第3話

 エンジントラブルのためにこの街の港に一時停泊した「ブライト・サイズ・オーシャン」は、太陽が南の空に昇りきる前に港を離れて次の目的地に出立していった。市長以下の市役所員は歓迎対応やマスコミ対応に追われて疲れ切って、自分たちの縄張りを占拠された港湾労働者たちは憤りつつも機材資材の提供に協力してやり、去って行く巨大な旅客船を見送った。

 プリウスが所属する三年生の教室と、彼が座る席からは海が見渡せた。プリウスは汽笛を鳴らして海の向こうに旅立つ旅客船の後ろ姿をぼんやりと見送った。

 プリウスが通う高校は男子校で、坂の上にあり、偏差値は高くも低くもない中くらいのレベルの高校だった。そういう高校が概ねどこもそうであるように、常にどことなく無気力で、可能性よりは不可能性の方が幅を利かせ、生産性のない会話が教室内を覆い、行く当てのない性欲をはじめとした諸々の衝動が壁にぶつかって跳ね返される、脊髄反射的な躁鬱症状に覆われた空間だった。川を挟んで数百メートル向こう側に女子高があり、プリウスの高校の生徒たちはその女子高の事を「タタラ場」と呼んでいた。アニメの「もののけ姫」に登場する女ばかりが働く製鉄場にちなんでそう呼んだのだが、それは彼女たちがボランティアで近所の老人ホームの手伝いに行ったり、始業前に高校の周囲の道を掃除するような、プリウスの同級生たちにとっては信じがたい働き者たちだったからだ。加えて彼女たちの吹奏楽部や演劇部は全国大会の常連で、偏差値もプリウスの高校より10以上高かった。二つの高校の生徒たちの気風は根底から全く異なり、互いに反目するか徹底的に無視し合い、交流と呼べるものは全く存在しなかった。

 3年間を過ごして卒業する以外に何の出口も無いこの場所に、多くの者が少なからず鬱屈を抱えていたが、プリウスはそれについて深く考えたことは無かった。周りにいるのが男であろうと女であろうと、どうせ誰とも話さないことに変わりはない。

 2時限目の授業が始まる前、プリウスは本を読んでいた。それはインドのとある村に住む大地主がその遺産で村人全員をインド全土を巡る旅に送り出すという内容の、とてつもなく長い物語だった。その分厚い本のページを繰っていると、おい、とプリウスの耳元で声がした。

 プリウスは振り向いた。隣りの席に座る男が彼の方をじっと見ていた。

 男はクラスメートから「ビギン」と呼ばれていた。同名の沖縄県出身のアコースティックバンドのボーカルに、恐ろしくよく似た顔をしていたからだ。ビギンはただでさえ巨大な顔を必要以上にプリウスに近付けてきたので、視界いっぱいが顔になってしまう前にプリウスは少し身を引いた。

「お前、今日の英語の予習やってきた?」

 プリウスは首を横に振った。

「まじかよ。何でやってねえんだよ」

 プリウスはもう一度首を横に振った。昨日は一日中絵を描いていて、その間、英語の予習をやる必要がある、という思いが彼の頭によぎることは一切なかった。

「まじかよ。誰かやってねえのかよ。今日俺絶対当てられるんだよ。お前やってねえのかよ『ばくだんいわ』」

 ビギンはそう言って、プリウスの前の席の男に声を掛けた。「ばくだんいわ」と呼ばれた男が振り向いて、首を横に振った。

「俺先週当たったから、今日はねえんだ」

 ばくだんいわはそう言った。彼がばくだんいわと呼ばれているのは、テレビゲームのドラゴンクエストシリーズに登場する岩石に顔が刻まれた同名の敵キャラクターに、恐ろしくよく似ていたからだ。ビギンはばくだんいわの肩を掴んで、お前そういう甘い考えで生きていけると思ってんのか、と言った。ばくだんいわがそれに何か言い返すと、二人は昨日見たテレビ番組やゲームや漫画のことについて取りとめなく話し始めた。二人がプリウスの方を振り返ることはもう無かった。プリウスは再び、長いインドの物語を読み始めた。

 プリウスの同級生は全員、何らかのあだ名で呼ばれていた。たとえば、プリウスの左斜め前に座る男は「ジョンイル」と呼ばれていた。その奇抜に逆立った特徴的なヘアスタイルが北朝鮮の故金正日総書記に恐ろしくよく似ていたからだ。また、プリウスの右二つ隣りの席に座る男は、「曙」と呼ばれていた。恐ろしくデブだったからだ。誰もがそうした、表面的な容姿や特性に基づいた分かりやすいあだ名で呼ばれていたため、プリウスは彼らの本名をほとんど覚えていなかった。プリウスと同じように、あだ名で呼ばれる側の誰もが、それを不快に思って訂正させようとしたりする風でもなく、その方が自分の本来の名前であるかのように受け入れていた。

 予鈴が鳴り、プリウスは本を閉じた。そしてその代わりに教科書やノートを開いて机の上に置いた。しかしプリウスは授業に集中できなかった。この時に始まった話ではなく、高校に入学して以来、彼はほとんどの時間、授業とは全く別のことを考えている。彼の一番の情熱は絵画にあったが、絵のことだけを考えているわけではない。さっきまで読んでいた本のことや、窓の外に流れる風の音、誰かが言った言葉、トニーの黄金の毛並み、昨日聴いた音楽、そして具体的な何かではない、数多くの取り留めのないことが彼の頭の周囲と内部でぐるぐると回り、彼は延々とそれを追いかけ続けているのだった。

 そのため、彼の学業成績はどんどん落ち込んで来ていた。プリウスなりにどうにか騙し騙し上手くやってきたつもりだったのだが、最近はそれも難しくなり、最早美術以外の彼の成績は惨憺たる有様だった。この勢いは、増すことはあっても止まることは無いだろう、とプリウスは思った。

 お前この成績だと美大の筆記すら危ういぞ、と進路相談で担任教師は言った。

 プリウスは無言で頷いた。この世で彼の成績を心配してくれるのは教師だけだった。両親は昔から彼の学業について全く関心を示さず、クラスメートたちのプリウスに対する認識は「無言で絵を描く男」、ただその一点だったから、彼の成績が良かろうが悪かろうが全くどうでも良いことだった。それは歪んだ状況だとプリウスは思っていた。だから、アドバイスをする教師の深刻な顔は、唯一の現実との接点、学校の外で繰り広げられているはずの現実社会の顔そのものとなって、その通り深刻にプリウスには受け止められたのだった。

 事態の進行に対し、彼なりに焦ってはいた。彼は自分の絵を純朴に信じてはいなかった。描いている時は大体夢中だが、描き終わるとほとんどの場合に直ちに幻滅がやって来る。そして描いていない時は自分の絵が誰よりも下手で粗末な、取るに足らないものとしか思えなかった。自分は絵だけを描いていればいいとはプリウスは思えなかった。そもそも自分が美大に行きたいのかどうかも良く分からなかった。自分がどんな人生を歩もうとしているのかまだ見定められない状況下では、とりあえずテストでそれなりの点を取っておくべきだ、と頭では分かっていた。しかしそのための集中力がどこにもないのだった。

 ただ、昨日描いたあの船の絵は多少ましだったかもしれない、とプリウスは思った。まだ途中だし、上手く描けているかどうかは分からないが、描きたかった光とか風とかの感触のようなものが、あの歪な巨大な船と濁った港の海の中に、そのまま混ざって刻みこまれ、手で触れられるような気が、少しだけした。

 プリウスは今朝逢った少女のことをふと思い出した。変な顔をした子だったな、と彼は思った。その表情だけが彼の脳裏に焼き付いて、留まり、他のものが消えた。ただ少女の顔が目の前にあって、何にもつながって行かなかった。プリウスの頭の中で、少女とプリウスは引き続き延々と睨み合っていた。

 そうしてぼんやり考え事をしていると、いつもどおり何事も起こらないまま英語の授業は終わった。次の授業は体育だった。プリウスはジャージに着替えて体育館に向かった。

 今日の体育は卓球だった。クラスメートは数人ずつのグループに分かれ、卓球場に並べられた幾つもの台にそれぞれ振り分けられる。プリウスもラケットとピンポン玉を手に取って、卓球台に向かった。

 男子校だろうが共学だろうが大体の場合、若者たちに自由意志の下に小集団を形成させると、幾らかの時間と何度かのシャッフルを経て、グループは固定化される。近似の属性を持つものたちが集まり、グループは水と油のようにはっきりと分離され、止むを得ずいつもと同じ顔ぶれとなる。プリウスが属するグループも、構成員はいつも同じメンバー4人だった。しかしプリウスを含め、彼らは誰一人として、自分たちがそこに属しているとは思っていなかった。彼らは決してそのグループを形成するために積極的に集まったわけではなく、ただ全ての場所から弾きだされただけだった。成績の良い者たち、遊び人たち、運動部員たち、文化部員たち、地味で特に何の志向もない者たちがそれぞれグループを作ったが、彼ら4人はそのいずれにも属すことができなかった。他人とコミュニケーションを取ることに非積極的で、どの属性にも当てはまらずにはみ出してしまった結果残ったのが、彼ら4人だったのだ。

 周囲の卓球台でピンポン球を叩くラケットの音が軽快に鳴り響き、皆が和気藹々と卓球に興じる中、いつもどおり残された彼ら4人は、ただ立ち尽くしていた。

 誰も台の前に立とうとしなかった。シングルスかダブルスどちらをやろうか、とか、組を振り分けよう、とか言い出す者もいなかった。大体プリウス以外の3人のうち2人はラケットを持ってきてすらいなかった。

 数分後、ラケットを持っていた男が、プリウスに声を掛けた。

「や、や、や、やろう」

 彼はまだ全く体を動かしていないのに、顔中に汗をかいていた。ジャージの脇の下も既に汗で黒ずんでいた。

 彼は皆からポカリと呼ばれていた。異常に汗かきで、いつも水分補給のためにポカリスエットを飲んでいたので、誰ともなく自然とそう呼ぶようになった。

 プリウスは頷いて、台の前に立った。そしてポカリに向かってゆるいサーブを打った。ポカリはバックハンドでそれを更にゆるく打ち返してきた。プリウスが真っ直ぐ迎え打つと、ピンポン球はポカリの差し出したラケットにぶつかって天井に跳ね上がった。ポカリは床に落ちて点々と跳ねるピンポン球をプリウスに返すと、プリウスは全く同じようなゆるいサービスを打ち、ポカリがまたゆるいリターンを返し、再びプリウスの真っ直ぐのフォアハンドでプリウスにポイントが付いた。

 何度やっても同じだった。これまで何度か二人は授業で卓球をやったが、ラリーが続いたことは一度としてなかった。

 残った二人は、壊れたメトロノームのようなその光景を茫漠と眺めていた。一人は床に座り込んで、もう一人は腕を組んで立ち尽くして。

 足を投げ出して座りこんでいる男はタカハシと呼ばれていた。それも本名ではない。80年代に一世を風靡したゲームの伝道師「高橋名人」にちなんでそう呼ばれていた。猛烈にゲームが強かったからだ。彼は昔から地元のゲームセンターに入り浸っていたが、ある日、彼にパズルゲームで対戦を挑んだクラスメートがたった8秒で負かされたことをきっかけに、爆発的にその呼び名が広まった。「高橋名人」がテレビや雑誌に出演して日本中の少年に親しまれていたのは遥か昔のことで、もはや彼ら自身は誰もその実体を知らないのに何故その名がつけられたのかは分からないが、とにかく誰もが彼をそう呼んだ。その他、格闘ゲームやレースゲームでも多くの少年たちがタカハシに対戦を挑んだが、彼はどのゲームにおいても常人と思えないほどの反射神経と正確なレバーやボタンのコントロールで対戦相手を圧倒し、誰も寄せ付けなかった。

 あまりにも強すぎるので、彼に挑む者はどんどん減って行った。たまに県外から噂を聞き付けた挑戦者がやってくることもあったが、ほとんど一瞬で返り討ちにあった。

 その結果、タカハシは孤独になった。彼のプレーは一切の情け容赦がなく、絶望を植え付けるほど徹底的に敵を叩きのめすというスタイルであり、またゲーム台を離れても極めて無愛想であったことから、彼と周囲の人間に継続的なコミュニケーションが成立する余地がなかったのだった。

「いつまで続くんだよ、これ。全く続いてねえけど」

 もう30回以上、プリウスの叩いたピンポン玉がポカリのラケットにぶつかってあさっての方向に弾き飛ばされるのを眺めて、タカハシは吐き捨てるようにそう呟いた。

「じゃあお前がやれ」

 タカハシは、その低い声がした方に振り向いて、見上げた。

 恐ろしく背が高く体の分厚いその男は、腕を組んで真っ直ぐに立ち、プリウスとポカリの卓球を見つめていた。タカハシの方は見ていなかった。眉間に深く皺の寄った、いかつい顔だった。

 彼はマウンテンと呼ばれていた。顔も、その堂々たる体躯も、マウンテンゴリラに恐ろしくよく似ていたからだ。

「何か言ったか?」

「お前がやれ」

「やるわけねえだろ」

「やりもしない癖に口だけ出すな。気に入らん」

 タカハシはマウンテンの彫りの深い顔を見上げながら、鼻の下を指で掻いた。

 それはこれまでも、少しだけ違う言い回しで、ほとんど同じような意図で、二人の間で何度も繰り返されてきた会話だった。タカハシはいつも気だるそうに足を投げ出し、マウンテンはいつも直立不動であたりを見下ろしていた。タカハシにはマウンテンが何を考えて生きているのか全く分からなかった。タカハシだけでなく他の誰もマウンテンのことを詳しく知らなかった。マウンテンはプリウスほどの無口ではなかったが、自分自身のことは誰にも話さない男で、いつも絵を描いている等の分かりやすい特徴がないだけに、プリウス以上に謎に包まれた存在だった。おそらくは糞真面目な奴なのだろうがそれ以上のことは何も分からん、とタカハシは思った。タカハシから見てマウンテンは、ある日森から間違って町に出てきてしまい、そのまま人間の言葉を覚えて高校生になってしまったゴリラそのものだった。

 会話はいつもここで終わりだった。タカハシが愚痴り、マウンテンが咎める。タカハシはマウンテンの言い分を認め、非生産的なため息のような愚痴を吐くことを止め、傲罰のように終わらないプリウスとポカリの対戦を眺め続けるのだった。

 ポカリが振るラケットの真ん中に、ピンポン玉がぶつかり、初めてリターンが成功した。プリウスのコートにピンポン玉がカーブを描いて落ち、プリウスはそれを拾いきれず、ポカリにポイントが付いた。

 プリウスは微笑んだ。ポカリはびっくりした顔で、ふ、ふ、ふーん、と言った。

「俺のことより」とタカハシは言った、「何でお前はやらねえんだ?」

「割れる」とマウンテンは言った。

「は?」

「俺がラケットを振るとピンポン玉が割れる」

 おい、なんかやばいぞ、と突然誰かが叫んだ。

 タカハシとマウンテンはその声の方に振り向いた。

 その男はハヤオと呼ばれていた。名字が宮崎だったからだ。

 ハヤオは手にスマートフォンを持っていた。体育の授業中は携帯電話類や金品は全員のものを一か所に集めて保管しておくルールだったが、彼のように他校に恋人がいたり、その他一時でも情報から遮断されることを忌避する幾ばくかの生徒は、常に携帯を持ち歩いていた。

 ハヤオは周囲に向かってスマートフォンの液晶画面を掲げて言った。

「『ブライトサイズ』が燃えてるらしいぞ」

 クラスメートたちは直ちに卓球を止め、ハヤオの下に群がった。おいなんだそれ、とか、どこ情報だ、とか言いながら皆先を争ってハヤオのスマートフォンの画面を覗き込んだ。

「ツイッターだ。写真も上がってる」

 その画面には確かに、船体の脇と甲板から煙を上げて入港して来るブライト・サイズ・オーシャンの巨体が写っていた。写真に写るのは間違いなく、昨日この街の誰もが見物に行ったあの客船であり、その周囲を縁取る海と港は、彼らの街のそれだった。

 数時間前に出港したばかりのブライト・サイズ・オーシャンが、また何かトラブルが起きて戻ってきたのだ。

 まじかこれ、やべーぜこれ、と声が上がった。ハヤオ以外にモバイルを持ちこんでいた何人かの生徒は自分の手元で同じ情報を確認した。既に複数の書き込みが検索で上がってきていて、それらはいずれもかなりの勢いでWeb上に拡散していく最中だった。

「見に行こうぜ」

 ハヤオはそう言った。

 一瞬、皆黙った。

 高校は坂の上にあるので、校舎の幾つかのポイントからは港が見下ろせる。あるいは、学校を出て港まで駆け下りて行っても往復で30分もかからない。彼らは示し合わせたように周囲を見回した。今、体育教師はいない。複数のクラスを掛け持ちしているため、別学年の授業でバスケットコートにいるのだった。そのことを確認すると、あっという間に彼らは卓球場から駆け出して行った。

 どたどたとやかましい足音を響かせた後、卓球場は一気に静まり返った。

 ただ一つの、ピンポン玉が弾かれる音だけが聞こえた。

 プリウスとポカリとタカハシとマウンテンの4人だけがその場に残っていた。

 プリウスとポカリは卓球を続けていた。タカハシは足を投げ出して座りこみ、マウンテンは腕を組んで直立不動で佇んでいた。

 さっきまでと違うのは、プリウスとポカリの間でラリーが続いていることだった。極めてゆったりしたスピードの山なりのボールが、何度も何度もプリウスとポカリの間を往復した。メトロノームのテンポ40くらいの、カッ、カッ、というリズムが、静寂の中で空気を震わせた。ポカリは肩をいからせて、プリウスはだらりと左腕を垂らして真っ直ぐに立って、二人の間で定められたタイミングと力でラケットをゆっくり振った。

 タカハシとマウンテンは、その光景をじっと見つめていた。二人とも、表情も姿勢もさっきまでとほとんど変わらなかった。一言もしゃべらず、眼だけがピンポン玉の動きを追って左右に振れた。

 ラリーはいつまでも終わらなかった。

 プリウスは静かな表情と最低限の動きでラケットを振り続け、ポカリは全身汗でびしょぬれになって、細い眼を更に細めてピンポン玉に喰らいついた。

 10分以上経った。

 ポカリは、掬いあげるようにラケットを振り続けていたが、ある時、斜め下に斬り払うようにピンポン球を打った。弾かれた球はプリウスの立つ位置と逆サイドに向かって行った。プリウスは慌ててラケットを差し出したが、どうやっても届かない位置とスピードだった。

 しかし、ピンポン玉はぎりぎりで台を逸れ、アウトになった。こつ、こつ、と卓球場をピンポン玉が跳ねて転がって行った。

「よ、よ、41対1」

 そうポカリは言って、荒く息を吐いて、その場に座り込んだ。

 タカハシは深呼吸した。隣を見上げると、マウンテンがいつの間にかどこにもいなかった。

 プリウスはピンポン球を拾って戻って来ると、少しだけ球を差し出しながら、タカハシの方を見た。プリウスは無表情で、タカハシは眉間にしわを寄せた。

「やらねえよ」とタカハシは言った。

 プリウスは頷いて、ラケットと球を台の上に置いて、卓球場の壁にもたれかかって座り込んだ。3人とも無言になって、完全な静寂があたりを包みこんだ。

 マウンテンが戻ってきた。彼は手にポカリスエットのペットボトルを持っていた。

「飲め」

 そう言って座り込んだポカリにペットボトルを差し出した。サ、サ、サンキュ、と言ってポカリはポカリスエットを受け取り、10秒で全て飲み干した。

「お前たちは船を見に行かないのか」

 マウンテンは3人の顔を見回して、そう尋ねた。プリウスとポカリは頷いた。

 ポカリはただぜいぜいと息を荒く吐いていて、タカハシはその問いを無視してどこでもないどこかに顔を向けていた。

 マウンテンの視線は、プリウスの顔をまっすぐ見据えて固定された。プリウスは首をかしげてマウンテンを見返した。

「お前も見に行かないのか」

 プリウスは頷いた。

「何故行かないんだ」

 プリウスはまた首をかしげた。マウンテンがプリウスから視線をそらさずにいると、プリウスは少し俯いた。顎に指を当て、何事か思案する風だった。

 しばらくしてプリウスは立ち上がった。卓球場の隅に自立式の、回転脚付きの黒板があって、彼はその前に立ち、白いチョークを手に取った。

 その小さな黒板の面いっぱいに、プリウスはチョークを走らせた。唐突に、上から下、斜め、右から左に、不規則な曲線が凄まじいスピードで行き交った。黒板の端を左手で掴んで支え、右手でチョークを叩きつけ滑らせた。突然中身が別の人間に入れ替わったような挙動だった。授業中ただひたすらぼんやりしている彼、さっきまで卓球のラケットを直立不動でゆるく振っていた彼とはかけ離れた動きだった。

 チョークの線が引かれるがしがしという音が卓球場に響いた。

 マウンテンたち3人は、そのプリウスの動きに目を奪われたが、彼が何を描いているのかは全く分からなかった。文字ではないから絵だろうということが分かっただけだった。彼の背中に遮られて様子が良く見えないにしても、ただ意味を持たない曲線が不規則に生えて、行ったり来たりしているだけにしか見えなかった。

 だが数分が経ち、ポカリが、あ、と言った。

「船か」

 プリウスはチョークの腹を使って太い線を走らせて、指でそれをぼかし、ブラシで拭くように黒板消しを線に撫でつけた。そしてまたチョークの先端を叩きつけて線を引いた。

 更に数分たって、プリウスは黒板から手を離し、チョークを置いた。

 そこには、海の上で燃え盛るブライト・サイズ・オーシャンの姿が描かれていた。線は極めて乱暴で、ディテールはほとんど描かれていなかった。白いチョークの粉の渦の中で、白い流線型の塊が、傾き、炎と煙を上げる様が、形よりも先にイメージとなってそこにあった。

 マウンテンも、タカハシも、ポカリも、目を見開いてその絵を見つめた。

 三人の方を見て、プリウスは自分の頭を指差した。そしてその後で自分の胸の真ん中を指で叩いた。

 タカハシは、何か言おうと思った。だが言葉が何一つ出てこなかった。黒板にあっという間に描かれた、海の上で今にも崩れ落ちそうな船の絵と、平然とした顔で手にこびりついたチョークの粉を払うプリウスの姿を交互に眺めて、何度も息を吸ったり吐いたりするだけだった。

 す、す、す、とポカリが言った。「凄え」

 マウンテンは頷いた。ただ、林の中を静かに歩むゴリラのような表情で何度も頷いた。

 タカハシは深く息をついて、隣に座り込んだプリウスの方を向いた。

「お前、これ、想像で描いたのか」とタカハシは訊いた。

 プリウスは、少し考えて、首を横に振った。

「どういう意味だよ。お前まだ見ちゃいないだろ。なのに見えてんのか」

 プリウスは頷いた。

「こんなに燃えてたら、多分沈むぜこいつ」

 プリウスは微笑んで頷いた。

 そしてプリウスとタカハシは黒板の絵に顔を向けた。

 4人とも、チャイムが鳴るまで無言で絵を眺め続けた。タカハシはじっと絵を見つめて、描かれた絵のほんの少し先の時間に客船が沈没していく姿を想像しようとした。だが上手くいかなかった。頭の中で、その火の勢いがどれだけ激しくなっても、船体がいくら傾いても、船はいつまでも燃え続け、渦を巻く海の上を漂っていた。

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