第4話

 実際のブライト・サイズ・オーシャンは沈まなかった。煙をもうもうと上げて港に戻ってきたが、その巨体においては小火に過ぎず、間もなく鎮火された。地元の消防隊が出動していたが、船に乗り込むまでもなかった。旅客船自前の消防機能で事は足りてしまったのだった。それでも手伝うことがないかと消防隊の隊長は申し出ようとしたが、断られた。それどころか彼らは、港に入ることもできなかった。

 港は封鎖されていた。市役所の限られた人員と警察官数名が、ブライト・サイズ・オーシャンから降りてきた船長たちと桟橋で会話するのを、集まった野次馬たちは遠くから眺めるだけだった。プリウス達のクラスメートのばくだんいわが双眼鏡を持ってきていて、レンズの向こうのその様子を目を細めて見つめたが、禿げ頭の市長が暗い顔をして、偉そうな船長と深刻そうな話をしているということが分かるだけで、具体的な内容は全く不明だった。

 船を観に行った生徒たちは、休み時間が終わって次の授業が始まるぎりぎりに戻ってきた。昨日までに船を一度見た者にとっては、大して変わり映えのしない物しか見られなかったわけだが、彼らはそれを不満そうに思っている風でもなかった。彼らにとって、行って、実際に見ることが重要なのだった。

 生徒は全員揃った。

 だが、数学の授業は、教師が到着しても、始まらなかった。

 教室の中は騒然としていた。携帯はどこだよ、とガチャピンというあだ名の男が喚いた。子供向けテレビ番組に出てくる緑の肌色のキャラに似た出っ歯から唾を飛ばして、ジョンイルに食って掛かった。

 知らない、分からない、とジョンイルは言った。

「じゃあ誰が知ってる? 俺らの携帯がどこに行ったか?」

 ジョンイルがガチャピンに肩を掴まれると、特徴的に逆立った天然パーマがぐらぐらゆれた。

 ガチャピンだけではなく、持ち歩いていた者たちを除き、貴重品管理の当番だったジョンイルに預けた者、全員の携帯電話が無くなっていた。ガチャピンはあくまでその先頭に立っているだけで、教室中がざわめいていた。

 財布や携帯は当番が袋に集めて、体育教師に預け、鍵がかかるロッカーにしまっておくルールになっていた。授業が終わると、教師がカギを開け、袋を当番に手渡す。その間誰も袋に触れることはできない。

 そのはずだった。しかし授業の後、ジョンイルが体育教師を伴ってロッカーを開けると、鍵が外れていて、袋の中に入っていた携帯電話が、全て無くなっていたのだった。

 携帯だけが無くなっていて、財布には全く手はつけられていなかった。

「どこだよ?」

 幾人もの同級生に詰め寄られ、ジョンイルは眉間にしわを寄せて、首を横に振った。彼が知る由もなかった。ロッカーに袋を入れて閉じた後、授業が終わって戻ってくるまで、他の生徒たちと同じように、彼は一切ロッカーには近づかなかったのだから。

「ベジータが盗んだってのか?」

 ベジータとは体育教師のあだ名だった。背が小さく、M字型の広い額をしていたので生徒たちからそう呼ばれていた。

 しかしそれはあり得なかった。彼はずっと他学年のバスケの授業をしていて、鍵を掛けた後は、授業が終わるまでロッカーがある教官室に一度も戻っていない。盗んだものをどこかに仕舞えるような暇もなかった。大体どうして教師が男子生徒たち全員の携帯を盗まなくてはならないのか。実際ベジータは、既に被害の状況を学年主任や教頭に報告しに行っているところだった。

 誰が、いつ、なぜ、どうやって盗んだのか。

 鍵は最初に確かに掛けた、とジョンイルはクラスメートたちに証言した。そうであれば誰かがこじ開けたわけだが、誰にそんなことができたのか。何故そんなことをしたのか。金を取らずに携帯電話だけ盗むというのはいかにも奇妙な行為だった。

 プリウスはぼんやりと、窓の外に見える海を眺めていて、自分に向かってクラスメートたちの視線が集中しつつあることに気が付いていなかった。プリウスはもともと携帯電話を持っていなかったため(基本的に喋ることもなくメールを書くこともない彼にとっては全く無用の長物だった)、紛失騒ぎと無関係だったのだ。

 生徒たちの視線は、プリウスだけでなく、ポカリと、タカハシと、マウンテンの四人に分散して注がれていた。

「お前たち、どこにいた?」とガチャピンが言った。

 プリウスはそう声を掛けられても、それが自分に向けられた声だと思い当たらず、無視していた。

「お前だよ、プリウス。あと、マウンテンと、タカハシと、あと誰だっけ」

 ポカリ、とガチャピンの腰ぎんちゃくのコアラが囁いた。

「ポカリ、お前ら四人、どこにいた? お前らだけ、船を観に行かなかっただろ」

 プリウスはやっと振り向いた。

 そこでようやく、周囲に立ちこめる不穏な空気に気が付いた。自分を見つめる同級生たちの顔、その詳細はそれぞれ違ったが、共通する要素を一つだけ抽出するならそれは、疑惑、だった。

 プリウスは眉をひそめた。

「お前らだけが残ったんだ。誰もお前らを見かけてない。お前らどこにいた? ポカリ、答えろよ」

 ポカリは息を飲んだ。そしてあっと言う間に顔面に汗をかきはじめた。何度も息を吸い込み過ぎて、過呼吸の直前になり、た、た、た、と言った。

「卓球場」

「卓球場で何やってたんだお前らは?」

 ガチャピンに詰問され、ポカリはまた、た、た、た、と言った。だがその後が続かなかった。

「卓球に決まってんだろ」

 タカハシの声だった。タカハシは無表情で、肘を机の上に置いて、ガチャピンの顔をじっと見つめていた。

 穏やかな声で、何でもない視線だった。だがその声と眼が、タカハシの専売特許であり、彼に友人を作らせない所以だった。彼にかかると、その何でもないごく普通の言葉だけで、何故か確実に相手の怒りに触れることができるのだった。

 なめてんのかてめえ、と言ってガチャピンがタカハシの目の前まで歩いて行き、彼の机を蹴飛ばした。タカハシは表情を変えずに、椅子に腰かけたまま、ガチャピンを見上げた。

「てめえずっと座ってただけだろうが。何が卓球だ」

「お前らは何やってたんだよ」とタカハシは静かな声で言った。「お前らは船を観に行ったらしいけど、俺ら四人はずっと卓球場にいた。俺ら四人が盗んだって言いたいんだろうが、俺らからすれば、授業サボって出て行ったお前らが何やってたのかの方が分かんねえんだよ。大体、俺とポカリの携帯も盗まれてる。疑わしさは俺たちとお前たちとで何も変わらない。誰かを疑う前にちっとは頭使って考えてんだろうな、自分にもそれが跳ね返ってくることぐらいは」

 ガチャピンは言葉に詰まった。息を少し漏らした後は、無言で眉をゆがめて、タカハシを見下ろしていた。

 彼はタカハシを追求するのを諦めて、視線を右往左往させた。

 そしてその目はプリウスの横顔で止まった。プリウス、とガチャピンは言った。

「プリウス、お前は、携帯持ってないよな、確か」

 プリウスはガチャピンの顔をまっすぐ見返して、頷いた。

「クラスでお前だけだ。携帯持ってないのは。今時あり得ねえ。何で持ってねえんだよ」

 プリウスは首をかしげた。

「お前、本当は携帯が必要だったんじゃないのか。解約されりゃ終わりだが、たぶんSIMフリーの端末も幾つかあったからな、使おうと思えば後からどうにでもなる。売っぱらっちまうことだってできる」

 プリウスは首を横に振った。

「なにが違うんだよ。なんか言えよ」

 プリウスは再び首を横に振った。

 ガチャピンは舌打ちした。

「埒あかねえ。とりあえず、お前のカバンの中見せろよ」

 ガチャピンがプリウスに向かって歩いていこうとすると、途中で巨体が遮った。

 マウンテンだった。

 彼は椅子からおもむろに立ち上がり、傲然とガチャピンを見下ろした。

 ガチャピンは体をびくっと震わせて、見上げた。マウンテンはガチャピンよりも頭一つ半以上身長が高かった。

「俺もだ」とマウンテンは言った。

「何がだよ」

「俺も携帯を持っていない」

 そうだった。このクラスで、正確には、マウンテンとプリウスの二人だけが携帯を持っていなかった。

 ガチャピンは眉間にしわを寄せて、そりゃマウンテンゴリラに携帯は必要ないだろう、と思ったが、口に出してはこう言った。

「だから、何だよ」

「疑うなら、俺もだ」

「そうかよ」

「何故プリウスが先だ。何故先に俺を調べない」

「どうでもいいだろ、んなことは」

「何故ポカリを最初に責め、次にプリウスを問い質した。俺ではなかった理由は何だ。答えろ。三度は言わん」

「分かった。後で訊いてやるよ。あいつのカバンと机を調べた後で」

 ガチャピンはマウンテンの体を避け、迂回してプリウスの席に向かった。

 マウンテンの腕が真横に伸び、それに掴まれたガチャピンの体が浮き上がった。

 次の瞬間、放り投げられたガチャピンの体が空中で回転した。

 彼の体が回転する様を、生徒たちと、授業を始められないでいた数学教師のドナルド(ドナルドダックのように唇がとがっていた)は、全員、それがまるでスローモーションであるかのように見上げた。

 そして、ガチャピンはさかさまになって教室の中央に落下した。ガチャピンの体が幾つかの机に衝突し、凄まじい音を立ててそれらを弾き飛ばした。

 何人かの、うおお、という叫び声が教室に響き渡った。

 ガチャピン、とコアラが叫んで、ぴくりとも動かない彼のもとに駆け寄った。ガチャピンは白目を剥いて完全に失神していた。

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