第28話

 駅のホームで両親とタイムとトニーに見送られ、プリウスは電車に乗りこんだ。両親は満面の笑顔で、母に抱きかかえられたトニーは舌を出して笑い、タイムだけが涙ぐんでいた。プリウスがタイムの頭を撫でると、タイムは、やめてよ、と言った。しかし手で振り払うことはしなかった。

「お兄ちゃん、気をつけてね。東京で変な女に捕まらないように」

 プリウスが頷くと、発車ベルが鳴り、ドアが閉まった。

 プリウスは家族に向かって手を振った。プリウスの父は大きく手を振り、母はトニーの前足を掴んで振った。タイムは下唇を噛んで小さく手を振った。電車が動き出し、ホームはあっという間に後方に消えて行った。

 プリウスは大きなボストンバッグとリュックを引きずって、ほとんど人のいない列車の座席に腰掛けた。そしてリュックからポカリスエットを取り出してぐびぐびと飲み、ニンテンドー3DSを取り出してドラゴンクエストⅧをやった。それぞれ、ポカリとタカハシからの餞別だった。ポカリからは使い古しのデジカメももらった。マウンテンからは大量のプロテインをプレゼントされていたが、いまのところ服用の機会に恵まれていなかった。

 プリウスは高校を卒業する前に、三人それぞれに、絵を描いて贈った。ポカリにはタタラ場のタマゴの絵を、マウンテンにはハーレー・ダビットソンの絵を、タカハシにはシボレー・カマロの絵を送った。美少女達が描かれたあの極彩色のカマロではなく、ただシンプルな真紅のボディだった。

「お前も人の気持ちが分かるようになったな。あんなもんをリアルに描かれても、部屋に飾れねえ」とタカハシは絵を受け取って言った。

 プリウスは微笑んで頷いた。

「しかし残念だな。あいつにはもう一回乗ってみたかった。見つかったら連絡くれ。それまでにリアルワールド用の免許は取っておく」

 プリウスは頷いた。

 タカハシの言う通り、あの極彩色のカマロは、最早プリウス宅には存在しなかった。タカハシがあの日こっそりと、車体のありとあらゆる箇所がぼこぼこに傷ついたカマロをプリウス宅の前に返しておいたところ、夜になってそれを発見したプリウスの父は膝を折って嘆いた。しかし翌朝になって車を修理見積りに出そうとしたところ、カマロ自体がどこにもなくなっていた。誰が、いつ、どうやって盗んだのか全く分からず、10ヶ月経った今になっても行方不明だった。

 プリウスはじっと3DSの画面を睨みつけた。町中を歩き回って小さなメダルを探し、カジノでスロットを回し、現れる敵をはやぶさ斬りやかぶと割りで倒しながら、ダンジョンの奥深くに入り込んで謎を解いた。

 レベルが上がる音がしたところで、電車がターミナル駅に着いた。プリウスは3DSを閉じてリュックにしまい、重い荷物を背負って歩き、大量の人々が行き交うコンコースを歩いて行った。改札を抜け、新幹線のホームに立ってしばらく待つと、流線型の長い顔をした700系の新幹線がやってきた。乗りこんで窓際の指定席に座ると、プリウスはまた3DSを開いた。

 ひたすら東に向かって走り抜ける新幹線が富士山を通り過ぎた辺りで、画面の中にはぐれメタルが現れた。プリウスは注意深く息を吸い込んだ。この敵が莫大な量の経験値という報酬を持っていることはプリウスにも良く分かっている。銀色の泡を体から浮かべ、丸い目で、へらへらと笑い、何を考えているのか全く分からないその顔を見つめ、森の奥でクワガタに出会った子供のような慎重さで、キャラクターの行動を選択した。

 戦闘が始まった。しかし何度攻撃しても、一発も命中しない。はぐれメタルは人を小馬鹿にしたようなぷるぷると震える動きを取り、攻撃呪文を何度か吐き出して、結局3度目の攻撃ターンで逃げ出してしまった。

 ドラゴンクエストⅧに熱中している間に、新幹線は東京駅に到着した。プリウスはJR中央線のホームに向かい、今度は西へ向かう列車に乗り込んだ。明るい日差しが差し込む車内には、何人かの老人と何人かのサラリーマンが乗っているだけで、人混みを覚悟してきたプリウスが拍子抜けするほど静かだった。

 プリウスは西国分寺駅で電車を降りて歩き出した。3月の下旬、まだ季節は冬から抜けきっていなかったはずが、やたら天気のいい日で、重い荷物を背負ったプリウスの額には汗が滲み始めた。十数分歩くと、契約したアパートが見えてきた。築40年近いかなり年季の入ったアパートで、ぼろぼろの階段をゆっくりと踏みしめ登って行き、二階の角部屋のドアの前で荷物を降ろして鍵を開けた。

 畳と壁のクロスは新品に貼りかえられていて、掃除も済んでいる。外見は一見唯のボロ屋だが、風呂はユニットバスだしトイレも洋式の水洗だ。なんとエアコンまで付いている。日当たりも悪くない。プリウスは窓を開け放つと、6畳間の真ん中に立って、部屋の中を見回し、畳の匂いを吸い込んだ。

 プリウスは畳の上に座りこんで、引っ越し業者の到着を待った。前回やって来た時に下の部屋の住人には挨拶を済ませてある。白髪で腰の折れ曲がった老人だった。プリウスが挨拶の和菓子を差し出すと、老人は無言でにっこり微笑んでそれを受け取って頭を下げた。老人によると、プリウスの隣部屋の住人は女性だということだったが、先日は不在だった。引っ越し作業で多少騒がしくなることだし、今の内に挨拶をしておこうと思って、プリウスは立ち上がり、リュックから和菓子を取り出し、靴を履いて外へ出た。隣の部屋の前に立ち、インターホンを鳴らした。しかし、どれだけ待っても出てこなかった。プリウスは諦めて部屋に戻った。

 引っ越し業者は1時間後にやってきた。単身用のごく少ない荷物ばかりだったので、搬入はあっという間に終わった。布団と冷蔵庫と洗濯機と、持ち込み切れなかった衣服と画材道具と調理道具とラグマット、それくらいだ。大学の入学式までにはまだ一週間以上ある。机や椅子やパソコンや本や食材は、これから買い揃えればいい。

 ひとしきり荷物をあるべき場所に収めてしまうと、プリウスは手持無沙汰になった。まだ太陽は高く明るく、夜までには時間がある。

 プリウスは窓の外を眺めた。向かいの家の庭に、桜の木が3本植えられていた。つぼみが膨らみ始めていて、間もなく開花するところだった。満開になれば、この部屋にも桜の花びらが舞いこんでくるだろう。

 プリウスはリュックから鉛筆とスケッチブックを取りだした。窓際に腰掛け、鉛筆でさらさらとその輪郭をなぞった。風が心地よく吹いている。どこからか甘い匂いが漂ってくる。プリウスはずっと昔にその匂いを嗅いだ事があった。ごく小さな頃、どこでもないどこかを走り回っていた時に、道の向こうや壁の向こうや木々の向こうから漂ってきた、花の匂いだ。

 プリウスがその花の名前を思い出そうとしていると、部屋の中に木琴楽器の軽快な音楽が鳴り響いた。プリウスは顔を上げ、部屋の中を見回した。それは、部屋の隅に置かれたリュックから聞こえてくる。

 リュックのポケットに突っこまれたスマートフォンが、スピーカーから音楽を奏でながら振動しているのだった。それはプリウスが両親に頼み、大学の入学祝と連絡用に買い与えられたものだった。電話番号を表示しながら振動するスマートフォンをプリウスは取り上げた。おかしい。これまで自分がその番号を教えたのは両親と引っ越し業者だけだが、表示されている番号はそれではない。

 タカハシかポカリかマウンテンだろうか? でも自分はまだ、彼らにさえその番号を伝え損ねている。落ち着いて、きちんとメールの使い方や、電話の仕方を覚えたら、連絡しようと思っていて――

 プリウスの心臓が、いきなり跳ね上がり、激しいビートを刻んだ。

 たった一人だけ、思い当たる人物がいる。

 誰にも教えていない僕の電話番号を盗むことなど簡単にできてしまう人がいる。

 今、僕に電話を掛けて来る人間はその人しかいない。

 プリウスは首を横に振った。そんなはずはない。そう思った後で頷いた。でも、そうかもしれない。考えている暇は無かった。電話が切れてしまう。プリウスは見よう見まねで、スマートフォンの画面に表示される電話アイコンに触れ、そのままスライドした。大丈夫、最初に言うべき言葉は知っている。電話の先にいる相手がたとえ誰であったとしても。電話がつながり、通話時間がカウントされ始める。プリウスはスマートフォンを耳に押し当てて、静かに口を開いた。

「もしもし」

《もしもし、お隣さん?》と電話先の相手が言った。《いちご大福盗んで来たけど、一緒に食べる?》

 プリウスは微笑んで頷いた。




 完

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プリウスとはぐれメタル 松本周 @chumatsu11

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