第24話

 それは3歳から4歳くらいの頃のことだったはずだが、プリウスは正確には思い出せなかった。

 その頃プリウスの家は県のど真ん中の田舎にあった。町として最低限の機能を維持するための役場や郵便局や雑貨店の他に、和菓子屋や、蕎麦屋や、ほんの幾つか食べ物を出す店があり、それ以外辺りは一面水田で、夏にはその脇の水路に蛍がやって来る。近くには温泉も湧いていた。プリウスの家は桜並木を通り抜け、地元の神社を通り過ぎたすぐ近くにあった。静かな場所にあるその古い日本家屋は、両親が伝手を辿って借りてきたものだった。

 その頃から彼は一人だった。生まれ落ちてからほとんどずっと一人だったと言って良い。父親はほとんど家にいなかったし、友達になるような年代の近い子供は周囲に全くいなかった。母親が家にいて歌を聴かせたが、プリウスはにこにこ微笑んで聴いているだけで、決して一緒に歌おうとしなかった。やがて彼は自然と家の外に出ていった。川の水を掬い、魚を探し、虫を追いかけた。どこに行くのも、何をやるのも一人だった。それがプリウスの原風景だった。

 プリウスはやがて絵を描き始めた。母親がクレヨンとスケッチブックを与えると、楽しんでいるのかそうでもないのか良く分からない表情で、一日中ずっと絵を描くようになった。彼は家の中のものを描き、母親を描き、そして家の外を歩くアリやバッタや蜂や蝶の絵を描いた。

 やがて少しずつ写生のための行動範囲が広がり、彼はスケッチブックとクレヨンを抱えて狭い町中を練り歩くようになった。水筒を肩から下げ、麦わら帽子をかぶって水田の傍のあぜ道で屈みこんで絵を描いている彼の姿はしょっちゅう町の老人に目撃された。

 彼のお気に入りの場所は、家の近くにある森だった。そこにはせせらぎが流れていて、彼の他に誰も足を踏み入れることが無い静謐な場所だった。少し先に行くだけで、夏の虫たちが生き生きと暮らす鬱蒼と茂る森のど真ん中で駆けまわって寝転ぶことができ、透明でひんやりとしたせせらぎのたまりの向こうで鮎が泳いでいた。川を下って戻ってくればすぐに家に辿りついたので、全く迷う心配もなかった。プリウスは漠然とその場所を「良い場所」だと感じた。彼はそこで毎日絵を描いた。

 ある日彼は川べりの岩に腰掛けて、カブトムシの絵を描こうとした。だが上手く描けなかった。角がどうなっていて、頭がどうなっていて、足が何本あるか分からなかった。世の中にはカブトムシという格好の良い昆虫が存在することは図鑑で見て知っていたのだが、本物の姿がどんな形だったか思い出せなかった。それはこの森の奥にもきっといるはずだったが、プリウスにはそれを見つけることができず、また捕まえる方法も知らなかった。

 プリウスがスケッチブックに向かって俯いていると、ぽとっ、と音を立てて何かがそこに落ちてきた。

 カブトムシだった。

 カブトムシは白い紙の上をゆっくり這いまわり、プリウスに向かって角を自慢げに掲げて見せた。

 プリウスは微笑んだ。そしてその目の前のカブトムシの形を注意深く辿って、丁寧に紙に描きつけた。そしてしばらくして、全く見事で完璧としか思えないカブトムシの絵が完成した。プリウスはカブトムシを森に放してやって、家に帰った。

 次の日プリウスは同じ場所にやって来て、今日は何を描こうかと考えた。考えていると、またスケッチブックの上に、何かが落ちてきた。セミの幼虫だった。それは白くずるずると紙の上を這いまわり、同じところをぐるぐると回っていた。プリウスはまた微笑んでそれを絵に描いた。

 しばらくしてふと顔を上げた時、川を挟んで向こう側に、誰かがいるのが見えた。

 子供だった。

 森が始まる木々の間に、プリウスと同じくらいの年恰好の子供が立っていた。大きな目で、少し体を木に隠して、プリウスの方をじっと見つめていた。

 プリウスはその子供に向かって手を振った。子供はじっとプリウスの方を見て動かないでいたが、プリウスがずっと手を振り続け、やがて大きく振り回すようになったので、木から全身を現して、川を渡ってやってきた。せせらぎに横たわった石に飛び乗り、次の一足で川を飛び越え、更に跳躍してプリウスの隣にあっという間にやってきた。

 子供はプリウスの隣に屈みこみ、彼が絵を描くのをじっと見つめていた。プリウスが描き終わってその絵を見せると、子供はぱちぱちと拍手した。

「明日はクワガタ描く?」と子供はプリウスに訊いた。

 プリウスは頷いた。

 プリウスがスケッチブックを閉じてクレヨンを箱にしまって振り向くと、子供はもうどこにもいなかった。

 翌日、プリウスは大体同じ時間に同じ場所に行って、スケッチブックを開いた。するとまもなく、昨日と同じ子供が川の向こうにまた現れた。さっきまでいなかったはずなのに、気がつくとそこにいた。

 川を渡ってプリウスの隣に立った子供が手に持った帽子の中に、クワガタが山盛り入っていた。プリウスは満面の笑みを浮かべて、そのクワガタを絵に描いた。

 その子供はプリウスの生まれて初めての友達だった。その子供が、男の子なのか女の子なのか、プリウスは全く考えもしなかった。その子はただ「友達」だった。そしてプリウスはその子の事を友達だと思うよりも先に、絵を描くことと同じくらい、友達に会うのが大好きになった。

 プリウスは友達が持ってくるものを何でも描いた。と言うよりもプリウスは、友達が自分の描きたいものを何でも持ってきてくれるのだと思った。友達は毎日、バッタをかごに入れてきたり、色とりどりの花を摘んできたり、船や車のミニチュアや、様々なおもちゃを持ってきた。友達が空に手をかざすと、その手に小鳥が舞い降りた。プリウスの絵を描く速度が上がり、描くものが無くなってしまった時は、ちょっと待って、と言っていなくなり、しばらくするとバケツに鮎を2、3匹入れて戻ってきた。プリウスはまたそれを喜んで絵に描いた。

 二人は毎日一緒だった。朝ご飯を食べてから昼ご飯まで二人並んで絵を描いて、一旦家に帰り、昼ご飯を食べてから夕方までまた絵を描いた。時々は、昼ご飯にプリウスの母が作った弁当を二人で分けて食べた。プリウスが近所の和菓子屋の饅頭をおやつに持ってくると、それも二人で分けた。友達はそれを食べると目を宝石のように輝かせた。絵を描くだけでなく、森の中を駆けまわって遊んだ。駆けっこをするとプリウスは友達に決して追いつけなかった。トンボのような早さで木々をかき分けて森の向こうまで走って行ってしまい、ゴールまで行ってすぐにプリウスのところに戻ってきた。かくれんぼで友達が隠れると気配が完全に消えて、プリウスには絶対に見つけることができなかった。だが、プリウスが走り回って森の中を探していると、すぐに我慢しきれなくなったように友達はプリウスに後ろから抱きついて来た。

 プリウスは何度か友達の絵を描いた。プリウスが絵を描く間、友達は直立不動でモデルになった。描かれた絵は、友達一人の絵もあり、二人が手を繋いで笑っている絵もあった。

「一番好きなものはなに?」と友達がプリウスに訊いた。

 プリウスは少しだけ考え、スケッチブックに絵を描き始めた。頭の中に、その姿がはっきりと浮かんでいた。

 プリウスは船の絵を描いた。白い、巨大な船だった。船にはたくさんの乗客が乗っていて、その周囲に広がる青い海には、鯨やイルカや魚が泳いでいた。船は鯨よりもはるかに大きく、悠々と海を進んでいく最中だった。

「わかった」と友達は大きな目を開いて言った。「いつか、あなたのところに、世界で一番でっかい船を持ってきてあげる」

 プリウスは頷いた。

 そうした日々は、どれくらい長く続いたのか、プリウスには思い出せなかった。1、2ヶ月くらいだったかもしれないし、1年くらいだったのかもしれない。

 ある日、プリウスの一家は引っ越しすることになった。

 プリウスは、両親が言うその言葉の意味を、最初は漠然と、やがてはっきりと理解した。彼は泣きわめいてそれに抵抗した。だが言葉を喋らないプリウスが何を考えているのか両親には理解できなかった。そして、もし喋れたとしてもまともに信じてもらえなかったかもしれない。突然消えたり現れたりして、お願いすると虫やおもちゃを何でも持ってきてくれる友達の事を話しても、空想としか思われなかったかもしれない。

 プリウスはショックで、引越まで外に出かけることができなくなり、家に閉じこもっていた。

 それでも引越の前日、プリウスは意を決していつもの場所に向かった。だが、川べりでどれだけ待っても、友達は現れなかった。じっとしゃがんで待ち続けていると、やがて日が暮れはじめた。プリウスはいつもの岩場の上に、スケッチブックを置いた。全てのページが埋まったそれを、友達にプレゼントしたかったのだった。プリウスは何度も振り返りながら、家に帰った。スケッチブックは岩場に置かれっぱなしのままで、友達は最後まで現れなかった。

 そしてプリウスはその田舎町を去り、両親とともに港町に引っ越してきた。プリウスは幼稚園に通うようになり、相変わらず無言で絵を描き続けた。プリウスは同じクラスの誰よりもずば抜けて絵が上手かった。プリウスが描く絵は様々な人から褒められた。だがつまらなかった。友達なら褒めてくれるだけでなくもっと面白いものを自分に見せてくれた、と思った。

 やがてタイムが生まれ、プリウスは小学校に進学した。そこでも特に彼の生活は変わらなかった。静かに絵を描いていて、誰とも話さなかった。友達は一人もいなかった。

 部屋の中にスケッチブックが何冊も貯まって行った。プリウスは様々なものを描いた。風景全体を描く術をとうに身に付けていて、目に映るもの全てが描く対象となった。体が大きくなり、行動範囲が増大し、世界が広がり続ける限り、彼の絵も成長し続けた。

 プリウスは8歳か9歳の頃には、友達の事を思い出さなくなった。

 忘れたというわけではなかった。友達の気配は、プリウスの記憶の底に、積み重なったスケッチブックの一番下に、仕舞い込まれていた。だがその上に次から次に新しいスケッチブックが積み重なって行き、取り出して中身がどうだったか確認することは最早できなかった。

 小学校の高学年のある時ずいぶん久しぶりに、ふとその友達の事を思い出した。正確には思い出したというよりは、プリウスの中で何かが腑に落ちた。誰かに何かを言われたわけではなく、唐突に思った。あれは自分の想像上の友達だったのだ、と。敢えてそう解釈して位置付けたというのではなく、記憶は自然とその場所におさまって行った。手元にあのスケッチブックはなく、それが現実に起こったことだったかどうかを示す事物は一つも残っていなかった。最早プリウスにはあの頃本当に何が起こっていたのかが分からなかった。実際のところプリウスは、記憶があまりにも幻想にぴったりと寄り添いすぎていたために、それが現実だったのかどうかと真剣に考えることも無かった。

 風よりも速く駆け抜けて、川をひとっ飛びで越え、誰も捕まえられない珍しい虫をすぐに連れて来る友達、そんな友達は、空想の中にしかいない、とプリウスは感じた。自分はあの頃本当に一人だった。そんな自分が作り上げた想像の友達なのだとプリウスは思った。もちろんそれは大切な記憶だった。あの時自分が流した涙は本当だったし、あの時友達の事を大好きだった気持ちも本当だった。しかしそれは現実に存在したかどうかとは関係がない。プリウスはそう思った。あの子は自分の魂の一部で、幻想だった。

 たった今まで、そう思っていた。


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