第4話

 僕はかつて少年だった。それはそれほど遠い昔のことではないような気がする。頭の中に想い出を幾つか思い浮かべてみようとすると、自然に現れてくるのは大体はそんな頃の、仕様もない記憶だ。仕様もないことに一生懸命になり、仕様もない悩みで仕様もない無い日々を使い倒し、真剣で無邪気だった自分が、目を閉じるとすぐ傍に現れてくる。

 僕が子供の頃、『ファイナルファンタジー』というテレビゲームシリーズがあった。驚くべきことに今でもある。多分、僕が中年になってもまだシリーズの最新作は発売され続けているだろう。ひょっとしたら死んだ後まで続いているかもしれない。

その昔、そのことについて友人たちと議論を戦わせたことがあった。つまり、「『ファイナルファンタジー』とは一体何が『ファイナル』で、どこまで続いていくのだろうか」という謎について。その頃確か、既にシリーズは「6」まで発売されており、いずれ「7」が登場することも疑いようの無い状況にあった。では「8」はどうなるのだろうか。「10」まで行くのか。その後も続いていくのだろうか。

 僕以外の全員が、「『ファイナルファンタジー』は永久に続いていく。俺たちが死ぬ頃までには、『ファイナルファンタジー35』が発売されていて、死んだ後には『36』が出る」と主張した。彼ら全員が、世の中の金の回転の理屈を本能的に知っていた。発売されれば必ず二〇〇万本以上のヒットを飛ばすと分かっているのだから、メーカーがわざわざ制作を止める理由は無い、という理屈は小学生だった僕達にも分かっていたのだ。二〇〇万本売れるゲームは、それだけで次回作の開発の費用と動機を弾き出し、次回作のクオリティもある程度担保する。その回転はおそらく、誰かの意思で止められるものではなく、放っておいても無限に勝手に繰り返され続ける。

 ただ一人僕だけが、「いつか『ファイナルファンタジー』は終わる」と主張した。根拠はまるでなかった。僕自身、「ファイナル」と銘打たれたこの物語が、次々と自家増殖し、拡大再生産されていく、ネバーエンディングな物であることを、友達と同じく感じ取っていた。

 僕がその時物語は終わると主張した理由はただ一つ、僕自身が、数十年後、よぼよぼになった指先でコントローラを握って『ファイナルファンタジー35』をプレイすることだけは絶対に嫌だったから、というだけだった。僕が結婚する頃「15」が発売され、僕の子供が結婚する頃「25」が出る。子供だった僕は、それは絶対に嫌だと思った。それを考えるだけで、僕は心の底から恐ろしかった。それは僕に、逆説的に自分がいつか死ぬということを、何に例えるよりもリアルに想像させたのだ。だから僕にとってそれは予測ではなく、ただの願望に過ぎなかった。幾らなんでも物語なのだから、そこには終わりが無くてはならない。いつかどこかで、きっとこの回転が止まってくれるはずだ、僕はそう思った。

 今僕は、神栄不動産での惨憺たる提案が終わったあと、喫茶店で、上司の山本とクリエイティブの藤崎さんとコーヒーを飲みながら、それと同じことを考えていた。あの時、僕の周りの友人たちが口を揃えて「この物語は終わらない」と言うのに反論したように、この仕事はいつか終わる、と自分の頭の中で言い聞かせていた。今の俺にはそれがどういう形で終わるのか分からないだけで、永久に続くものなど無い。

だが僕はその時と同じように、自分に全く自信が持てなかった。

 山本と藤崎さんは話し続けていた。ちょっと失敗だったね藤崎さん、と山本は言った。「あの企画書、口上が必要だったよ。久保田玲を見せる前に、なぜこの提案に至ったかっていう。いきなり見せちゃったから、客の印象が悪くなったな」

 どう考えてもそういう問題ではないだろう、と僕は思った。そもそもあの提案に至った経緯や理由やコンセプトなど存在しないのは明らかだ。でもそんなことは上司も分かっていて、ただそれは、文字通り箸にも棒にもかからなかったクリエイティブを慰めるための台詞だった。完膚なきまでに提案は没だった。僕は、もうこの人は終わりだと思った。次の24時間後に示す提案が、これまでの五発の提案よりも良くなるとは思えない。そんな逆転があるくらいなら、今までの4ヶ月間で幾らでもそのチャンスはあった。とっくに終わっていたのを今までずるずると引き延ばしてきただけなのだ。何故山本が藤崎さんを降板させなかったのか、その理由が今日までずっと僕には分からなかった。おそらくそれはきっと、山本と藤崎さんとが長い付き合いで、友人同士だったからだと思うのだが、まだ僕には、私情とビジネスがそれほど深く関わっているのだという確信が持てなくて、単に上司が、藤崎さんの続投が解決につながるという判断をしただけなのだという考えも捨てきれないでいた。先発ピッチャーを降ろすのは誰だって勇気がいる。でももう、五打者連続でホームランを打たれているのだから、幾らなんでも終わりだ。

 いつの間にか、山本と藤崎さんは無言になっていた。二人とも、煙草の煙を吐き出し、コーヒーをすすりながら、どこでもないどこかを見つめていた。店内にはレッド・ガーランド・トリオのジャズが流れ続けていて、僕はそのアルバム名がなんだったのか思い出そうとしていた。だがどうしてもその名前が現れなかった。きっと、僕はそもそも初めからタイトルを知らないような気がしたが、それでも何かの拍子で思い出せるような気もして、延々とアルファベットを頭の中で組み合わせていた。

「お前から話してみろよ」

 僕が顔を上げると、山本が僕の方を見ていた。何をですか、と僕は聞き返した。

「『アフリカ』のことに決まってるだろ。『アフリカ』って何だって言ってた?」

 僕はコーヒーカップを手の中で回しながら、歌でした、と言った。

「歌ってなんだ?」

「『アフリカ』っていう歌でした。有名な歌みたいです」

「で、それがなんなんだ?」

 僕は首を横に振った。「その歌みたいな感じの広告を作ってくれってことだと思うんですけど、正直よく分かりませんでした」

「『分かりません』じゃねえだろ。お前が聞いたことなんだから、お前が俺に持ち帰って説明しなくちゃならないんだぞ。分かんないなら何が分かんないのか客に訊いて来いよ」

 申し訳ありませんでした、と僕は言った。何が分からないのか分からなかったので、訊きようがありませんでした、とは言えなかった。

「もう遅えよ。とりあえず、歌だな」

 山本はそう言って、掌で顔を擦った。どうしてだろう。自分と合わない人間というのはいるもので、そういう人間の挙動や言葉は、どんな細かなものであっても自分を不快な気持ちにさせるのだ。僕は上司と知り合ってから、まだ3ヶ月ほどしか経っていない。それなのに、どうしてこの男に対してこんな不愉快な気持ちを抱くのか、自分でも分からなかった。僕は彼を頼らなくてはならないのに、少しも信頼する気持ちになれないのだ。僕はかばんからマルボロメンソールを取り出して、火を点けて深く吸い込んだ。

「それから」、と僕は言った。「『久保田玲を表現に使え』って言ってました。それが条件だって」

「久保田玲?」

 山本は藤崎さんを見た。その見開かれた眼の動きを見たとき、僕は初めて、山本も今日の藤崎さんの提案をあらかじめチェックしていなかったのだと気付いた。藤崎さんはゆっくりと頷き、あれだけはOKだった、と答えた。

「で、出演の裏は取った?」

 山本は、一応訊くけど、と言いたげにそう訊いた。

「そんな暇無かったよ。あったとしても無かったと思うけど」

 藤崎さんはそう言って、唇の端をゆがめて微笑んだ。

「参ったな」、そう言って山本はまた顔を掌で撫でた。「こいつは参ったぞ。ちょっと洒落にならん。使えないものを出したってことになったら……」

「使えないんですか、久保田玲、やっぱり」

 僕がそう訊くと、山本は充血した上目遣いで僕を睨んだ。

「使えると思うか、お前? あのど田舎のマンションの広告に久保田玲が出ると思うか?」

 僕はすぐ、首を横に振った。ただ、一応訊いておくのが新人らしい僕の役目かと思っただけだ。そして、状況を良く理解もせずに「分かりました」と客に答えた上司に対する皮肉を言ってやりたかっただけだった。

「とにかく考えなくちゃならないし、動かなくちゃならない。どうする?」

 山本も藤崎さんも僕も、それで黙った。僕は何も言い出せなかった。僕に分かっているのはたった一つで、それは僕が言うべきことではなかったからだ。「クリエイティブディレクターを替える」、それを山本がどんな風にして言い出すのか、僕には分からなかった。だがこんな真昼間の喫茶店で切り出すのは難しいだろうな、と僕は思った。

 長い沈黙の後で、山本は言った。

「二手に分かれよう。松山」

山本は僕に、コーヒーと煙草と酒が混じった息を吐きかけながら言った。

「俺たち二人はクリエイティブ案を再検討する。お前は、久保田玲を当たれ」

「どうすればいいんですか」

 山本は、ポケットから携帯電話を取り出して、ボタンを操作し、僕に示し、この番号に電話しろ、といった。そこには電話番号とともに、永田、という名前があった。

「キャスティング会社の人間だ。何回か使ったことがある。とにかく、事情を説明して、久保田玲を出せるかどうか相談して来い。電話じゃなくて、直接会って話した方がいい。難しいかも知れんけど、食い下がって来いよ、『駄目でした』じゃ済まねえんだからな。でも、それでもほんとに難しいなら、最悪代替案を相談して来い。久保田玲と同じようなインパクトで、他に誰が使えるのか」

 僕は、示された番号を自分の携帯電話に登録して、分かりました、と言った。

 ちょうど番号を登録し終えたその瞬間、僕の携帯電話が鳴った。僕は反射的に受話ボタンを押して電話に出た。

〈もしもし、松山か? 中島だけど、今話せるか?〉

 僕と山本の上司、中島部長からの電話だった。

 僕は、大丈夫です、と言った。

〈そうか。今日の提案、大丈夫だったか?〉

 僕が、何と言って答えたらよいのか分からずに一瞬言葉に詰まると、部長が遮った。

〈いや、いい。大体想像はつく。それよりお前、今動けるか? ちょっと新宿まで来て欲しいんだ〉

「まだ僕達、新宿にいます。山本さんと、藤崎さんと一緒です。喫茶店で、少し打ち合わせしてました」

〈そうか、ちょうど良かった。それじゃあ今すぐ神栄の三十一階に戻って来てくれ。津島プロジェクトの件で今川に呼び出されたんだけど、今日時点の状況が全く分からないから、お前でもいいから誰か担当者が居て欲しい〉

「でも」と僕は言って、山本の顔を見た。山本は僕の顔を無表情に見ていた。「仕事があります。結構急ぎです。山本さんと相談させてください」

 部長は、電話の向こうで一瞬黙って、〈分かった〉と言った。〈でも、できるだけそっちの仕事は後回しにして欲しい。いいな?〉

 部長は電話を切った。

僕は、山本に電話の内容を簡単に話した。部長が、神栄不動産の今川に呼び出されて、そこに僕も立ち会って欲しいとお願いされました、と。

 山本は顔をしかめたが、やがて、分かった、と言った。

「走って行ってこい。分かってると思うけど、終わっても走れよ」

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