PJ:アフリカ

松本周

第1話




8月8日 午前7時00分 ~ 8月9日 午前10時00分



 

 僕の部屋の窓は縦に短く、やたら横に長い。ちょうどいい大きさのカーテンが見つからなかったので、三枚のカーテンを並べて吊るしている。僕はいつも、その真ん中の三分の一を開けっ放しのまま眠っている。朝、部屋に差し込む光で体を温め、目を覚ましやすくするためだ。3時間しか眠っていないので、そうしないと起きられない。僕は数時間前この部屋に帰ってきて、スーツを脱ぎ捨て、枕元に転がっていた小説の文庫本を開いて、その後の記憶はまるでないので、それはひょっとしたら2時間かもしれない。どちらにしても、僕は今目覚めなければならない。夢のリズムから大幅にねじ曲がった時間を先駆けるには、自分自身以外の力が必要だった。

 太陽だけでは足りないので、僕は音楽を聴いた。

 タイマーでセットしたステレオから聞こえている今朝の音楽は、デフ・レパードの「ヒステリア」だった。どうせまともには聞こえないので、音楽なら何でも良く、できる限り大きな音がいい。ボリュームを普段の三倍にしたデフ・レパードは、眼球の奥と腹の奥が悲鳴を上げるような音で、意識が覚醒するより先に怒りがやってきた。

目蓋の向こうに光を感じ、耳に音楽がなだれ込んできて、それでも、僕の腹筋に力が入り始めるまでには無数の障害があった。僕が考えていることはたった一つ、「あと1時間眠りたい」。あと1時間眠れば、起きることを考え始めてもいい。しかし実際にはどれだけ粘ったとしても、あと十五分が限界だった。僕は、目を覚ますように自分に言い聞かせた。実際にぶつぶつと声に出して、「起きろ、起きろ、起きろ」。その声はいつの間にか歌に代わった。

「僕に砂糖を注いでくれ、愛の名において」

 僕は目を覚ました。そしてやかましく歌い続けているデフ・レパードの停止ボタンを押した。静寂が部屋を包み、やがて窓の外から鳥の鳴き声が聞こえた。僕はしばらくぼんやりと、部屋に差し込む眩しい朝の光を見つめた。朝だ、朝だ、朝だ、と僕は心の中で思い、実際にそう口に出した。「朝だ」。昨日がいつ終わったのかも分からないのに、もう今日が始まったのだった。

 僕はテーブルの上の煙草に手を伸ばし、火を点けた。深く吸い込んで、吐き出すと、煙が窓に吸い込まれて消えていく。二本目の煙草に火を付けた後、僕はベッドの脇で充電コードにつながっている携帯電話を拾い上げて、液晶画面を眺めた。それは2、3秒で僕の手から離れ、床に転がった。分かったのは、今が夏のど真ん中で、火曜日ということだけで、それだけ分かれば十分だった。どれだけ願っても、眠っている間にいきなり夏と秋をすっ飛ばして冬が来るような事はない。

 胃が震えるような吐き気がした。毎日毎日、昨日から遠ざけ続けた今日が、今朝も来たわけだ。僕は試しに、昨日何があったのかを思い出そうとしたが、いつも通り具体的なことは何も思い出せなかった。

 僕は煙草を咥えたまま、まだしばらく動けなかった。僕の体は未練たらたらに目覚めることを拒否している。何の情報も体の中に入れたくない、何らの労働も僕自身の為にしたくない、と拒み続けている。しかしそれでも僕はベッドから降りて、風呂場に向かって歩き始めた。足元がふらふらしているが、とりあえず真っ直ぐ歩いている。いつも不思議に思う、今から一時間半後に新宿でクライアントとの打ち合わせが始まるが、それは別に僕がいてもいなくてもどっちみち変わらずに進行していくだろう。それでも僕がそこに行くのは、時給に換算すれば五〇〇円分ほどになる給料のためだが、僕は今、熱いシャワーに全身を浸しながら、自分の行動が具体的な金につながるというイメージを持つことができなかった。そしてそれが自分にとっての具体的なメリットなのかどうかを考えることができなかった。僕が考えているのは、もっと目前のことで、こうしてほんの僅かの睡眠で目覚めるのは、それが約束だからだということだった。上司との待ち合わせ場所の約束、客との約束。僕は子供のころから一度も、少なくとも自分がペンで紙に書いた約束は、破ったことがないのだった。

 風呂場から出ると、僕は下着姿でもう一本煙草を吸った。そして、ステレオのCDをデフ・レパードからコールドプレイの「パラシューツ」に取り替えて、再生した。この3ヶ月間、毎日毎日このアルバムばかり聴いている。

「星を見なよ、どんなに君を照らしているか。

 そこでは君の全てがイエローに染まる」

 僕はしわの目立つスーツに着替えて、充電満タンの個人用と会社用の2つの携帯電話をカバンに放り込んで家を出た。既に外は、息苦しいほど暑い夏の空気が充満していた。そしてiPodでコールドプレイの続きを聴きながら歩き、地下鉄日比谷線のプラットホームで電車を待った。そこでは乗客とともに、駅員が各乗車位置ごとに一人ずつ立っている。

 電車がホームに入ってきた。僕の目前を通り過ぎていく車両はいずれも、完全無欠な満員電車で、乗客は誰もが無表情に顔をしかめている。眼の前でドアが開いた時、乗客はぎゅうぎゅうに体を押し付け合い、脚が何本もドアの縁からはみ出していて、僕の入る隙間はどこにもなかった。僕はいつも一瞬迷って、諦めて一本見送って次の電車に乗ろうかと思うのだが、不思議なもので、いつも幾ら待っても同じような車両が同じような満員電車でやってくるのだった。僕は無表情に眉間にしわを寄せて、足を踏み出して車両に乗り込んでいった。すると傍にいた駅員が寄ってきて、僕の体を押す。乗客と駅員にサンドイッチにされて、背中がきしんだ。駅員が精一杯僕の体を押し込み、まるで乗り込んだ気持ちがしないうちに、鼻っ柱をかすめてドアが閉まった。僕は頬と掌を窓ガラスに押し付けて、通り過ぎていくホームを見つめた。



 新宿駅の構内はいつもどおり、どろどろの血液が、血管に詰まりそうになりながら、駅という心臓から無数の手足の先端に向かって送り出されて行くような光景だった。僕もどろどろの血液の一滴になって、西口方面に向かって、ダンスのステップを踏むように人並みを縫って歩いていった。

 僕は超高層ビルの群れを見上げながら歩いた。田舎の大学から出てきて、就職活動で初めて足を踏み入れて以来、僕はこのビル群の東京都庁以外の建物が一つも見分けがつかなかった。しかし嫌でも道はもう覚えてしまったので、半分以上眼を閉じていても自動的に、打ち合わせ場所のビルの目の前に辿り着く。外見的に何の特徴もない、ただひたすらに馬鹿でかい白いビルで、見上げていると首が痛くなる。僕は初めてここに入っていく時、「太陽を盗んだ男」という映画を思い出した。沢田研二がビルの壁に手を押し付けて空を見上げ、「ゆっくり離さなくちゃ駄目なんだ」と言うシーンだ、「でないと崩れ落ちてくる」。

 エレベーターで三十一階まで登り、受付電話が置かれた待合室の椅子に座った。通称、「代理店の間」。腕時計を見ると8時50分、打ち合わせ時間の10分前だった。僕は昔からパンクチュアルな男で、自分ひとりの理由では一度も遅刻したことがなかった。それは僕の数少ない美徳と言うより、広告代理店の新人営業が身に付けておくべき最低限の資質だった。テーブル型の空気清浄機が備え付けられた、まだ誰もいない待合室で、煙草に火を付けた。これが最後の休憩で、後は1時間か2時間か、じっと人の話を聞いているだけの時間が来る。そしてその後は、打ち合わせで出た話を片付けるために東京中を走り回ることになる。いつも必ずそうなのだ。

 僕の次にやってきたのは、クリエイティブディレクターの藤崎さんだった。僕がおはようございます、と声を掛けると、おはよう、と疲れきった声が返ってきた。座ったらもう二度と立ち上がれないボクサーのように、異常に顔色が悪かった。大丈夫ですか、と僕が声を掛けると、藤崎さんは、大丈夫なわけないだろ松山君、と答えた。そして煙草に火を付けた。「1時間前まで六本木だったんだ」。

「山本さんと一緒だったんですか」と僕は聞いた。

「日付が変わるまでは一緒だったんだけど、その後あんまり覚えてないんだよなあ」

 そうですか、と僕は言った。そして、「サザエさん」に出てくるアナゴさんにそっくりな、40歳になったばかりの上司の顔を思い浮かべた。僕が昨日、「とにかく適当に利益を乗せろ」と言われ、わけの分からない大量の見積書を作り、わけの分からない調べ物を続けている間、六本木のおっぱいパブで膝の上に女の子を載せて笑っていた上司の顔をだ。僕はそれに対してどうのこうの思うわけではなかった。僕が思っていたのは、とにかく打ち合わせには遅れずに来てくれということだけだった。

 藤崎さんが僕に聞いた、「今日のほかのメンバーは?」

「プロモーションの……」

 言いかけたところでプロモーション担当の神谷さんが現れた。逆立った髪型といい茶色いサングラスといい、どう見ても現役のヤンキーにしか見えない。僕は、煙草を点けながら待合室に入ってきた神谷さんにぺこりと頭を下げて、おはようございます、と言った。うん、と神谷さんは頷いて、椅子に座り、深く煙を吐いた。座った瞬間、体に纏ったチェーンがじゃらっと音を立てた。耳のピアスはぐらぐら揺れている様に見えた。

 僕ら三人はしばらく会話なく煙草を吸った。僕のカバンには三つの煙草が入っていた。「キャビンスーパーマイルド」と「マルボロメンソール」と「ラッキーストライク」。それぞれ気分と状態に応じて吸い分ける。僕はマルボロメンソールに火を点けた。

 マルボロメンソールを半分ほど吸ったところで藤崎さんが僕に言った、「山ちゃんは?」

 僕は腕時計を見た。9時3分前。僕は、一応電話かけてみます、と言い、携帯電話を取り出した。

 十回ほどコールしたところで上司が出た。

「おはようございます。松山です」

〈もしもし、何だ〉

僕は「何だ」、というのがどういう意味なのか一瞬本気で考えそうになった。だがもちろん、打ち合わせは三分後に始まり、ここに来ていないのは上司のほうだ。「打ち合わせ時間、大丈夫そうですか?」

〈今日の議題なんだっけ?〉

「クリエイティブ表現の再提案と、現地ショッピングセンターとの連動企画の提案です」

〈そうか。ショッピングセンターの方を先にやっといて。俺ちょっと遅れてるから〉

 至極当然のことだ、という口調で、山本は言った。

 僕を苛々させる為にわざわざそういう口調を選んでいるのではないかという気がする。そしてそれは実際に睡眠不足の僕を覿面にいらつかせる。いつものやり口だ。やむを得ず僕は訊いた。

「『ちょっと』ってどれぐらいですか」

〈すぐ着く。いいから先に始めてろ〉

「分かりました」

〈ショッピングセンターの方は、ほぼほぼOKだけど、クリエイティブ表現の方はお前だけに任せとくとやばいからさ。そのころには着くから〉

「分かりました」

〈客には先にもう電話しといたからさ。ごめんな〉

 それが嘘だということは分かっている。分からないのはどうしてわざわざそんな嘘をつくのかということだ。僕はもう一度、分かりました、と言って電話を切った。そして、メンバー2人に向かって、「山本さん少し遅れるそうです」と伝えた。

「六本木でトラブったか」と藤崎さんが言った。

 僕は苦笑いして、動揺を必死で押さえつけながら、受付電話の前に立った。そして、意を決して受話器をとった。「三広の松山です。9時からの打ち合わせで、今川様お願いいたします」。

 神栄不動産、広報宣伝部、広告担当課長、今川洋一。通称、「阿修羅の今川」。僕は前にも一度、この男と営業一人で打ち合わせをした。そして徹底的に罵倒された。彼は僕に向かって言った、「仕事にならない」。僕もその通りだろうとちょうど思っていたところだったので、一言も言い返せなかった。

 かしこまりました、そう言って通話先の女性が電話を切った。

 きっかり5分後、彼は現れて僕たちは打ち合わせ場所に案内される。いつも決まってそうなのだ。僕には見えるような気がする。電話を受けた女性社員から、彼は僕達の訪問を告げられる。彼は無言で頷く。そして、目の前のパソコンの受信メールボックスをざっと眺めやる。プロジェクトのスケジュール表をじっと見つめる。今日の会議で、進行すべき内容の確認。そして4分を過ぎたころに立ち上がる。彼はプロジェクトの資料が一式詰め込まれた分厚いファイルを手にとる。女性スタッフに、空き会議室の確認をする。彼は部屋を出て、早足に廊下を歩いてくる。僕達、広告代理店のメンバーは、そのころには煙草の火を消し終えて、直立不動で彼の到着を待っている。

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