島町という場所について、どのような認識をお持ちですか?」
藤崎さんは、顔を上げて、答えた。「未来に向けて発展していく、可能性に満ちた町です」
今川は頷きも首を振りもせずに話した、「要は、何も無い町です。この物件は、津島駅前徒歩2分に位置します。ですがその電車は1時間に三本。東京までは特急で1時間半。このまままともな広告を打ったとしても、この町自体を誰も知らないのだから、興味をもたれるどころか、誰にも気付かれずにやり過ごされてしまう。大胆な表現が必要です。この歌の中にそのヒントがある。分かりますか?」
藤崎さんは無反応だったので、今川は僕を見た。それで、僕が代わりに首を横に振ることになった。
「この歌の中に、『セレンゲティ高原の向こうにそびえたつ、オリンポスのごときキリマンジャロ』という歌詞があります。当物件のイメージを、まさにぴたりと言い表した表現です。地上一八〇メートル、六〇〇戸の当プロジェクトは、必然的に津島町の圧倒的なランドマークになるでしょう」
僕は頷いた。僕も、入社以来何度も想像してきた。
数ヶ月前の配属初日のことだ。僕は緑の木々のトンネルをくぐり抜けて走る列車に1時間半揺られ、一人で津島町の駅前に降り立った。何はともあれプロジェクト現地の様子を知っておくためだ。駅前、数百メートル向こうに巨大なショッピングセンターが要塞のように鎮座し、それ以外に目に入るものは、駅前の駐輪場と、広大な空き地と、澄み渡った青空だけだった。とにかく広く、何も無い。そんな中で、目前にいずれ建つ地上一八〇メートルの高さのマンションの姿を僕は想像した。頭の中に描かれたその姿は、僕の記憶をまさぐり、過去に現実に見た一つのビジョンとはっきりと重なった。それは、僕の通っていた大学から車で数十分の場所にあり、天を衝く高さで聳え立っていた「牛久大仏」の姿だった。世界一巨大な大仏としてギネスブックにも認定された、化け物のようなその巨大仏像をかつて見たとき、僕は笑うより先に恐怖で寒気がした。津島町の空を見上げながら、その仏像の中に人が住む様子を想像しようとしたが、そこには全くリアリティが無かった。
「つまり、今回の『津島町プロジェクト』の広告コンセプトは、『アフリカ』になります」
今川はそう言った。僕は反射的に頷きかけ、ぎりぎり押しとどまった。僕は顔を上げ、今川の目を今日初めて正面から見つめた。彼の顔は真っ直ぐ前に向けられていたが、目は僕の方も藤崎さんの方も向いていなかった。上司の山本が入社以来僕に何度も教えてくれた、「分かってもいないのに分かりましたと言うな」。僕は今川が何を言ったのか分からなかった。身構えて次の言葉を待った。
だが、今川の口が再び開く気配は無かった。
僕はまた藤崎さんを見た。さっきの死にかけの表情から、全く変化がない。
やむを得ず僕は今川に訊いた。
「それはどういうことでしょうか?」
「申し上げた通りです。津島町をアフリカにしてください。これが我々からの要望です。そこに久保田玲さんを使用してください。料理の仕方はお任せします」
期待したよりもはるかに短い返答で、今川の声は止んだ。
藤崎さんは何の反応もしない。
もう誰も何も言わなかった。
僕は、何か言うべきだ、と思った。
頭の中で今川の言葉を繰り返してみた。「津島町をアフリカにしてください」。高校生が、牛丼を大盛りにしてください、と注文するのと同じくらい自然で断定的な口調だ。その意味が全く分からないのは、この部屋にいる八人の中で僕だけなのだろうか?
プロジェクトのコンセプトが「アフリカ」だ、と言われても、具体的なことは何も分からない。駅に貼るポスターやチラシの表現がなんとなくアフリカっぽければそれでいいのか? 空き地だらけの街路にアフリカの木々でも移植して、なんとなく町がセレンゲティ風になればいいのか? それとも「アフリカ」というコンセプトの下、街をそっくり完全に作り変えてしまうことが目的なのか? それらはどっちみち、建設地以外の土地に関わることで、広告代理店の仕事の範疇を超えているのではないか? 僕らの知らないところで、津島町の広大な土地を利用して、サファリパークを誘致する計画でも進行中なのか? いやそもそも、プロジェクトの広告コンセプトを客が提案して決定するのであれば、これまで僕が入社して4ヶ月間の間、クリエイティブと営業が何度も何度も打ち合わせして没を喰らってきたのは一体なんだったのだ? そして、何よりも、何故「アフリカ」なんだ? 誰がどこからどういう発想で、どういう見込みで、「アフリカ」というコンセプトを導き出したのだ? 僕はアフリカに行ったことは一度もないし、津島町にも数回しか行ったことはない。でも「広く雄大である」ということと「何もない」ということでは、決定的に意味が違うということは分かる。
僕には分からなかった。何を言って情報を引き出せばよいのかも分からなかったし、何かを口に出して、客が持ってきたこのコンセプトに逆らうべきなのかどうかも分からなかった。
だが、とにかく何かを言わなくてはならないと思った。僕は口を開いた。
「どれぐらいアフリカにしますか?」
五人の客が、僕を見た。その視線が突き刺さった瞬間、しまった、と僕は思った。何も分からないのに口を開いたという事実が、そのまま言葉になった台詞だった。
「充分にアフリカにしてください。六〇〇戸が完売するように」
大沢がそう言った。僕はまた、分かりました、となんとなく返事してしまいそうになるのを堪えた。それ以外の言葉なら何でもいいから何か喋るんだと自分に言い聞かせた。
遠くから、ドアがノックされる音が聞こえた。あまりにも小さい音だったので、僕はそれは隣の部屋のドアが叩かれる音だろうと思った。だが僕が振り向いた時、上司の山本が「申し訳ございません」と、何度か肩をすくめるようなお辞儀をしながらドアを開けて入ってくるところだった。顔を見るだけで怒りが沸いてきた。しかし同時にほっとした。これで僕はこれ以上ここで、何もしなくても良いことになるわけだから。山本は藤崎さんの隣に座った。
「山本さん」と今川が言った。「私達から説明することは、今日はもうありません。話は松山さんからお聞きになってください。後は、明日の午前9時、今日のこの時間までに、先程お話した内容を受けた、新しいクリエイティブ表現案を用意してください。何しろ時間が全く無い」
山本は、藤崎さんの顔を見た。そして、今川の顔を見て答えた。
「分かりました」
僕はそうあっさりと答えた上司の横顔を、唖然として見た。
僕がその横顔を睨みつけていると、山本が僕に振り向いた。つんとする酒臭い口臭が僕の鼻腔に突き刺さった。
「おい、ショッピングセンターについてはもう話したのか?」
僕は首を横に振って、いいえ、と言った。そして、臭い口を閉じろ、と思った。
「それでは、今日は現地ショッピングセンターとの連動企画の進捗状況について、プロモーション担当の神谷の方から……」
山本がそう言うと、今川が首を横に振った。
「それは明日以降にしましょう。とにかく今は、広告表現のことだけ考えてください。時間はあまりないと思いますよ」
山本は、分かりました、ともう一度言った。
それでもう、誰も口を開かなくなった。僕の頭の中には、「アフリカ」のヒントを導き出すための有効な質問が全く見つからなかった。もし見つけ出せたとしても、もうその問いをぶつける間合いから相手は離れている。上司が来たことで少しは時間が稼げるのかと思ったが、逆に、そのタイミングで打ち合わせ自体を終わらされてしまったのだ。五人の客は既に席を立ち始めていた。
24時間後だ、と僕は考えた。また24時間後にここに来なくてはならないのだ。それも、「アフリカ」のコンセプトに基づいた表現案を持って、更にその広告への久保田玲の出演許可を得て。
そんなことが出来るのか?
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