第2話
プリウスはいつも朝早く目覚めた。高校に行く前にトニーを散歩に連れていくのが彼の日課で、トニーはプリウスと一緒に歩くのを好み、一度家を出るとなかなか帰ろうとしなかったから、それに付き合うためには始業の二時間半前には目覚める必要があったのだ。
早起きは嫌いではなかった。トニーとの散歩も嫌いではなかった。首輪に繋がったリードを引っ張って、上機嫌に歩いて行くアメリカンコッカースパニエルの金色の毛皮に、朝の光が反射して輝き、街と道が美しく輝くのを眺めると、息を吸い込むたびに一日が動き始める気配を感じて、勝手に体が目覚め、活き活きと全身に血が巡っていくのだった。
だがこの日プリウスはまだ夢うつつだった。あくびをかみ殺し、トニーに手を引っ張られながら重い瞼を何度もこすった。多分寝床に入ったのはせいぜい太陽が昇る1時間程度前で、ほとんど眠れていなかった。彼はだいたい日付が変わるころに自動的に眠りに落ちてしまうが、昨日だけはそうはいかなかった。
街の様子もいつもとは違った。普段ならこの時間、街はまだ目覚める途中で、行き交う人や車の音よりも、鳥の鳴き声があたりを支配し、それはほとんど静寂と変わらなかった。だがこの日プリウスと同じように、街は昨晩眠り損ねていて余熱が続いたままだった。多くの軒先にはざわめきがあり、道の途中で話を交わす集まりを幾つも見かけた。トニーに引かれながら、プリウスは朝帰りの男たちと何人もすれ違った。港湾労働者で、彼らの仕事は普段なら始まったばかりの頃のはずだった。彼らの表情には興奮の残り火があったが、全身はくたびれきっていて、あくびをしながら通り過ぎて行った。
もう、昼前には出航するらしいな。
そりゃそうだろ。でかすぎて置いとけねえ。
聞くともなく、プリウスは男たちの会話を聞いた。
プリウスとトニーは港に向かって行った。いつもの散歩のコースであったからだが、そうでなければコースを変えて立ち寄ったところだった。
既に旅客船の威容は、家々の合間、緩やかに下って曲がる道の向こうにはっきりと見えていた。朝日に照らされた真っ白い船体が煌々と輝いている。プリウスは昨日、山の上から何時間も船を見下ろして絵に描いたので、目を閉じてもその姿をはっきりと脳裏に映し出すことができた。
とてつもなく巨大な船を見上げながら、まるで不時着した宇宙船のようだとプリウスは思った。あるいは、横倒しになった三ツ星ホテルのようだった。
もちろん、この街で生まれ育ってロクに都会へ出た事もないプリウスはこんな巨大なホテルを見たことはない。乗客数は5000以上らしいが、実際客室の窓が多すぎて数え切れなかった。昨日港に係留された直後は、乗客たちは船の上から大いに手を振って歓声に応えていたが、恐らく疲れ切ったのだろう、甲板にも窓のそばにも人の気配はなかった。
桟橋に辿りつくと、「ブライト・サイズ・オーシャン」の船首が息苦しいほどの圧力でこちらを向いていた。まるで海の化け物が港を噛み砕こうとする直前のようだった。直前と言うか、実際に、昨日の夕方この船にこの港の一部は踏みつけられてしまった。「彼女」が普段停泊する港に比べてこの漁港は小さすぎ、船内で起こったエンジントラブルの収拾に当たっていた船員たちはいささか取り乱していて、手元が少々狂ってしまったのだ。アンカーとエンジンのコントロールが上手くいかず、「彼女」はその巨体を少し港にぶつけて停止した。怪我人は出なかったが、そのお陰で古いお社が全壊した。桟橋の端に海に向かって立つ、ささやかで薄汚れたお社だった。それがいつから建っていたのかも、何故そんな場所に建てられていたのかも、誰も所以を知らない。ただ曰く伝えられているのは、そのお社に宿る神様はこの街を海の危険から長く守り続けてきたのだと言う。お社はプリウスがこの街にやってきた頃には既に、海から吹きつける潮と風に打ちのめされてぼろぼろだった。神様には名前もなく、これまでほとんどだれからも顧みられることは無かった。破壊されたことによってようやく皆、それがあったことを思い出したというくらいの存在だった。
今朝になっても、崩れ落ちたお社の周囲は三角コーンとテープで区切られ立ち入り禁止になっていた。ブライト・サイズ・オーシャンの方に悪気はなかっただろう。普段この港に就航するフェリーの乗客数は精々500人が定員で、その全長は100メートルもない。だから今も、「ブライト・サイズ・オーシャン」はその全身を港に収めることができず、半分以上は桟橋からはみ出していた。
船は音もなく眠りに落ちていて、フェリーや漁船を護衛艦のように周囲に侍らしていた。偉大さと退廃のぎりぎりだとプリウスは思った。神話に出てくる主神のようでもあり、昔アニメ映画の「天空の城ラピュタ」で見た、鈍重で重苦しく悲しげな飛行船のようでもあった。それは自らの肥大化に耐えられずに自滅した文明の象徴だった。
プリウスはこの船を昨日一晩描き続けた。丘の上から、入港してくる船を見下ろして筆を走らせ続け、太陽が沈むまでスケッチブックに粗描した。あたりから光が失せてしまうとトニーを連れて家に帰り、真っ白いキャンバスに向かい本画を描き始めた。スケッチブックの下絵はほとんど必要なく、瞼の裏に船の姿は焼き付いていた。プリウスは色を塗りたくった。白と黄と青と緑、これほど明るい色を多く使うのは久しぶりだった。その絵は全体としては黄金色に輝いていた。
真夜中を過ぎても描き続けながら、プリウスは何も考えていなかった。普段であれば、この絵を描く意味はあるのだろうかとか、もっと良い描き方があるのではないかとか、ごちゃごちゃと考えごとをして何度か立ち止まるところだったが、昨晩はそうした考えは一切浮かばなかった。とにかく現時点のイメージを出し尽くしてからでないと眠れないと思った。
そして結局描き終える前に太陽が昇りかけ、トニーが散歩をせがんで飛びついてくるまではほとんど時間が残っていなかった。
親子連れが何人か、客船を見上げて桟橋を散歩していた。子供が飛び跳ねながら、でかい、でかい、と叫んではしゃいでいる。あの子の眼には船は万里の長城のように見えているだろうとプリウスは思った。この真下の位置から見ると、ほとんどただのビルだ。蜂の巣のように並ぶ客室とそれを支える真っ白い船体を見上げていると、子供の父親から声を掛けられた。
「写真を撮ってもらえませんか」
プリウスは微笑んで頷き、父親が差し出すカメラを受け取った。彼ら家族はこの街の住人ではないだろう、とプリウスは思った。きっと昨日のニュースを見て、近くの街から見物にやってきたのだ。
若い父親と母親の間で子供が両手でピースサインを作って満面の笑顔でポーズを取った。だが船が巨大すぎるので、どういうアングルから撮っても上手くいかず、家族とプリウスは一旦船首の方まで移動した。地べたに座り込んで船を見上げるようにシャッターを切ると、子供は、お兄ちゃんありがとう、とプリウスに言って、トニーの頭を撫で、カメラを受け取り、両親も礼を言って去って行った。
黄色い係留杭に腰掛けて、プリウスは船を見上げた。もう誰もいない。風が穏やかで、波はほとんど立っていない。この時間に港がこれほど静まり返ることは滅多にない。目を閉じると、すぐに眠ってしまいそうだった。
トニーが小さく吠えた。
プリウスは目を開いてまばたきした。散歩の続きに行きたいんだな、と理解して頷いて、足元のトニーを見下ろすと、しかし、トニーはプリウスの方を見ていなかった。トニーはもう一度、プリウスでなく別の何かに向かって吠えた。トニーの鼻先が示す方向に振り向くと、数十メートル向こうのフェリー待合所の前に少女がいた。水色のブラウスに紺のスカートというシンプルな格好の、プリウスと同い年くらいの少女だった。陽が少し昇り、彼女の全身はそれに照らされていた。
彼女はプリウスの方を見ていた。彼は一度振り返ってあたりを見回したが、彼女の目線の先にいるのは自分だけだった。船を見つめる目線にしては低すぎる。
光に少し目を細めた。知らない少女だった。プリウスは人の顔を覚えるのが不得手で、しかも逆光気味ではっきり顔が見えづらかったが、知り合いでないということは分かった。彼女の髪が風にあおられ、その右目を隠した。
プリウスは首を傾げた。
彼女が自分の方をただ見ているだけでなく、思い切り睨みつけているように見えたのだった。
距離があったので、プリウスが目を細めて見つめると、彼女の拳は固く握りしめられていて、背筋をまっすぐ伸ばした全身は強張っていた。彼女の周囲で空気が緊張しているように見える。その緊張感がプリウスの眉間まで伝わってきた。気のせいではない。足下を見下ろすと、トニーが少女を睨みつけ、歯を剥き出しにして低く唸っているのだ。
プリウスは念のためもう一度辺りを見回して、ここにあるのが巨大な客船と、幾つかのフェリーと漁船と、海と、空と、自分とトニーだけだということを確認して、改めて少女の方に向き直った。何度瞬きしても、他のものが全く目に入っていないように感じられるほど、真っ直ぐに彼女はプリウスだけを見ていた。プリウスは今にも彼女が自分の方に殴りかかって来るのではないかと感じた。噛みつくような左目だけの視線は、それくらいの迫力だった。彼女は女子高生だろうが、そう見えなかった。どちらかと言うと森でばったり出くわした野生動物のような雰囲気だった。
なんだろうあの子は、とプリウスは思った。
しばらく二人は視線をぶつけ合った。
少女の視線はますます強く頑なになって行き、プリウスはそれを茫然と見返した。
何か自分に用があるのだろう、と彼は思った。何か言いたいことがあるのだろう。
それが何なのかを考え始めてすぐ、プリウスは思い当たった。彼女はおそらく旅客船を見に来たのだ。そしてたぶん自分ひとりだけで見たかったのだろう。この位置に僕がいると、きっと気が逸らされて邪魔なのに違いない。
プリウスは係留杭から腰を上げて歩き出した。
トニーの首輪に繋がったリードを引っ張って、プリウスはフェリー待合所に向かって行った。それは自分を睨みつける少女の方に向かって歩いて行くことだったが、大して広くもない桟橋と港であったからそれ以外の道がなく、出て行くには大きく避けることはできなかった。最早プリウスは少女と目を合わせなかったが、彼女がずっと立ち尽くして自分の方を睨み続けているのは分かっていた。そして足元のトニーもとことこ歩きながら短い歯をずっと剥き出しにして、少女への敵意を露わにしていた。
「可愛くない犬」
通り過ぎる瞬間に、少女は短くそう言った。
プリウスは歩みを止めずに少しだけ振り向いて、また首をかしげた。
間近で見る少女の目は瞳の黒が円く大きく、そのせいで遠くから見ていた時よりも子供っぽく見えた。その目に睨みつけられながら、プリウスは少女に背を向けて歩き続けた。背中に彼女の視線が突き刺さりつづけているのを感じた。
プリウスは首をかしげたままだった。あの子は何なのだろう。見覚えは全く無い。会ったこともない知らない女の子だ、と思ったが、そうと断定できるほど自分の物覚えには自信がない。彼女の方は自分のことを知っているのだろうか。
直接訊けば良かったのかもしれないが、プリウスは、自分の疑問を誰かに言葉で問い質す、という発想を基本的に持っていなかった。そこにあるものを受け取ったり、誰かの声に頷くことはしても、自分から話しかけることは全くなかった。どうしてそういう性分なのか彼自身にも分からなかった。ごく小さな頃からそうだった。
そして、それが「プリウス」という彼のあだ名の所以だった。何も話さない。いつも静かで、いつの間にかそこにいる。その様子がまるでトヨタのハイブリッドカーのように静謐であることから、誰ともなく彼をそう呼ぶようになり、やがて誰も彼を本名で呼ばなくなった。彼自身、既にその名の方が自分に馴染んでいると感じているくらいだった。
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